ハレ・ヘンデル音楽祭2019(6)

 イタリア・ピアチェンツァで学んだメゾ・ソプラノ、ジュゼッピーナ・ブリデッリが6月9日、音楽祭3日目のフュージョン系公演に引き続きステージに上がる。今度はソロの舞台だ。前公演で「おっ!」と思わされた歌い手。さすが有能な主催者だけあって、ブリデッリひとりの舞台も用意していた。
 「ヘンデルとポルポラのオペラにおける女性史」とは、まるで論文のようなタイトルだが、プログラム自体は聴きやすいもの。とはいえやはり、公演全体には生真面目な雰囲気が漂う。歌い手の個性がそうさせるのだろう。
 ブリデッリの基本姿勢はこうだ。声色は内向と外向のふたつ。そこにヴィブラートの多寡を掛け合わせて対比やグラデーションを作る。たとえばポルポラのアリア《海の神よ Nume che reggi ’l mare》。ダ・カーポアリアの前半をノンヴィブラートの外向的な声で、後半をヴィブラート付きの内向的な声で、ダ・カーポをノンヴィブラートの外向的な声で装飾を施して歌う。
 それほど複雑なことをしているわけでないのだが、これだけの工夫でも、作品世界の輪郭ははっきりするのだから、大したものだ。まだまだ手数自体は少ない。ただ工夫を惜しまぬ心意気がある。勉強と場数の量で次のステップに進んで欲しい。またヘンデル音楽祭で会いたい歌手のひとり。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(5)

 歌い手にスポットライトを当てて音楽を楽しむ。たくさんの目と耳が一点に集中する。聴き手の期待感は大きい。舞台に立つ主役の緊張感も大きかろう。そんなステージで成果を上げた3人の歌い手を紹介。

 カリナ・ゴーヴァンはカナダ出身のソプラノ。バロック・オペラへの出演経験が豊富だが、古楽系とは一線を画す極太の美声。まるでワーグナー歌いのようだ。このゴーヴァンが6月10日、ハレ大学の講堂でリサイタル。管弦楽はジュリアン・ショーヴァン率いるラ・コンセール・ドゥ・ラ・ロージュが担当した。
 「狂乱」と題された通り、演奏会のプログラムは起伏の激しいジェットコースターのような設え。ヘンデルを始め、カイザー、グラウプナー、テレマンスカルラッティ(父)、ヴィヴァルディ、そしてラモーの名前が並ぶ。詩の言語も独伊仏英と色とりどりだ。
 ゴーヴァンは息の太さ細さを自在に操り、そこに息の速度を掛け合わせて基本表現とする。つまり「息深め x 息速め」「息深め x 息遅め」「息浅め x 息速め」「息浅め x 息遅め」の4通りを柱に、歌の詩世界を浮き彫りにするわけだ。息が浅くても声がスカスカにならないのは、もとが極太系だから。天賦の才を活かしている。
 大いに拍手を誘ったのは、深く速い息で歌う劇的で急速なアリアだが、浅く遅い息で歌うゆったりとした作品のほうが、表現に奥行きを感じさせる。とりわけ母国語のひとつ、英語で歌ったヘンデルの《太陽は忘れるかしら? Will the sun forget to streak》がすばらしい。余分な脂肪を取り去った声を、落ち着いた息づかいで送り出す。ヤハウェの威光を見聞きし、太陽神への信仰に揺らぎが生じるさまを、黄昏時の風情と重ね合わせる。その、女王の弱さや揺らぎが、軽めの声を丁寧に紡ぎ出す歌い方によって際立った。(つづく)



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(4)

