「かすがい」を密かに打つ ー カンブルラン&読響

読売日本交響楽団 第514定期演奏会
2012年4月16日 サントリーホール
指揮 シルヴァン・カンブルラン
ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲
ドビュッシー バレエ音楽《おもちゃ箱》
ストラヴィンスキー バレエ音楽ペトルーシュカ》(1947年版)

 場面を描き出す。言葉なら「前景から後景へ」など何らかの優先順位に沿って線をたどるように記述する(せざるを得ない)。音楽は言葉と違って具体的な描写は不得意だけれど(たとえば「赤い」は音でどう表現すれば良いだろう?)、出来事の同時進行を表現するのは得意だ。オーケストラならば、いくつかのパートでまちまちに違った旋律/リズムを演奏する、といった形で実現できる。だから、言葉の線的な時間性よりも、音楽の立体的な時間性の方が現実のそれに近いと言える。
 現実ならば同時に存在するいくつかの事柄が、相互に無関係のままであり続けることが出来るけれど、音楽だと少し厳しい。なぜなら、5つのパートが相互に無関係な音を出し続けるのなら、それは1曲を演奏しているのではなくて、5曲を同時に演奏しているだけだから(そういう音楽もあり[得]ますけど、もちろん)。楽曲という代物には、同時進行を描く特性はあれど、それを放置したまま進むわけにはいかない事情があるというわけだ。すくなくとも20世紀の前半くらいまではそうだった。
 だから、出来事の同時進行を巧みに描く《ペトルーシュカ》を演奏する際の肝は、同時進行を同時進行として描く、ということよりもむしろ、同時進行として描きつつどこかで/何かで関連させる、というところにある。要素をくっつける「かすがい」が必要というわけ。
 前置きが長引いたけれど、カンブルランは「かすがい」が何か分かっていたし、それをこの上なく効果的に使っていた。というよりも、カンブルランのおかげで「かすがい」の重要性に気付かされた。《ペトルーシュカ》における「かすがい」とはつまり「音の下ごしらえ」のこと。ヴィオラやホルンが和声の埋め草として働いたり、弦楽パートが下地作りーたとえばアルペジオを弾きまくるなどーに専念したりする、あの「音の下ごしらえ」。カンブルランにかかるとこの「下ごしらえ」がどこかに埋没したりしないし、かといって前景にしゃしゃり出たりもしない。
 これはバロック期の通奏低音に似ている。しっかりとした、しかし出しゃばりすぎない通奏低音によって、バロック音楽には息が吹き込まれる。それと同様、「音の下ごしらえ」の確かさによって《ペトルーシュカ》の同時進行性は確保され、その副作用まで緩和される。多彩な場面がおのおのにガチャガチャ鳴っているだけだったり、逆にバラバラになるのを防ぐために1つ要素で塗りたくったり、という凡百の指揮者が陥りがちな罠に、カンブルランは嵌まらない。場面の多彩な様子とその場面の有機性とが、音楽に乗っていっぺんに迫ってくるのだ。
 音楽にしかできない音楽的時間の構築。頭では分かっていても、なかなか体験することはできない。そんな"時間"に身を浸した一夜。



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