ハレ・ヘンデル音楽祭2019(4)

 ヘンデル音楽祭といえばオペラである。器楽曲(とくに室内楽)もたくさん聴きたい。だがやはり、オペラ公演の華々しさというか求心力は大きい。この音楽祭のバロックオペラ三昧の日々を楽しみにしているファンも多い。
 今年は《アグリッピーナ Agrippina》HWV6、《アルチーナ Alcina》HWV34、《アルバーチェ Arbace》HWV A10、《アタランタ Atalanta》HWV35、《エジプトの女王ベレニーチェ Berenice, Regina d’Egitto》HWV38、《 忠実な羊飼い Il Pastor fido》HWV8a (1712年版)、《エジプトのユリウス・ケーザル Julius Caesar in Ägypten》HWV17(ジューリオ・チェーザレ独語版)、《ヴェンチェズラーオ Venceslao》HWV A4、《セルセ Serse》HWV40の9作品を舞台に掛ける。

 そのうち印象に残るのは《エジプトのユリウス・ケーザル》HWV 17(5月31日初日、6月7日鑑賞 於ハレ・オペラ座)と《アグリッピーナ》HWV6(6月10日 於旧ウルリヒ教会)のふたつ。両者は実に対照的な体裁をとる。《ユリウス・ケーザル》は1724年にロンドンで初演された。ヘンデルのオペラ最盛期の、そのまた頂点を飾る輝かしい作品だ。ヘンデルは、聴き手が大まかなあらすじを知っているだけで流れを追えるように工夫し、耳に残るアリアや二重唱をたっぷりと盛り込んだ。イタリア語を解さない聴衆でも充分に楽しめる内容になっている。
 一方《アグリッピーナ》は、1709年にヴェネツィアで初演されたオペラ。ヘンデルがイタリア・オペラ修行の集大成として世に問うた作品だ。これが現地で好評を博した。ドイツ人の書いたイタリア語のオペラが大成功を収めたのだ。筋の面白さを際立たせるためにヘンデルは、レチタティーヴォ中心の対話劇として、このオペラを仕上げた。つまり、台詞の応酬こそが命といったところ。
 歌が中心の《ユリウス・ケーザル》と、台詞が中心の《アグリッピーナ》。「“歌”劇」と「歌“劇”」の対比といってもよいかもしれない。

 《ユリウス・ケーザル》はペーター・コンヴィチュニーの新演出。指揮はミヒャエル・ホフシュテッター、管弦楽はハレ・オペラ座管弦楽団古楽器)。演出には興味深い点が多かったが、ひとつ挙げるとすればセストの扱いの面白さ。台本では死んだ父親ポンペイウスの気持ちを代弁するようなアリアを担当する。つまり、ポンペイウスの心中を、半周回ってセストが歌っていることになる。この日の演出ではセストは台詞のみの子役。アリアを歌ったのはなんと、斬首されたはずのポンペイウスの“頭部”。気持ちの高まりのたびに黄泉の国から舞い戻り、うらみつらみを首だけで歌うのだ。台本からもう半周して、ポンペイウスの思いを(首だけの)ポンペイウスがみずから発する。恨み晴らさでおくべきか、と柳の下に幽霊が現れる国に生きているものにとって、むしろ自然な芝居の作りで楽しめた
 歌い手ではクレオパトラ役のヴァネッサ・ヴァルトハルトが水際だった舞台を見せた。小間使いに化ける芝居内芝居をする、滑稽なところのある美人を、ごく軽い声で演じる。コメディエンヌとして優秀。《こうもり》のアデーレなど似合いそうだ。それが、ここぞというとき、深い息のソプラノに豹変するのだから役柄同様、まったくもって女優である。

 コンサート形式での上演となったのが《アグリッピーナ》。指揮はチェンバリストでもあるクリストフ・ルセ管弦楽はレ・タラン・リリクが担当した。《ユリウス・ケーザル》に比べると、歌も美術も制限された中での対話劇だが、そんな舞台が殊の外、面白く運ぶ。ヘンデルレチタティーヴォの力、それを余すところなく表現する歌手の実力が物を言った。とりわけ題名役のソプラノ、アン・ハレンベルクの活躍がすばらしい。滑舌よく、しかも流麗さを失わない。男を手玉にとる、事がうまくいかず困惑する、逆境に立ち向かう、ひょうきんに振る舞う、威厳を発する。アリアを歌うまでもなく、レチタティーヴォの段階ですでに、こうした各側面をしっかりと造形していくのだ。過去のヘンデル音楽祭で、そのアリアの歌唱技術については十二分に知っていたつもりだったが、ハレンベルクの音楽家としての真価は実際のところ、この辺りにあったのかもしれない。それが分かっただけでも収穫が大きい。その上、舞台が面白い。豊作である。



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