 ヘンデル音楽祭といえばオペラである。器楽曲(とくに室内楽)もたくさん聴きたい。だがやはり、オペラ公演の華々しさというか求心力は大きい。この音楽祭のバロックオペラ三昧の日々を楽しみにしているファンも多い。
 今年は《アグリッピーナ Agrippina》HWV6、《アルチーナ Alcina》HWV34、《アルバーチェ Arbace》HWV A10、《アタランタ Atalanta》HWV35、《エジプトの女王ベレニーチェ Berenice, Regina d’Egitto》HWV38、《 忠実な羊飼い Il Pastor fido》HWV8a (1712年版)、《エジプトのユリウス・ケーザル Julius Caesar in Ägypten》HWV17(ジューリオ・チェーザレ独語版)、《ヴェンチェズラーオ Venceslao》HWV A4、《セルセ Serse》HWV40の9作品を舞台に掛ける。

 そのうち印象に残るのは《エジプトのユリウス・ケーザル》HWV 17(5月31日初日、6月7日鑑賞 於ハレ・オペラ座)と《アグリッピーナ》HWV6(6月10日 於旧ウルリヒ教会)のふたつ。両者は実に対照的な体裁をとる。《ユリウス・ケーザル》は1724年にロンドンで初演された。ヘンデルのオペラ最盛期の、そのまた頂点を飾る輝かしい作品だ。ヘンデルは、聴き手が大まかなあらすじを知っているだけで流れを追えるように工夫し、耳に残るアリアや二重唱をたっぷりと盛り込んだ。イタリア語を解さない聴衆でも充分に楽しめる内容になっている。
 一方《アグリッピーナ》は、1709年にヴェネツィアで初演されたオペラ。ヘンデルがイタリア・オペラ修行の集大成として世に問うた作品だ。これが現地で好評を博した。ドイツ人の書いたイタリア語のオペラが大成功を収めたのだ。筋の面白さを際立たせるためにヘンデルは、レチタティーヴォ中心の対話劇として、このオペラを仕上げた。つまり、台詞の応酬こそが命といったところ。
 歌が中心の《ユリウス・ケーザル》と、台詞が中心の《アグリッピーナ》。「“歌”劇」と「歌“劇”」の対比といってもよいかもしれない。

 《ユリウス・ケーザル》はペーター・コンヴィチュニーの新演出。指揮はミヒャエル・ホフシュテッター、管弦楽はハレ・オペラ座管弦楽団古楽器)。演出には興味深い点が多かったが、ひとつ挙げるとすればセストの扱いの面白さ。台本では死んだ父親ポンペイウスの気持ちを代弁するようなアリアを担当する。つまり、ポンペイウスの心中を、半周回ってセストが歌っていることになる。この日の演出ではセストは台詞のみの子役。アリアを歌ったのはなんと、斬首されたはずのポンペイウスの“頭部”。気持ちの高まりのたびに黄泉の国から舞い戻り、うらみつらみを首だけで歌うのだ。台本からもう半周して、ポンペイウスの思いを(首だけの)ポンペイウスがみずから発する。恨み晴らさでおくべきか、と柳の下に幽霊が現れる国に生きているものにとって、むしろ自然な芝居の作りで楽しめた
 歌い手ではクレオパトラ役のヴァネッサ・ヴァルトハルトが水際だった舞台を見せた。小間使いに化ける芝居内芝居をする、滑稽なところのある美人を、ごく軽い声で演じる。コメディエンヌとして優秀。《こうもり》のアデーレなど似合いそうだ。それが、ここぞというとき、深い息のソプラノに豹変するのだから役柄同様、まったくもって女優である。

 コンサート形式での上演となったのが《アグリッピーナ》。指揮はチェンバリストでもあるクリストフ・ルセ管弦楽はレ・タラン・リリクが担当した。《ユリウス・ケーザル》に比べると、歌も美術も制限された中での対話劇だが、そんな舞台が殊の外、面白く運ぶ。ヘンデルレチタティーヴォの力、それを余すところなく表現する歌手の実力が物を言った。とりわけ題名役のソプラノ、アン・ハレンベルクの活躍がすばらしい。滑舌よく、しかも流麗さを失わない。男を手玉にとる、事がうまくいかず困惑する、逆境に立ち向かう、ひょうきんに振る舞う、威厳を発する。アリアを歌うまでもなく、レチタティーヴォの段階ですでに、こうした各側面をしっかりと造形していくのだ。過去のヘンデル音楽祭で、そのアリアの歌唱技術については十二分に知っていたつもりだったが、ハレンベルクの音楽家としての真価は実際のところ、この辺りにあったのかもしれない。それが分かっただけでも収穫が大きい。その上、舞台が面白い。豊作である。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(3)

