プレガルディエン&ゲース

クリストフ・プレガルディエン&ミヒャエル・ゲース◇2018年11月9日(金)於 トッパンホール

 テノールのプレガルディエンがピアノのゲースを伴ってリサイタル。シューマンの連作歌曲の世界を描き出す。
 「5つの歌曲」の第3曲「兵士」は、主人公による情景描写と心情独白とを交互に置く。歌い手は両者で声色や表現の振幅を変える。客観的な情景描写のほうをより抑えた語り口にするのは当然。その冷静にも思える声がときおり、かすかに震えたり伸び縮みしたりする。抑えきれない想いが漏れ出ている。「詩人の恋」の第11曲「ある若者が娘に恋をした」でも、第三者的な声色で失恋の痛々しさを倍加させる。
 ピアノがその表現世界に奥行きを与えていたのは間違いない。たとえば「詩人の恋」の第1曲「このうるわしい5月に」。まっすぐな声で初夏の芽吹き=恋の誕生を喜ぶ歌手に対してピアノは、テンポの揺らぎと不協和音の強調とで、主人公を不安な世界へと引きずり込もうとする。
 歌い手とピアノ、ふたつの中心がせめぎあう楕円的な作品世界。その力の均衡点にシューマンの幻影を見た。


【DVD】
シューベルト《美しき水車屋の娘》プレガルディエン&ゲース


初出:モーストリー・クラシック 2019年2月号



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角英憲 訳 『レオポルト・アウアー自伝』

◇レオポルト・アウアー『レオポルト・アウアー自伝 — サンクト・ペテルブルクの思い出』角英憲訳, 出版館ブック・クラブ, 2018年

 自伝を読むには少しコツがいる。まず、自伝を客観的な伝記だと思わないこと。喜怒哀楽のすべてが、いくらかずつ過剰だと想定するくらいがちょうどよい。つぎに、自伝を作り話の集成だと思わないこと。過剰な内容の芯にはつねに、真実が横たわっている。さいごに、そのさじ加減は著者の心持ちによって左右されるということ。過剰さと真実味の割合はつねに揺れ動く。
 こうした留意点を踏まえた上で、レオポルト・アウアーの自伝を読む。アウアーはハンガリー出身のヴァイオリニスト。ドイツ語圏で修行時代を過ごしたのち、著名な演奏家・教師としてロシアで活躍した。革命以降はアメリカに渡り、同地でも教育に携わった。この自伝はアウアーが、生年の1845年から晩年にあたる1920年ごろまでのエピソードを、20の章に分けて綴ったものだ。
 なかでも帝政末期のロシアに関する記述が厚い。リムスキー=コルサコフに代表される「ロシア五人組」と、その同時代を生きたチャイコフスキーとの距離感、両者の世評の実際を、冷静な目つきで観察する。そこには音楽家の厳しい鑑識眼が働いている。一方で、友人たちの思い出や街の風俗を描く筆致は、温かみに溢れている。
 興味深いのはアウアーが、“文化交流の外交官”として当時の西欧とロシアとをつないでいたことだ。ロシアでは積極的にワーグナーを紹介し、西欧では取り憑かれたようにチャイコフスキーを取り上げた。とくに後者に関して、アウアーはこの作曲家に強い負い目を感じていたため、そのように行動し、さらにそれを自伝に事細かに記したのだろう。負い目、それを埋め合わせるかのような行動、そしてその行動を書物にとどめておこうとする彼の意志については、本書で確認していただきたい。
 このチャイコフスキーへの態度とその記録とに、思い入れの過剰さとその底に横たわる真実の両面がはっきりと現れている。自伝を読む醍醐味がここにある。


