バッハ先輩とのつきあいかた

 ふと周囲を見回すと、たくさんの先輩に囲まれて暮らしていることに気付く。もちろんその中には、尊敬できる先輩、近寄りがたい先輩、そりの合わない先輩などがいるだろう。そんな先輩たちとどのように付き合って行くべきか。音楽家たちはこんなふうに先輩と折り合いを付けていた。

ベートーヴェン
「和声の父・バッハの偉大なる芸術」(1801年の手紙)

シューマン
「私にとってバッハは、近寄りがたい存在だ」(1840年の手紙)

ドビュッシー
「バッハはすばらしいこともあるが、たいていは鼻持ちならない」(1917年の手紙)


 音楽家にとって先輩の仕事というのはどうしても気になるもの。自分がふと思いついた良いアイデアも、先輩が先に試していたらもう手遅れ。だから、しっかりと目配りをしておかなければならない。
 幼いころに立派な先輩に出会えれば、それはとても幸運なことだ。ベートーヴェンはそんなラッキーな音楽家のひとり。幼いころに付いていた先生が、当時としては貴重なバッハの楽譜を教材にしていたおかげで、その後の音楽家人生を決めるような勉強をすることができた。もしバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を練習している学習者がいたら、そのひとはベートーヴェンと同じ訓練を積んでいることになる。
 バッハに会ったことがあるわけでもないのに、その生き方を肌身に感じながら創作に励んだ音楽家もいる。シューマンだ。彼は1828年から16年間、バッハが活躍したライプツィヒで生活した。ライプツィヒにはバッハの勤めた教会が残っているし、演奏を披露した広間もあれば、馴染みのカフェも健在だ。シューマンはそんな環境の中、バッハの音楽を勉強することで、この先輩の魅力に取り付かれてしまった。あまりに尊敬しすぎて「近寄りがたい」とまで言っている。
 一方で、そんな立派な先輩をどうしても好きになれない、という音楽家もいる。ドビュッシーはバッハの楽譜を勉強すればするほど、その「鼻持ちならない」様子に我慢できなくなってしまった。それでも、良いところは認めざるを得ないと白状しているのだから、先輩の立派さは理解しているようだ。
 バッハ先輩は尊敬されたり恐れられたり敬遠されたりと、その評価はまちまちだ。でも、だれもがバッハを気にしてしまう、というのは間違いないところ。先輩の影響力というのは侮れない。


ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750年)
多くの後輩音楽家の尊敬を集める「先輩の中の先輩」。現役時代から、鍵盤音楽の大家として注目されていた。死後しばらくは目立たなかったが、メンデルスゾーンが《マタイ受難曲》を蘇演したことで再び脚光を浴び、現在にいたる。◇マクリーシュ&ガブリエリ・プレイヤーズ《マタイ受難曲》

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年
幼いころベートーヴェンは、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》で鍵盤楽器の訓練を積んだ。その成果は晩年になって一気に花開き、《ミサ・ソレムニス》や《大フーガ》で実を結んだ。「三つ子の魂、百まで」。◇ガーディナー&モンテヴェルディ合唱団ほか《ミサ・ソレムニス》

ロベルト・シューマン(1810-56年)
音楽史上、バッハのことを最も尊敬していたのはこのシューマンではないだろうか。バッハの活躍したライプツィヒに暮らしたシューマンは、音楽だけでなく、バッハの勤めた教会、かよったカフェ、歩いた石畳を身体全体で感じていたはず。◇アーノンクール&バイエルン放送響ほか《楽園とペーリ》

クロード・ドビュッシー(1862-1918年)
ドビュッシーもバッハの曲を勉強したことは間違いない。でも、どうしてもそりが合わなかった。よいところもある、見習うべきところも。でも、どうしても好きになれない。そんな先輩のひとりやふたりは誰にでもいる。◇ファウスト, ケラス, メルニコフほか《最後のソナタ集》



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