  アンナ・プロハスカのガラコンサートに出掛ける(6月4日 於ウルリヒ教会)。プロハスカは17・18世紀音楽に専門性を発揮するかたわら、ヴィトマンやリームらの大規模声楽曲でも重要な役割を果たすソプラノ。このたびはバリトンのフルヴィオベッティーニを伴って、「アポロとダフネ」なるタイトルのコンサートを披露した。プログラムの前半にはカヴァッリとヘンデルのオペラから抜粋したアリアを数曲を、後半にはヘンデルカンタータ《アポロとダフネ(地は解き放たれた)》HWV122 を置く。

 プロハスカの表現技術が抜きん出ている。これは単に歌が上手いという次元のことではない。まずは表現すべきコンテンツを持っていること。詩の感興をしっかりと咀嚼して、その栄養素を取り込み、その味わいを聴き手に伝えようとする意思と見取り図とがある。つまり、作りたい料理を頭に思い浮かべ、その作り方をレシピとして整理する能力がある。その想像の豊かさとレシピの精緻さとが卓越している。次に、そのレシピを実現しうる技術がある。レシピが精緻である分、調理は難しい。プロハスカはそんな難しい料理もやすやすと仕上げる。
 こうした総合的な表現力は、コロラトゥーラのような華々しい部分にも現れるが、むしろ(陰陽問わず)情感の深いゆったりとした歌に顕著だ。その点で地味といえば地味だけれど、そのぶん味わいは深い。布の手ざわりを伝えるような細やかな表現は、その反物そのものの質感はもとより、別の布地と重なったときの透け模様もあらわす。さらに、折り重なったときの布の重さまで聴き手に感じさせるのだから見事だ。
 具体的には、息の太さのコントロールが行き届いている。とりわけ細くする方向への統御が利いている。そうすると、たとえばピアノとフォルテの対比も、音量に頼るのではなくて、息の細い太いで表すことができる。つまり、音量は同じままにピアノの細やかさからフォルテの力強さ(逆もまた然り)へと移ることができる。これがさらに進むと、音量の小さいフォルテと、音量の大きいピアノとがコントラストを成すことさえある。これが詩世界の表現に奥行きを与える。
 一般的な意味で美しい声の持ち主だが、歌い手として図抜けて美声というほどではないプロハスカ。そんな彼女を一流に押し上げたのが、この細やかすぎるほど細やかな総合的表現力であることは明らかだ。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(2)

 6月2日(日)はヘンデルの生家・ヘンデルハウスで、「ペルシャバロックの交差点」なる演奏会を聴いた。チェンバロのジャン・ロンドー、リュートのトーマス・
ダンフォード、トンバク/サントゥールのカイヴォン・シェミラニがトリオで出演。イラン由来の曲と西洋バロック期の作品とを組み合わせ、それらを各楽器の即興でつないでいく。
 楽器の編成も巧み。リュート欧亜全体に広がる撥弦楽器サントゥールは西洋でも用いられ、ハンマーダルシマーと呼ばれている。チェンバロがハンマーダルシマーの構造や、リュートの奏法からさまざまな影響を受けていることは言うまでもない。打楽器のトンバクが入ることで、西洋音楽も原初の姿に戻ったかのように響く。
 プログラムに並ぶ作品の間だけでなく、その作品そのものにも即興の色合いが強い。その自由さがもっとも高く羽ばたいたのは、イタリア・バロックの作曲家ストラーチェの《チャコーネ》において。低音の主題を繰り返し繰り返し演奏する。その間、さまざまな変奏を各楽器で受け渡しつつ曲は進む。
 繰り返しの魔力、定型に抗うような変化、その相克が生む緊張感、その先にある安堵感。ただ自由なだけではない。たとえばチェンバロのロンドー。彼の自由さの土台の部分は真っ当なバロック音楽語法。その固い基礎があるから、その上で飛んだり跳ねたりしても作品の屋台骨は揺るがない。
 それはリュートのダンフォードも同じ。ふたりのバロック音楽語法に、シェミラニによるペルシャの打楽器が呼応するのが面白い。欧州と中東とが陸続きであることを強く感じさせる瞬間が多々ある。
 自由を保証する確固たる基盤。今、もっとも先端にいるチェンバロ奏者らにも、その遺伝子が受け継がれていることに意を強くする。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(1)