初出:モーストリー・クラシック 2018年11月号



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かげはら史帆『ベートーヴェン捏造』

◇かげはら史帆『ベートーヴェン捏造 — 名プロデューサーは嘘をつく』柏書房, 2018年

 想像力は敏感さと鈍感さの両翼を持つ。正確に言うと、鈍感さに対して敏感でなければならない。たとえば演奏の現場。奏者は音楽に通じていて敏感だから、響きの微細な変化の内に、情緒の大きな推移を感じることができる。一方、聴き手が奏者と同じだけの情動を得るには、演奏に多少、誇張がなければならない。だから奏者は、聴き手の鈍感さに思いをいたす必要がある。
 19世紀の音楽家アントン・フェリックス・シンドラーは、ベートーヴェンの伝記を編むにあたり、こうした想像力を大いに発揮した。本書の著者かげはら史帆も、シンドラーの一連の仕事を記すにあたり、同様の想像力を発揮したようだ。
 シンドラー1820年代の初めにベートーヴェンの秘書となった。その経験を生かして作曲家の伝記をものする。依拠した資料は「会話帳」。失聴したベートーヴェンの筆談ノートだ。話し相手は伝えたいことを書いて作曲家に見せる。作曲家は発話してそれに答える。ノートには話し相手のメッセージが延々と連なる。ベートーヴェンの声は行間に聞こえるのみ。
 シンドラーはそこに目をつけた。話し相手の書き付けた言葉を改竄すれば、ベートーヴェンの意図を捏造することができる。作曲家の不名誉な履歴は消え、業績はいっそう際立つ。それをもとに伝記を書けば、鈍感な読み手もベートーヴェンの偉大さに気持ちよくひれ伏すだろう。シンドラーはそう考え、実際に「会話帳」を改竄した。世間はまんまと騙された。
 この改竄問題は40年前に決着済み。ただ、専門家にとっての当たり前が、世間にとっても当たり前とは限らない。著者は専門家の議論を誇張することで、これを一般の読み物として成り立たせた。事実の間をファンタジーで埋めるのは、シンドラーの手口と同じ。ただし、かげはらの誇張はギリギリのところで踏みとどまる。その崖っぷちの書き振りで著者は、シンドラーの心象に肉薄している。キケンな書物。 


初出:モーストリー・クラシック 2019年1月号



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バッハ《ミサ曲 ロ短調》◇ クリスティ&レザール・フロリサン

バッハ《ミサ曲 ロ短調》◇ウィリアム・クリスティ(指揮), レザール・フロリサン(合唱・管弦楽)〔KKC5886〕

フランス音楽に強い古楽奏者クリスティが、バッハ畢生の大作を世に問う。彼らの当該曲の実演を2016年、ライプツィヒで聴いた。そのとき得た印象は「開放的なミサ曲」。録音にも同様の趣がある。巨視的には、キリストの十字架上の死に沈み込むのではなく、その後の復活と昇天を祝い、救済の喜びに浸る解釈。とりわけ「感謝の祭儀」にあたる「サンクトゥス」以下に活気を持って取り組む点に、そうした「開けた」解釈が現れる。微視的には、たとえば第三曲「キリエ」の譜割を「エレーイーソン」ではなく「エレーエーィソン」とすることで、開けた母音「エ」を印象付ける。こうした微に入り細を穿つ諸実践が、大局の鷹揚さにつながる。



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加藤浩子『バッハ』

◇加藤浩子『バッハ —「音楽の父」の素顔と生涯』平凡社新書, 2018年

 転職するたびに着実にキャリアアップを果たす。ドイツの大作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは、そんな現代的な就労スタイルを300年も前に実践していた。注意すべきはその転職が、つねに転地をともなっていたことである。土地を移れば職務が変わり、職務が変われば作品の内実も変わる。だから古今、バッハの伝記に類するものは「引越しの記録」のような体裁をとることが多い。
 加藤浩子の『バッハ』もまた、その点で先達の仕事を受け継ぐ。類書とこの書物とを画すのは、著者がバッハゆかりのドイツ各地に、なんどもなんども足を運んでいる点だ。そこでの体験がこの本を、単なる「引越しの記録」ではなく、地に足のついた「作曲家の履歴書」として成り立たせている。
 全5章の内容は彩り豊かだ。第2章がいわゆる評伝部分。9つの町を取り上げ、バッハの生涯をたどる。その前段として置かれた第1章「バッハとルター」が味わい深い。大作曲家の「履歴書」を読み解く上で必須の背景を、簡潔に語る。これが第2章を紐解く際の補助線となる。第3章に登場する「オルガン紀行」もまた、旅を続ける著者ならではのもの。小さな村に残る小さなオルガンにも、バッハの仕事の跡はたしかに残る。
 近年の新発見に触れるコラムにも注目したい。21世紀に入ってもバッハ研究は、その勢いを衰えさせることなく、次々と新しい発見を重ねた。そこに触れるのは新たに世に出る本の務め。この書物はその義務をよく果たしている。ただ、この新発見に関する記述を中心に、調査不足などによる誤りが散見される。著者がその経験に重きを置いて筆を進めたことの副作用か。この誤りに関してはすでに、版元のウェブサイトに正誤表が掲出されている。
 自分の足で歩き、その手で触れ、その目で見て、その耳で聴く。それが旅の醍醐味だ。その醍醐味の一端を味あわせるこの本は、紀行文としてもたくさんの読者を得ることだろう。


