特集 カンブルラン(過去の批評 その他)

読売日本交響楽団第9代常任指揮者 シルヴァン・カンブルランの任期最後の演奏会を聴いた(2019年3月24日〔日〕)。思えば、雑誌にいくたびか批評を寄稿したのをはじめ、さまざまな機会をとらえてカンブルランの演奏を文章にした。つねに幸せな試みだった。その記録。
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【批評】

読売日本交響楽団 第507回定期演奏会◇2011年9月12日(月) サントリーホール

読売日本交響楽団 第514回定期演奏会◇2012年4月16日(月)サントリーホール

読売日本交響楽団 第519回定期演奏会◇2012年10月27日(土) サントリーホール

読売日本交響楽団 第555回名曲シリーズ◇2012年12月19日(水)サントリーホール

読売日本交響楽団 第153回マチネーシリーズ◇2013年3月16日(土)東京芸術劇場

読売日本交響楽団 第158回マチネーシリーズ◇2013年9月8日(日)東京芸術劇場

読売日本交響楽団 第536回定期演奏会◇2014年4月17日(木)サントリーホール

読売日本交響楽団 第543回定期演奏会◇2014年12月4日(木)サントリーホール

読売日本交響楽団 第606回名曲シリーズ◇2017年11月26日(日)サントリーホール

読売日本交響楽団 第608回名曲シリーズ◇2018年1月19日(金)サントリーホール

読売日本交響楽団 第581回定期演奏会◇2018年9月28日(金)サントリーホール


【推薦文】

読売日本交響楽団 第533回定期演奏会◇2014年1月14日(火)サントリーホール

読売日本交響楽団 第559回定期演奏会◇2016年6月24日(金)サントリーホール

読売日本交響楽団 第615回名曲シリーズ◇2018年9月21日(金)サントリーホール〔PDF〕


【ブログ未掲載分】

読売日本交響楽団 第559回定期演奏会◇2016年6月24日(金)サントリーホール

 カンブルランの指揮でベルリオーズの序曲「宗教裁判官」、デュティユーのチェロ協奏曲「遥かなる遠い世界」、ブルックナー交響曲第3番「ワーグナー」を聴く。
 「宗教裁判官」で指揮者は、ヴィブラートの有無を音色の表現に、音色の表現を和声の緊張と緩和に結びつける。細部の表現をより大きな作品彫琢へとつなげる手腕はデュティユーでも。ケラスの弾く独奏部と管弦楽とが、筍と竹林のような関係を結ぶ。ある時は顔を出し、ある時は竹林に紛れる筍。両者の根は地下で分かち難くつながる。
 「ワーグナー」はさまざまな区分、たとえば和声進行や転調、形式の推移を、オルガンの明確な音色変化のように表現したらどうなるか、という長大な実験。カンブルランの場合、区分の変わり目のシェイプに主張がある。耳を引くのは柳腰を思わせる流線型。くびれは深いが変化は滑らかだ。少し「鈍い」ところのある作品だが、カンブルランはその「鈍さ」を「スマート」に示した。好演。(モーストリー・クラシック 2016年9月号)


読売日本交響楽団 第611回名曲シリーズ◇2018年4月13日(金)サントリーホール

 クラリネット独奏にメイエを迎え、カンブルランと読響がひと味違った名曲プログラム。
 まずはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」から4曲。作曲家はこの作品に、響きの実験室の役割を与えた。そんな実験を指揮者と管弦楽が再現していく。続くモーツァルトの「協奏曲」とドビュッシーの「第1狂詩曲」とはいずれも、クラリネットのための音楽。どちらでもメイエは、仏語の発話リズム風にスイングする。前者ではそれがよいスパイスに、後者ではその発話リズムと音楽との平仄がぴたりと合う。
 ストラヴィンスキーの「春の祭典」では、響きとリズムとが高度に融合した。響きの波間にリズムは埋もれないし、リズムの前進に響きは置いていかれない。これは速度制御の妙。サウンド過多になりそうなところは遅くしてリズムを丁寧に。リズム優勢になりそうなところは速くして響きの渦を。いわば逆張りの美学。これにより、この作品の楕円(複焦点)構造がはっきりと浮かび上がった。(モーストリー・クラシック 2018年7月号)



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プレガルディエン&ゲース

クリストフ・プレガルディエン&ミヒャエル・ゲース◇2018年11月9日(金)於 トッパンホール

 テノールのプレガルディエンがピアノのゲースを伴ってリサイタル。シューマンの連作歌曲の世界を描き出す。
 「5つの歌曲」の第3曲「兵士」は、主人公による情景描写と心情独白とを交互に置く。歌い手は両者で声色や表現の振幅を変える。客観的な情景描写のほうをより抑えた語り口にするのは当然。その冷静にも思える声がときおり、かすかに震えたり伸び縮みしたりする。抑えきれない想いが漏れ出ている。「詩人の恋」の第11曲「ある若者が娘に恋をした」でも、第三者的な声色で失恋の痛々しさを倍加させる。
 ピアノがその表現世界に奥行きを与えていたのは間違いない。たとえば「詩人の恋」の第1曲「このうるわしい5月に」。まっすぐな声で初夏の芽吹き=恋の誕生を喜ぶ歌手に対してピアノは、テンポの揺らぎと不協和音の強調とで、主人公を不安な世界へと引きずり込もうとする。
 歌い手とピアノ、ふたつの中心がせめぎあう楕円的な作品世界。その力の均衡点にシューマンの幻影を見た。