 ドイツ中部の街ハレは、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの生まれ故郷。ヘンデルは18歳までこの地で生活を営んだ。彼の若いころをしのばせる史跡が今も、あちこちに残る。
 街は偉大な作曲家を顕彰し、ヘンデル音楽祭を毎年初夏に開催する。今年も世界中から熱心なヘンデル・ファンが集った。演目はオペラやオラトリオといった大規模声楽作品が中心。さらに、そこからの抜粋によるガラ・コンサートが多数、用意される。実力も人気も一流のスター歌手が毎日、立て続けに出演するので、人気が高い。
 今年は5月31日から6月16日までの17日間、「繊細で雄々しく、気高い ー ヘンデルの描く女性」をテーマに、22の会場で100を超える演奏会を開催する。

 まず足を運んだのは、ヴィヴィカ・ジュノー(メゾソプラノ)とローレンス・ザッゾ(カウンターテナー)のガラコンサート(6月1日 於ヘンデル・ホール)。声の高さや役柄で性差を行き来する、バロック・オペラ特有の世界観を描き出す。ヘンデル、ハッセ、ポルポラ、ヴィヴァルディらのオペラからアリアなどを抜粋して組み合わせ、どこか倒錯した面白さを追求する。

 驚かされたことが3つ。ひとつはカッチュナー指揮のラウテン・カンパニー・ベルリンが、音響設計に非常に優れた楽団に変貌を遂げていたこと。とりわけコラパルテのバランスに繊細な気配りが感じられる。コラパルテとはあるパートの旋律を、別のパートがそのまま重複して演奏すること。器楽が器楽を、器楽が声楽を重複する場合のどちらのコラパルテもある。
 たとえば線の細いヴァイオリンの音を、オーボエがコラパルテする。するとヴァイオリンともオーボエともつかぬ、第3の音色がオーケストラから立ち上がる。これがより力強く、作品世界の輪郭を描き出す。
 管楽器のブレンドの仕方にも見識が光る。フラウト・トラヴェルソナチュラル・ホルン、そしてガットを張った弦楽器によるピチカート。これらのどれかが突出するのではなく、まさに混ざりあった状態で聴き手の耳に届く。この不可思議な音色が、続くアリアの詩の内容を先取りしているというわけだ。プログラミングとパフォーマンスの妙。

 ふたつめの驚きはザッゾの歌。こもり声だが、子音をあらかじめ発音して母音を音符に乗せるので、言葉が明瞭な上、前に進む力に澱むところがない。音色の幅は決して広くないが、声の太さの変化、地声と裏声との行き来が音楽の描出力を下支えする。そして音程がすこぶる良い。

 ジュノーの表現力にもびっくりした。これが3つめの驚き。押し出しの強い容姿のわりに、歌はきわめて慎ましやか。それは表現の幅をピアニッシモ方面に拡げているから。だから、コントラスト自体は高めで、迫力は削がれない。名コロラトゥラ歌手だけあって、細かい音の連なりをリズムの点でも音程の点でも適切に歌い上げる。重要なのは、音域を変えて同じ音形を繰り返すゼクエンツで、その繰り返しのたびに表情が異なる。音色や語り口を微妙に変化させているからだ。
 白眉はハッセのオペラ《シーロのアキッレ Achille in Sciro》より、アキッレのアリア《お答えします Risponderti vorrei》。ジュノーが弱音方向に声をコントロールするので、繊細さが際立つ。弱音といっても音が小さいわけではなく、ピアニッシモの性格を見事に描き出しているということ。
 男性役を歌う前には、控えの椅子に大股開きで座ったりと、世界観の彫琢に余念がない。そういう点も含めてとても華のある、チャーミングな歌手のひとり。女王の貫禄をひしひしと感じた一夜。