初出:モーストリー・クラシック2018年10月号



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バッハ先輩とのつきあいかた

 ふと周囲を見回すと、たくさんの先輩に囲まれて暮らしていることに気付く。もちろんその中には、尊敬できる先輩、近寄りがたい先輩、そりの合わない先輩などがいるだろう。そんな先輩たちとどのように付き合って行くべきか。音楽家たちはこんなふうに先輩と折り合いを付けていた。

ベートーヴェン
「和声の父・バッハの偉大なる芸術」(1801年の手紙)

シューマン
「私にとってバッハは、近寄りがたい存在だ」(1840年の手紙)

ドビュッシー
「バッハはすばらしいこともあるが、たいていは鼻持ちならない」(1917年の手紙)


 音楽家にとって先輩の仕事というのはどうしても気になるもの。自分がふと思いついた良いアイデアも、先輩が先に試していたらもう手遅れ。だから、しっかりと目配りをしておかなければならない。
 幼いころに立派な先輩に出会えれば、それはとても幸運なことだ。ベートーヴェンはそんなラッキーな音楽家のひとり。幼いころに付いていた先生が、当時としては貴重なバッハの楽譜を教材にしていたおかげで、その後の音楽家人生を決めるような勉強をすることができた。もしバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を練習している学習者がいたら、そのひとはベートーヴェンと同じ訓練を積んでいることになる。
 バッハに会ったことがあるわけでもないのに、その生き方を肌身に感じながら創作に励んだ音楽家もいる。シューマンだ。彼は1828年から16年間、バッハが活躍したライプツィヒで生活した。ライプツィヒにはバッハの勤めた教会が残っているし、演奏を披露した広間もあれば、馴染みのカフェも健在だ。シューマンはそんな環境の中、バッハの音楽を勉強することで、この先輩の魅力に取り付かれてしまった。あまりに尊敬しすぎて「近寄りがたい」とまで言っている。
 一方で、そんな立派な先輩をどうしても好きになれない、という音楽家もいる。ドビュッシーはバッハの楽譜を勉強すればするほど、その「鼻持ちならない」様子に我慢できなくなってしまった。それでも、良いところは認めざるを得ないと白状しているのだから、先輩の立派さは理解しているようだ。
 バッハ先輩は尊敬されたり恐れられたり敬遠されたりと、その評価はまちまちだ。でも、だれもがバッハを気にしてしまう、というのは間違いないところ。先輩の影響力というのは侮れない。


ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750年)
多くの後輩音楽家の尊敬を集める「先輩の中の先輩」。現役時代から、鍵盤音楽の大家として注目されていた。死後しばらくは目立たなかったが、メンデルスゾーンが《マタイ受難曲》を蘇演したことで再び脚光を浴び、現在にいたる。◇マクリーシュ&ガブリエリ・プレイヤーズ《マタイ受難曲》

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年
幼いころベートーヴェンは、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》で鍵盤楽器の訓練を積んだ。その成果は晩年になって一気に花開き、《ミサ・ソレムニス》や《大フーガ》で実を結んだ。「三つ子の魂、百まで」。◇ガーディナー&モンテヴェルディ合唱団ほか《ミサ・ソレムニス》

ロベルト・シューマン(1810-56年)
音楽史上、バッハのことを最も尊敬していたのはこのシューマンではないだろうか。バッハの活躍したライプツィヒに暮らしたシューマンは、音楽だけでなく、バッハの勤めた教会、かよったカフェ、歩いた石畳を身体全体で感じていたはず。◇アーノンクール&バイエルン放送響ほか《楽園とペーリ》

クロード・ドビュッシー(1862-1918年)
ドビュッシーもバッハの曲を勉強したことは間違いない。でも、どうしてもそりが合わなかった。よいところもある、見習うべきところも。でも、どうしても好きになれない。そんな先輩のひとりやふたりは誰にでもいる。◇ファウスト, ケラス, メルニコフほか《最後のソナタ集》



