バッハ《ミサ曲 ロ短調》◇ クリスティ&レザール・フロリサン

バッハ《ミサ曲 ロ短調》◇ウィリアム・クリスティ(指揮), レザール・フロリサン(合唱・管弦楽)〔KKC5886〕

フランス音楽に強い古楽奏者クリスティが、バッハ畢竟の大作を世に問う。彼らの当該曲の実演を2016年、ライプツィヒで聴いた。そのとき得た印象は「開放的なミサ曲」。録音にも同様の趣がある。巨視的には、キリストの十字架上の死に沈み込むのではなく、その後の復活と昇天を祝い、救済の喜びに浸る解釈。とりわけ「感謝の祭儀」にあたる「サンクトゥス」以下に活気を持って取り組む点に、そうした「開けた」解釈が現れる。微視的には、たとえば第三曲「キリエ」の譜割を「エレーイーソン」ではなく「エレーエーィソン」とすることで、開けた母音「エ」を印象付ける。こうした微に入り細を穿つ諸実践が、大局の鷹揚さにつながる。


初出:音楽現代 2018年12月号



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加藤浩子『バッハ』(平凡社新書)

◇加藤浩子『バッハ —「音楽の父」の素顔と生涯』平凡社新書, 2018年

 転職するたびに着実にキャリアアップを果たす。ドイツの大作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは、そんな現代的な就労スタイルを300年も前に実践していた。注意すべきはその転職が、つねに転地をともなっていたことである。土地を移れば職務が変わり、職務が変われば作品の内実も変わる。だから古今、バッハの伝記に類するものは「引越しの記録」のような体裁をとることが多い。
 加藤浩子の『バッハ』もまた、その点で先達の仕事を受け継ぐ。類書とこの書物とを画すのは、著者がバッハゆかりのドイツ各地に、なんどもなんども足を運んでいる点だ。そこでの体験がこの本を、単なる「引越しの記録」ではなく、地に足のついた「作曲家の履歴書」として成り立たせている。
 全5章の内容は彩り豊かだ。第2章がいわゆる評伝部分。9つの町を取り上げ、バッハの生涯をたどる。その前段として置かれた第1章「バッハとルター」が味わい深い。大作曲家の「履歴書」を読み解く上で必須の背景を、簡潔に語る。これが第2章を紐解く際の補助線となる。第3章に登場する「オルガン紀行」もまた、旅を続ける著者ならではのもの。小さな村に残る小さなオルガンにも、バッハの仕事の跡はたしかに残る。
 近年の新発見に触れるコラムにも注目したい。21世紀に入ってもバッハ研究は、その勢いを衰えさせることなく、次々と新しい発見を重ねた。そこに触れるのは新たに世に出る本の務め。この書物はその義務をよく果たしている。ただ、この新発見に関する記述を中心に、調査不足などによる誤りが散見される。著者がその経験に重きを置いて筆を進めたことの副作用か。この誤りに関してはすでに、版元のウェブサイトに正誤表が掲出されている。
 自分の足で歩き、その手で触れ、その目で見て、その耳で聴く。それが旅の醍醐味だ。その醍醐味の一端を味あわせるこの本は、紀行文としてもたくさんの読者を得ることだろう。


初出:モーストリー・クラシック2018年10月号



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バッハ先輩とのつきあいかた

 ふと周囲を見回すと、たくさんの先輩に囲まれて暮らしていることに気付く。もちろんその中には、尊敬できる先輩、近寄りがたい先輩、そりの合わない先輩などがいるだろう。そんな先輩たちとどのように付き合って行くべきか。音楽家たちはこんなふうに先輩と折り合いを付けていた。

ベートーヴェン
「和声の父・バッハの偉大なる芸術」(1801年の手紙)

シューマン
「私にとってバッハは、近寄りがたい存在だ」(1840年の手紙)

ドビュッシー
「バッハはすばらしいこともあるが、たいていは鼻持ちならない」(1917年の手紙)


 音楽家にとって先輩の仕事というのはどうしても気になるもの。自分がふと思いついた良いアイデアも、先輩が先に試していたらもう手遅れ。だから、しっかりと目配りをしておかなければならない。
 幼いころに立派な先輩に出会えれば、それはとても幸運なことだ。ベートーヴェンはそんなラッキーな音楽家のひとり。幼いころに付いていた先生が、当時としては貴重なバッハの楽譜を教材にしていたおかげで、その後の音楽家人生を決めるような勉強をすることができた。もしバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を練習している学習者がいたら、そのひとはベートーヴェンと同じ訓練を積んでいることになる。
 バッハに会ったことがあるわけでもないのに、その生き方を肌身に感じながら創作に励んだ音楽家もいる。シューマンだ。彼は1828年から16年間、バッハが活躍したライプツィヒで生活した。ライプツィヒにはバッハの勤めた教会が残っているし、演奏を披露した広間もあれば、馴染みのカフェも健在だ。シューマンはそんな環境の中、バッハの音楽を勉強することで、この先輩の魅力に取り付かれてしまった。あまりに尊敬しすぎて「近寄りがたい」とまで言っている。
 一方で、そんな立派な先輩をどうしても好きになれない、という音楽家もいる。ドビュッシーはバッハの楽譜を勉強すればするほど、その「鼻持ちならない」様子に我慢できなくなってしまった。それでも、良いところは認めざるを得ないと白状しているのだから、先輩の立派さは理解しているようだ。
 バッハ先輩は尊敬されたり恐れられたり敬遠されたりと、その評価はまちまちだ。でも、だれもがバッハを気にしてしまう、というのは間違いないところ。先輩の影響力というのは侮れない。


ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750年)
多くの後輩音楽家の尊敬を集める「先輩の中の先輩」。現役時代から、鍵盤音楽の大家として注目されていた。死後しばらくは目立たなかったが、メンデルスゾーンが《マタイ受難曲》を蘇演したことで再び脚光を浴び、現在にいたる。◇マクリーシュ&ガブリエリ・プレイヤーズ《マタイ受難曲》

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年
幼いころベートーヴェンは、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》で鍵盤楽器の訓練を積んだ。その成果は晩年になって一気に花開き、《ミサ・ソレムニス》や《大フーガ》で実を結んだ。「三つ子の魂、百まで」。◇ガーディナー&モンテヴェルディ合唱団ほか《ミサ・ソレムニス》

ロベルト・シューマン(1810-56年)
音楽史上、バッハのことを最も尊敬していたのはこのシューマンではないだろうか。バッハの活躍したライプツィヒに暮らしたシューマンは、音楽だけでなく、バッハの勤めた教会、かよったカフェ、歩いた石畳を身体全体で感じていたはず。◇アーノンクール&バイエルン放送響ほか《楽園とペーリ》

クロード・ドビュッシー(1862-1918年)
ドビュッシーもバッハの曲を勉強したことは間違いない。でも、どうしてもそりが合わなかった。よいところもある、見習うべきところも。でも、どうしても好きになれない。そんな先輩のひとりやふたりは誰にでもいる。◇ファウスト, ケラス, メルニコフほか《最後のソナタ集》



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R・シュトラウス《ドン・ファン》ほか◇メルクル指揮 トーンキュンストラー管

◇R・シュトラウス:《ドン・ファン》《死と変容》他◇準・メルクル(指揮), トーンキュンストラー管弦楽団◇AVCL25971

準・メルクルは、一見、楽団の弱点とも思えることがらを、作品の彫琢に不可欠な道具として利用するのがうまい。鋏は使いようである。この録音でも、その手腕が遺憾なく発揮されている。シュトラウス作品を正攻法、たとえば精緻な音色操作で描き切るのは、楽団に相当の手練がないと難しい。メルクルは神経を使う音色操作は最低限にとどめ、この楽団のどこか雑な印象の響きを、語り口の変化へと変身させ、表現に結びつけた。それにより描写的な場面も、舞曲のような古典的な楽章も、あくまで抽象的な音運びも、擬似的な発話行為となる。なるほど楽団も指揮者も作曲家も、同じ言語をその根底に持つ。共通理解の土台が固い演奏につながった。


初出:音楽現代 2018年10月号



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青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』

◇青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社ライブラリー, 2018年

 『ベートーヴェンの生涯』は青木やよひの名著である。著者の最後の1冊として2009年に世に出た。このたびはその再刊。タイトルの通り、ドイツの大作曲家の生涯を追ったものだ。
 この書物は奇妙なバランスの上に成り立っている。資料を可能なかぎり集め、丁寧に読み込み、それを冷静に取り上げ、文章へとつなげていく。一方で、それほど入手しにくいわけでもない資料を欠いた結果、叙述に誤りが生じたりもする。資料の解釈にはおおむね、恣意的なところはないが、ときに作曲家を擁護する筆が過ぎるきらいもある。
 裏を返せばこれは、資料の取り扱いが適正だから、その欠陥もはっきりと見えるということ。事実・伝え聞き・みずからの解釈をきちんと書き分ける文体だからこそ、その解釈の是非を問うことができる。つまりこの著作は、ノンフィクションとして実に生真面目な仕事と言える。その生真面目さがこの本を名著たらしめている。
 作曲家の生涯とその作品との関係を測るのは難しい。たとえば、肉親の死の時期と、悲壮感漂う作品の創作年とが相前後する場合。その両者に関係がまったくないとは言い切れないが、年代の近さだけで両者が深く関係すると断言するのも乱暴だ。青木はみずから描き出した作曲家の生涯に、その作品群をむやみに関係付けたりはせず、事実に語らしめるスタイルに徹する。結果としてそれが、この伝記の屋台骨となっている。
 生地ボンでの共和主義との接触、ウィーンでのフランス革命思想への共鳴などを細やかに綴ることで、「英雄」を経て「第九」へとつながる創作の流れの土台を、読者の頭の中に調える。バッハ親子の作品を学習した履歴を強調することで、晩年の対位法的世界観の源を示す。
 こうした昔気質の、“出汁のよく利いた”文章を、“塩気の足りぬ”読み物と感じる向きもあろう。だが、健全な読書を目指す諸氏にとって青木の著作は、あつらえ向きの“健康食”となるだろう。