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バッハ・アルヒーフの新会長にコープマン

ドイツ中部ライプツィヒにある研究機関バッハ・アルヒーフは5月13日、オランダの音楽家トン・コープマンが同アルヒーフの新会長に就任したと発表した。バッハ・アルヒーフは音楽学の研究所で、資料部門、博物館部門、音楽祭部門も擁する総合機関。日々、学術調査をおこなうのはもちろんのこと、年に1度、大バッハを顕彰する音楽祭をライプツィヒで開催している。コープマンは1970年代から、作品作曲当時の楽器やその奏法などを重視する姿勢で演奏を続ける。このたび、同様の活動を重ねてきたイギリスの音楽家ジョン・エリオット・ガーディナーから、その職位を受け継いだ。ガーディナーは2014年から会長の任にあった。詳細はこちら

Foto: Bach-Archiv Leipzig/Gert Mothes



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小林聡幸『音楽と病のポリフォニー』

◇小林聡幸『音楽と病のポリフォニー — 大作曲家の健康生成論』アルテスパブリッシング, 2018年

 従来のものとはひと味違う作曲家論。著者は精神医学を専攻する大学教員で、クリエーターの病理とその創造性との関係を問う病跡学に、一方ならぬ知見を有する。
 この書物は全7章で、いずれの章でも作曲家を一人(最終章のみ二人)取り上げ、その創作活動に触れる。たとえば第4章。老年期のシベリウスは生活面では溌剌としていたが、創作面では作品に取り掛かるも書き上げられない「堂々めぐり」に陥った。そこに「創造性のうつ状態」を見るあたりは、専門家らしい議論となっている。
 一方、シューマンを扱う第2章で著者は、楽曲分析によって創作スタイルを抽出するも、それがシューマンの個人様式なのか、その年代の時代様式なのか、その土地の地域様式なのかといったことを検証しない。その持ち主不明のスタイルと、シューマン個人の病とを直接、連結してしまう。
 この本の面白さは第5章からにわかに加速する。病と創造性とに密接な関係が“ない”例のほうに、視点を移していくのだ。とりわけ、第6章のショスタコーヴィチの創作史は興味深い。スターリニズムの過酷な環境下、統合失調気質を抱えながら、精神的には大きな破綻を来すことなく生き、健筆を振るった。
 本書には登場しないが、バッハにせよモーツァルトにせよ、死の床でそれぞれ「ロ短調ミサ曲」や「レクイエム」を構想し、アウトプットした。その弱り切った身体と、生み出された音楽の豊かさとの間には深い谷が横たわっている。本書の第5章以降には、この隔たった両岸に橋をかけるためのヒントが隠されている。
 そもそも言葉で表現できないからこそ音楽として存在している音楽を、言葉で言い表そうというのは(それを仕事としている当方から見ても)“いかがわしい”ことだ。その意味では病跡学もまた“いかがわしい”。ただその“いかがわしさ”は、音楽の捉えきれなさから発する。そうである以上、これを面白がらないのは損というものだ。


初出:モーストリー・クラシック 2018年12月号


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NHK FM「N響演奏会」出演〔5/11(土)18時〕

NHK交響楽団第1912回定期演奏会の実況放送(5月11日土曜日18時より)に、解説者として出演します。会場においでになる方はご一緒に、おいでになれない方は放送で演奏をお楽しみいただければと思います。くわしくはこちら→演奏会について放送について



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特集 カンブルラン(過去の批評 その他)

読売日本交響楽団第9代常任指揮者 シルヴァン・カンブルランの任期最後の演奏会を聴いた(2019年3月24日〔日〕)。思えば、雑誌にいくたびか批評を寄稿したのをはじめ、さまざまな機会をとらえてカンブルランの演奏を文章にした。つねに幸せな試みだった。その記録。
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【批評】