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R・シュトラウス《ドン・ファン》ほか◇メルクル指揮 トーンキュンストラー管

◇R・シュトラウス:《ドン・ファン》《死と変容》他◇準・メルクル(指揮), トーンキュンストラー管弦楽団◇AVCL25971

準・メルクルは、一見、楽団の弱点とも思えることがらを、作品の彫琢に不可欠な道具として利用するのがうまい。鋏は使いようである。この録音でも、その手腕が遺憾なく発揮されている。シュトラウス作品を正攻法、たとえば精緻な音色操作で描き切るのは、楽団に相当の手練がないと難しい。メルクルは神経を使う音色操作は最低限にとどめ、この楽団のどこか雑な印象の響きを、語り口の変化へと変身させ、表現に結びつけた。それにより描写的な場面も、舞曲のような古典的な楽章も、あくまで抽象的な音運びも、擬似的な発話行為となる。なるほど楽団も指揮者も作曲家も、同じ言語をその根底に持つ。共通理解の土台が固い演奏につながった。


初出:音楽現代 2018年10月号



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青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』

◇青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー, 2018年

 『ベートーヴェンの生涯』は青木やよひの名著である。著者の最後の1冊として2009年に世に出た。このたびはその再刊。タイトルの通り、ドイツの大作曲家の生涯を追ったものだ。
 この書物は奇妙なバランスの上に成り立っている。資料を可能なかぎり集め、丁寧に読み込み、それを冷静に取り上げ、文章へとつなげていく。一方で、それほど入手しにくいわけでもない資料を欠いた結果、叙述に誤りが生じたりもする。資料の解釈にはおおむね、恣意的なところはないが、ときに作曲家を擁護する筆が過ぎるきらいもある。
 裏を返せばこれは、資料の取り扱いが適正だから、その欠陥もはっきりと見えるということ。事実・伝え聞き・みずからの解釈をきちんと書き分ける文体だからこそ、その解釈の是非を問うことができる。つまりこの著作は、ノンフィクションとして実に生真面目な仕事と言える。その生真面目さがこの本を名著たらしめている。
 作曲家の生涯とその作品との関係を測るのは難しい。たとえば、肉親の死の時期と、悲壮感漂う作品の創作年とが相前後する場合。その両者に関係がまったくないとは言い切れないが、年代の近さだけで両者が深く関係すると断言するのも乱暴だ。青木はみずから描き出した作曲家の生涯に、その作品群をむやみに関係付けたりはせず、事実に語らしめるスタイルに徹する。結果としてそれが、この伝記の屋台骨となっている。
 生地ボンでの共和主義との接触、ウィーンでのフランス革命思想への共鳴などを細やかに綴ることで、「英雄」を経て「第九」へとつながる創作の流れの土台を、読者の頭の中に調える。バッハ親子の作品を学習した履歴を強調することで、晩年の対位法的世界観の源を示す。
 こうした昔気質の、“出汁のよく利いた”文章を、“塩気の足りぬ”読み物と感じる向きもあろう。だが、健全な読書を目指す諸氏にとって青木の著作は、あつらえ向きの“健康食”となるだろう。


初出:モーストリー・クラシック 2018年9月号



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【訂正報】対訳のドイツ語原文に詩句追加(読響プログラム誌)

読売日本交響楽団のプログラム誌『オーケストラ』2018年10月号に寄稿した対訳のうち、オラトリオ《キリスト》のドイツ語原文の詞章に一部、欠落があると(面目ないことに、今さらながら)気がつきましたので、それをお知らせします。誤りは以下の通りです。まことに申しわけないです。お詫びいたします。

【修正箇所】
月刊『オーケストラ 10月号』25ページ
オラトリオ《キリスト》第2部の第9曲にあたるテノールレチタティーヴォ「ピラトは人々に」(合唱「十字架に」の直後のレチタティーヴォ)のドイツ語原文の末尾に以下の詩句を追加。なお、和文に修正なし。

◆追加分
Da antworteten sie:

◆現状
Rezitativ (Tenor):
Pilatus spricht zu ihnen: »Nehmet ihr ihn hin und kreuziget ihn, denn ich finde keine Schuld an ihm.«

◆修正後
Rezitativ (Tenor):
Pilatus spricht zu ihnen: »Nehmet ihr ihn hin und kreuziget ihn, denn ich finde keine Schuld an ihm.« Da antworteten sie:


【解説&対訳】
読響プログラム冊子『オーケストラ』2018年10月号(PDF)


【演奏会情報】
読売日本交響楽団 第582回定期演奏会
2018年10月26日(金)19:00 東京・サントリーホール
鈴木雅明(指揮), リディア・トイシャー(ソプラノ), 櫻田亮(テノール), RIAS室内合唱団(合唱)
クラウス《教会のためのシンフォニア》◇ モーツァルト 交響曲第39番
メンデルスゾーン オラトリオ《キリスト》◇ 同カンタータ詩篇第42篇》



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読売日本交響楽団 第616回名曲シリーズ

 読売新聞社はかつて、アンデパンダン展を主催していた。読響にもその血が流れていることを示すジョヴァンニ・アントニーニ指揮の第1夜。モダンオケの慣習を、力強く打ち破る。
 まずもって読響の "古楽アンサンブル化" が著しい。これは「ノンヴィブラートを使っている」などということが重要なのではない。大切なのは "語り部" である通奏低音奏者がいること。富岡廉太郎(首席チェロ奏者)が子音と運弓とを駆使しておしゃべりをし倒す。岡田全弘(首席ティンパニ奏者)が力感の差異で属和音と主和音とを完全に掌握する。
 その刺激と安定とがないまぜになった土台の上でオーケストラが、レジスター転換(音域変化に伴う音色転換)を利用し、さらにそこに弦楽器の弓の上下、管楽器の息の勢いの変化を加えることで緊張と緩和とを彫り上げていく。レジスター転換、運弓・息の力動差異は、従来のモダンオケならばすべて、均一に奏すことを旨とする事柄ばかりだ。そういう思想に変化が生じている。牽引力というより包摂力を思わせる日下紗矢子のリーダーぶりも古楽らしい。そこに音楽的な素晴らしさが集約されている。
 これでハイドンの歌劇《無人島》序曲が決まらないはずもない。なにせ語ることこそが主眼の作品。そんな作品で達者な弁者たちが、立て板に水で口上を述べる。
 この日、すばらしかったのは、指揮者の求めるこうした音楽像を、楽団はもとより独奏者も共有し、それを最後まで持続させたこと。
 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲には独奏者として、ヴィクトリア・ムローヴァが登壇した。単旋律から対話を思わせる表現を引き出すのが見事。弓が4つの弦を移るたびに音色が変わるので、音域によって登場人物が異なるように聴こえる。そのキャラクターの移動がそのまま、旋律の句読点(アーティキュレーション)となり、その区切りが単旋律から対話風の楽想を引き出していく、という仕組み。
 オーケストラはもとより「多声」なのだが、ここにもひと工夫するのが指揮者の手腕だろう。とりわけ対位法のときに顕著だが、内声を豊かに鳴らす。そうすると、モダンオケにありがちな "ノッペリフォニー" ではなく、ピリオド奏法の目指す立体的な "おしゃべり対位法" が出来上がる。
 こうして(単声の)独奏は独奏なりに、(多声の)管弦楽管弦楽なりに「対話篇」を実現する。その "対話性" が両者で呼応するわけだ。そうすると独奏と管弦楽との対比と親和は、一段、レヴェルを上げる。この一段がすこぶる大きい。
 この "対話性" を維持したまま、ベートーヴェンの第2交響曲へ。初演当時の批評子はこの作品を「まるでハルモニームジーク(管楽合奏曲)のようだ」と評した。その批評を彷彿とさせるように指揮者は、管楽器寄りの音響バランスをとる。このバランスがレジスター転換を強化した。それが強まれば和声の彫りの深さも、声部間のおしゃべり度も増す。
 こうして、ひたすら語り倒す "ヴィーン1800年ごろ" が現出。1998年東京、2011年ライプツィヒ、2014年ハレとアントニーニの指揮する音楽を聴いた。(音盤の販売戦略とは裏腹に)つねに「王道の人」という印象を受けてきた。このたびもまた、その印象は強まる。そしてその王道は、じつに楽しく愉快で刺激的な道であることも同様に再確認した次第。(2018年10月16日 [火] 於サントリーホール


【CD】
アントニーニ&イル・ジャルディーノ・アルモニコ 録音集

アントニーニ 過去の批評】
ライプツィヒ・バッハ音楽祭2011 (3)
ハレ・ヘンデル音楽祭2014(2)



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