初出:モーストリー・クラシック 2018年9月号



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17・18世紀のドイツ語圏音楽史(第4回 / 全4回)

【ウィーン — フローベルガー】

 ウィーンは1619年、フェルディナント2世の就位と同時に帝都となった。代替わりに伴って宮廷音楽家の顔ぶれも大きく変化した。フランドル人=ルネサンス音楽の担い手が多かった楽団は、イタリア人=バロック音楽の旗手を多く雇い入れるようになる。室内楽の分野でもイタリア化=バロック化は進んだ。ローマでフレスコバルディ(1583-1643)に学んだ鍵盤奏者ヨハン・ヤコプ・フローベルガー(1616-67)が、師の道統をウィーンに伝え、ヨハン・カスパル・ケルル(1627-93)らが、それを受け継いでいった。
 シュッツの教会音楽、北ドイツのオルガン作品、カイザーの音楽劇、フローベルガーの鍵盤楽曲。こうした先輩たちの業績を踏まえ、同時代のイタリアやフランスの音楽に目配りしつつ、地域の実情や聴衆の水準に合わせ、それらを職人的手さばきでまとめあげる。程度の差こそあれ、こうしたことが18世紀のドイツ語圏の作曲家に課せられた仕事だった。このバランスが大衆性に傾いたのがゲオルク・フィリップ・テレマン、国際性に傾いたのがゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)、職人性に傾いたのがヨハン・ゼバスティアン・バッハだった。


【CD】
◇フローベルガー 鍵盤作品集◇ジークベルト・ランペ(チェンバロ, オルガン)
◇テレマン《ターフェルムジーク》全曲◇ゲーベル&ムジカ・アンティクワ・ケルン



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【訂正報】対訳のドイツ語原文に詩句追加(読響プログラム誌)

読売日本交響楽団のプログラム誌『オーケストラ』2018年10月号に寄稿した対訳のうち、オラトリオ《キリスト》のドイツ語原文の詞章に一部、欠落があると(面目ないことに、今さらながら)気がつきましたので、それをお知らせします。誤りは以下の通りです。まことに申しわけないです。お詫びいたします。

【修正箇所】
月刊『オーケストラ 10月号』25ページ
オラトリオ《キリスト》第2部の第9曲にあたるテノールレチタティーヴォ「ピラトは人々に」(合唱「十字架に」の直後のレチタティーヴォ)のドイツ語原文の末尾に以下の詩句を追加。なお、和文に修正なし。

◆追加分
Da antworteten sie:

◆現状
Rezitativ (Tenor):
Pilatus spricht zu ihnen: »Nehmet ihr ihn hin und kreuziget ihn, denn ich finde keine Schuld an ihm.«

◆修正後
Rezitativ (Tenor):
Pilatus spricht zu ihnen: »Nehmet ihr ihn hin und kreuziget ihn, denn ich finde keine Schuld an ihm.« Da antworteten sie:


【解説&対訳】
読響プログラム冊子『オーケストラ』2018年10月号(PDF)


【演奏会情報】
読売日本交響楽団 第582回定期演奏会
2018年10月26日(金)19:00 東京・サントリーホール
鈴木雅明(指揮), リディア・トイシャー(ソプラノ), 櫻田亮(テノール), RIAS室内合唱団(合唱)
クラウス《教会のためのシンフォニア》◇ モーツァルト 交響曲第39番
メンデルスゾーン オラトリオ《キリスト》◇ 同カンタータ詩篇第42篇》



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17・18世紀のドイツ語圏音楽史(第3回 / 全4回)

