ライプツィヒ・バッハ音楽祭2011 (3)「イル・ジャルディーノ・アルモニコ – 本物の古楽奏者たち」

 わたくし、心から反省しています。イル・ジャルディーノ・アルモニコを誤解していました。1990年代、ヴィヴァルディ《四季》の録音で、よく言えば刺激的な、悪く言えばたいそう下品な演奏を世に問うたジャルディーノ。しかし、そんな演奏はCDの販売戦略に過ぎなかったようです。ライブで聴く彼らの音楽は、合奏力と即興性と職人仕事と節度に満ちたもの。前半戦で最高の演奏会に当夜、出会いました。
 12日、ニコライ教会で催されたのは「バッハのイタリア声楽曲学習」に関わる曲を集めた演奏会。ベルナルダ・フィンクと、ハレ・ヘンデル音楽祭でも見事な歌声を聴かせてくれたロベルタ・インヴェルニッツィが独唱を担当、管弦楽はジョバンニ・アントニーニ指揮、イル・ジャルディーノ・アルモニコです。
 プログラムは2部構成。前半はコレルリの《合奏協奏曲 ニ長調》作品6-4、コンティのカンタータ《わが魂は病み Languet anima mea》、トレッリの《弦楽合奏通奏低音のための協奏曲 ニ短調》、後半は、バッハのモテット《消し去りたまえ、いと高き者よ、わが罪を Tilge, Höchster, meine Sünden》BWV1083が披露されました。
 コンティ(Francesco Bartolomeo Conti, 1682-1732)はヴィーンの宮廷作曲家で、バッハは彼の《わが魂は病み》をケーテン時代に筆写し、オーボエのパートを2声部付け加えました。一方、ペルゴレージ(Giovanni Battista Pergolesi, 1710-1736)はオペラで大成功したイタリアの作曲家で、バッハは彼の《スターバト・マーテル》を編曲し《消し去りたまえ、いと高き者よ、わが罪を》BWV1083として再構成。ドイツ語の歌詞を採用し、弦楽や歌唱声部に手を加え、曲順を入れ替えたりしています。バッハは、コンティやペルゴレージから当世風の声楽書法を学び、ライプツィヒ時代のカンタータや受難曲、そして《ミサ曲ロ短調》でその成果を存分に発揮したのです。
 ですから当夜のプログラムは、このたびのバッハ音楽祭のテーマ「イタリア趣味によって…」に相応しいものです。このように優れたプログラムが説得力を持つにはもちろん、演奏が良くなければなりません。この日のジャルディーノはその点で、まことにすばらしい結果を残しました。
 彼らの演奏は「音楽の原理・原則」に極めて忠実です。たとえば、拍子の運動性は、ボールの投げ上げ、つまり初速が速く最終的に力が弱まる運動(弱拍)と、ボールの落下、つまり初速が遅く最終的に力強く着地する運動(強拍)とに喩えることができます。そのような運動性が弦楽器の弓づかいに現れていますが、彼らの優れている点は、そこからさらに一歩進んで、弓づかいが「歌の息づかい」へと昇華していることです。たとえばアーティキュレーション。弦楽器はブレスが必要ありませんから、仮に同じ楽節でも声楽とフレージングは異なります。しかし、彼らのそれは肺活量などの人間の生理にぴたりと寄り添い、まさに歌っているのと同じ音楽が生まれてくるのです。
 コレルリやトレルリの弦楽合奏曲でもその傾向は顕著ですが、その威力が最大限に発揮されたのはやはり声楽曲においてです。コンティの《わが魂は病み》にはソプラノ独唱とヴァイオリン独奏&通奏低音の「トリオ」楽章があります。これが、2人のソプラノを強力なバス歌手が支えているように聴こえるのも、ジャルディーノの「歌」があってこそ。こんな演奏を聴けば、独奏ヴァイオリン楽章の魅力をバッハが《マタイ受難曲》や《ミサ曲ロ短調》で活かしたくなる気持ちも分かるというものです。
 後半、メゾ・ソプラノのフィンクを加え演奏された《消し去りたまえ、いと高き者よ、わが罪を》でも、ジャルディーノの「歌」は冴えを見せます。仮にその「冴え」の最大の功労者を挙げるとすれば、それは通奏低音でしょう。当夜の通奏低音はチェロ、コントラバス、テオルボ、鍵盤(チェンバロ/オルガン兼務)が各1名という布陣。この通奏低音陣がチェロのエレナ・ルッソを筆頭に、独唱とヴァイオリン声部に果敢に切り込んでいくのです。ときには歌の歩みに合わせて寄り添うように、ときには歌をぐっとリードして張り合うように、またときにはレガートの上声部にスピッカートで「否」と言うように。こんな強力な通奏低音ですから独唱陣も気が抜けません。宗教曲の節度を保ちつつも、ギラギラした音楽の競い合いがそこで展開されるのです。
 こんなにすばらしい声楽と器楽の共同作業を聴いたことがありません。むしろ全体が声楽だったと言って良いのかも。バッハ音楽祭2011前半戦で最高の演奏会。それに留まらず、ここ9年、ニコライ教会で行われた演奏会で最もすばらしいものだったかもしれません。ちなみにこの日、会場にはマイクがたくさん立っていました。これはひょっとするとひょっとしますね。多くのみなさんに聴いていただける日が来るかも知れません!


追記:ニコライ教会の音響について
この日、唯一の心残りと言えば、ニコライ教会の音響に大きな問題がありすべての聴衆が当方と同じ聴体験が出来たわけではないこと。ニコライ教会では内陣の前が演奏場所となりますが、演奏者の後方に広がる内陣が思いのほか深く、そちらのほうに音が吸われてしまうのです。ですから、直接音が聴こえる範囲より遠くなると、同じ料金カテゴリーの席でもまるで気の抜けた音響になってしまいます。これは演奏者の工夫だけではもはや解決不能な問題です(一方、トーマス教会の音響の問題は演奏者の工夫で解決できる)。このことは2003年から再三、主催者に指摘し、演奏者の後ろに透明アクリルの反響板を設置するよう求めているのですが、未だ実現しません。この透明アクリル反響板は、たとえばアンスバッハ・バッハ週間などでは実用化されていて、なかなかの効果を上げています。もし当夜、ニコライ教会でもこの反響板が採用されていれば、多くの聴衆があのすばらしい演奏を満足できる音響で聴けたはずなのですが…。残念でなりません。 写真:2007年アンスバッハ・バッハ週間でのひとこま。合唱の背後に透明の反響板が見える


写真:(上)フィンク、アントニーニ、インヴェルニッツィ/(下)アンコールにBWV1083の「アーメン」を歌うフィンクとインヴェルニッツィ 2011年6月12日, ライプツィヒ・ニコライ教会 



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