読売日本交響楽団 第507回定期演奏会◇2011年9月12日(月) サントリーホール

読売日本交響楽団 第514回定期演奏会◇2012年4月16日(月)サントリーホール

読売日本交響楽団 第519回定期演奏会◇2012年10月27日(土) サントリーホール

読売日本交響楽団 第555回名曲シリーズ◇2012年12月19日(水)サントリーホール

読売日本交響楽団 第153回マチネーシリーズ◇2013年3月16日(土)東京芸術劇場

読売日本交響楽団 第158回マチネーシリーズ◇2013年9月8日(日)東京芸術劇場

読売日本交響楽団 第536回定期演奏会◇2014年4月17日(木)サントリーホール

読売日本交響楽団 第543回定期演奏会◇2014年12月4日(木)サントリーホール

読売日本交響楽団 第606回名曲シリーズ◇2017年11月26日(日)サントリーホール

読売日本交響楽団 第608回名曲シリーズ◇2018年1月19日(金)サントリーホール

読売日本交響楽団 第581回定期演奏会◇2018年9月28日(金)サントリーホール


【推薦文】

読売日本交響楽団 第533回定期演奏会◇2014年1月14日(火)サントリーホール

読売日本交響楽団 第559回定期演奏会◇2016年6月24日(金)サントリーホール

読売日本交響楽団 第615回名曲シリーズ◇2018年9月21日(金)サントリーホール〔PDF〕


【ブログ未掲載分】

読売日本交響楽団 第559回定期演奏会◇2016年6月24日(金)サントリーホール

 カンブルランの指揮でベルリオーズの序曲「宗教裁判官」、デュティユーのチェロ協奏曲「遥かなる遠い世界」、ブルックナー交響曲第3番「ワーグナー」を聴く。
 「宗教裁判官」で指揮者は、ヴィブラートの有無を音色の表現に、音色の表現を和声の緊張と緩和に結びつける。細部の表現をより大きな作品彫琢へとつなげる手腕はデュティユーでも。ケラスの弾く独奏部と管弦楽とが、筍と竹林のような関係を結ぶ。ある時は顔を出し、ある時は竹林に紛れる筍。両者の根は地下で分かち難くつながる。
 「ワーグナー」はさまざまな区分、たとえば和声進行や転調、形式の推移を、オルガンの明確な音色変化のように表現したらどうなるか、という長大な実験。カンブルランの場合、区分の変わり目のシェイプに主張がある。耳を引くのは柳腰を思わせる流線型。くびれは深いが変化は滑らかだ。少し「鈍い」ところのある作品だが、カンブルランはその「鈍さ」を「スマート」に示した。好演。(モーストリー・クラシック 2016年9月号)


読売日本交響楽団 第611回名曲シリーズ◇2018年4月13日(金)サントリーホール

 クラリネット独奏にメイエを迎え、カンブルランと読響がひと味違った名曲プログラム。
 まずはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」から4曲。作曲家はこの作品に、響きの実験室の役割を与えた。そんな実験を指揮者と管弦楽が再現していく。続くモーツァルトの「協奏曲」とドビュッシーの「第1狂詩曲」とはいずれも、クラリネットのための音楽。どちらでもメイエは、仏語の発話リズム風にスイングする。前者ではそれがよいスパイスに、後者ではその発話リズムと音楽との平仄がぴたりと合う。
 ストラヴィンスキーの「春の祭典」では、響きとリズムとが高度に融合した。響きの波間にリズムは埋もれないし、リズムの前進に響きは置いていかれない。これは速度制御の妙。サウンド過多になりそうなところは遅くしてリズムを丁寧に。リズム優勢になりそうなところは速くして響きの渦を。いわば逆張りの美学。これにより、この作品の楕円(複焦点)構造がはっきりと浮かび上がった。(モーストリー・クラシック 2018年7月号)



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