【北ドイツ — ラインケン, ブクステフーデ, カイザー】

 北ドイツのハンブルクリューベックは、貿易で栄えた帝国自由都市。強い経済力を背景に、街の中心に大きな教会を建設し、そこに豪華なオルガンを設置した。こうした楽器を操り、北ドイツ・オルガン楽派の中心となったのが、ヨハン・アダム・ラインケン(1643?-1722)とディートリヒ・ブクステフーデ(1637頃-1707)だ。
 アムステルダムのオルガン奏者スウェーリンクは、ザムエル・シャイト(1587-1654)やハインリヒ・シャイデマン(1595頃-1663)といったドイツ人の優秀な弟子を育てた。シャイトは1624年のオルガン曲集『新譜表』を、従来の演奏指示譜でなく五線譜で著し、ドイツ・オルガン音楽の近代化を図る。シャイデマンは帰国後、ハンブルク・カタリーナ教会のオルガン奏者となり、北ドイツ各地のオルガン鑑定にも精を出す。教育にも力を入れ、ラインケンらを育てた。
 ラインケンは1663年、師のあとを継ぎ、カタリーナ教会オルガン奏者の座につく。その5年後、デンマークからブクステフーデが招かれ、リューベックのマリア教会オルガニストに就任した。これにより北ドイツ・オルガン楽派の黄金期が始まった。
 さて、ハンブルクでもうひとつ重要なことがらは、1678年にオペラ・ハウスが開場したことだ。当時、商業的に自立したオペラ・ハウスは、ヴェネツィアハンブルクにしかなかった。両都市は貿易相手として関係が深い。ハンブルクのオペラは、ヴェネツィアに強く影響された。1691年にはリュリ風のフランス様式も流れ込み、当地のオペラはより豊かになる。そして90年代後半、ラインハルト・カイザー(1674-1739)の登場でハンブルクは、オペラの街としての名声を確固としたものにする。
 カイザーはイタリアやフランスの音楽、地元の流行歌や民謡の旋律を、ドイツ語の響きの下に統合した。ハンブルクの市民に受け入れられたオペラはその後、テレマン(1681-1767)へと受け継がれた。


【CD】
◇ブクステフーデ オルガン作品集◇トン・コープマン(オルガン)
◇カイザー 受難の音楽集◇イーレンフェルト(指揮), カペラ・オルランディ・ブレーメン



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17・18世紀のドイツ語圏音楽史(第2回 / 全4回)

ドレスデン — シュッツ】

 ザクセンの宮廷所在地ドレスデンは17世紀、国力にふさわしい音楽部門をそなえていた。その中心にいた音楽家がハインリヒ・シュッツ(1585-1672)だ。中部ドイツに生まれ、貴族に才能を見出され、1609年にヴェネツィアに留学、帰国後オルガニストとしてデビュー、1615年にはドレスデンの宮廷に奉職した。
 シュッツがドレスデンに来たころ、宮廷音楽の責任を負っていたのはミヒャエル・プレトリウス(1571-1621)だった。プレトリウスヴェネツィアのスタイルをドレスデンに導入し、最新の音楽を宮廷で演奏していた。シュッツはそのタスキを受け取り、ドイツ語の力強さや味わい深さを、師カブリエリ仕込みの音楽で表現していった。
 ドイツとイタリアとを融合させるこうした試みは、ルター派の宗教音楽でもっとも成果を上げた。1628年には再びヴェネツィアに赴き、モンテヴェルディに師事。最先端の音楽を武器に、『シンフォニア・サクラ集』や『宗教的合唱曲集』、マタイ・ルカ・ヨハネの各受難曲など、宗教声楽曲を盛んに作曲した。プレトリウスにしてもシュッツにしても、イタリアの最新音楽を学び、それをドイツ語、とりわけルター訳聖書の言葉と出会わせることで、新たな局面を開いた。


〔CD〕
◇シュッツ・エディション◇ベルニウス(指揮), シュトゥットガルト室内合唱団 ほか



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17・18世紀のドイツ語圏音楽史(第1回 / 全4回)

【序】

 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)の「本棚」を探る研究がある。キルステン・バイスヴェンガー博士の『J・S・バッハの所蔵楽譜文庫』(1992年)だ。論文には「バッハが所有していた他者の作品の目録」が収められている。それを眺めてみると、当時のドイツの音楽家がどの程度、時間や空間の広がりを意識していたかがよく分かる。そして、その広がりからは、ドイツ・バロック音楽史を特徴付けるさまざまな要素が浮かび上がってくる。
 中部ドイツ・テューリンゲンからザクセンにかけてが、バッハの拠点だった。これは当時のドイツ語圏をゆるやかに結びつけていた神聖ローマ帝国の、ちょうどヘソの位置にあたる。「本棚」の楽譜の出どころを探ると、その神聖ローマ帝国の全域をカバーしていることがわかる。たとえば、近場ではザクセンの都ドレスデン、北は帝国自由都市ハンブルク、そして南東の端に位置する帝都ウィーン。この3都市はドイツ語圏の音楽史にとって、とりわけ重要な意味を持つ。「本棚」にはイタリアとフランスの作曲家の楽譜も多く並んでいた。両国の音楽を学び、それを自国の文脈に溶かし込んでくことは当時、ドイツ語圏の音楽家にとって大切なことだった。


〔CD〕
Deutsche Harmonia Mundi 50th Anniversary Box



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