【DVD】
シューベルト《美しき水車屋の娘》プレガルディエン&ゲース


初出:モーストリー・クラシック 2019年2月号



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ベートーヴェンの「アタッカ」

 「アタッカ attacca」はイタリア語の動詞で、「アタッカーレ attaccare」の命令法二人称単数形。つまり「開始する」という言葉の命令形で、「開始せよ」を意味する。この指示を楽譜上に見つけたならば、奏者は続けざまに次の楽章の演奏を始めなければならない。ベートーヴェンは自作のここぞというところに、アタッカの指示を書き込んだ。作曲家はこの指示でどんな効果を目論んだのか。それを知るには18世紀前半までのアタッカに目を向ける必要がある。
 いわゆるバロック期、アタッカとは主和音で終止しない楽章を指す言葉だった。「主和音で終止しない」というのは難渋な言い方だが、要するに「段落感をつけず中途半端に放っておく」こと。西洋音楽では“問いかけ”と“答え”のユニットを連ねることで曲を成り立たせる。楽章の最後ももちろんこのユニットで終える。ところが中には“問いかけ”だけで楽章を閉じ、次の楽章の初めに“答え”を置くこともある。これは次のようにも言える。“緊張”と“緩和”のユニットで楽章を終えるはずが、“緊張”したまま楽章を閉じ、次の楽章の初めに“緩和”を先送りする。いずれにせよ前後の楽章の結びつきは強くなるので、ふたつは続けざまに演奏しなければならない。

 バッハやヘンデルの作品もこうしたアタッカの例に事欠かない。たとえばバッハの《ブランデンブルク協奏曲》第4番。第2楽章の結尾でフリギア終止して、終楽章のフーガへとなだれ込む。フリギア終止とは“深い問いかけ”で曲を終えること。次の楽章のフーガが“決然とした答え”となっている。ヘンデルの器楽ソナタにもこうしたアタッカが多い。

 ベートーヴェンはアタッカのこうした性質を、次のような目的で利用した。まず、楽章と楽章との音楽的なつながりを強めるため。多楽章の器楽曲は基本、抽象的な音の構築物なので意味を担わないが、コミュニケーションのスタイル(たとえば対話)や、物語の構造(たとえば挫折と栄光)を模倣することはできる。ベートーヴェンは器楽曲の持つ劇的な性格を重視し、それを強める効果をアタッカに求めた。
 次に、外形的にも作品を不可分のものとするため。当時の演奏会で多楽章の器楽曲を取り上げる場合、任意の楽章を抜粋してプログラムに掲げたり、作品を分割してコンサートの最初と最後に配置したりすることがあった。また、全曲を続けるときでさえ聴き手は、気に入った楽章があればその直後に拍手をし、作品の途中でもかまわずに、その楽章をもういちど弾くよう演奏者に要求した。多楽章の作品は、その楽章の組み合わせによって大きな物語を紡ぎ出す。それに鋏を入れられては元も子もない。ベートーヴェンはそれを防ぐ手立てとしてアタッカを利用した。ふたつの楽章を続けざまに演奏すれば、少なくともそのふたつを切り離すことはできなくなるし、その間に拍手や歓声を差し挟む余地もなくなる。

 創作期の中期、つまりドラマのある器楽曲を書こうと奮闘した19世紀初めの10年間に作曲家は、こうした目論見のもとアタッカを多用する。たとえば1806年の 弦楽四重奏曲第7番 。第3楽章の末尾、第1ヴァイオリンが華々しいカデンツァを担い、最後の音をトリルで引き延ばす中、チェロが終楽章の第1主題を弾き始める。同第9番 も同様に、後半ふたつの楽章を連結する。メヌエット楽章の終わりにヴィオラとチェロとが“問いかけ”をしたまま休止、「ただちに開始せよ attacca subito」の指示に従いフーガ楽章に入る。第3楽章のヴィオラとチェロの“問いかけ”音形は、このフーガの主題を先取りしている。前後の楽章の結びつきを強める工夫だ。
 管弦楽曲でもこうした工夫は光る。1809年の クラヴィーア協奏曲第5番 では中間楽章と終楽章とをアタッカで結ぶ。ピアノがロ長調で穏やかに進む中、最終盤で低弦が主音を引き延ばす。8小節にわたってこの音を鳴らし続けたのち、これを半音下げて変ロ音としホルンに引き継ぐ。この変ロ音を2本のホルンがオクターブ重複で響かせる中、ピアノがぎくしゃくと上行する音形を2度、繰り返す。続けざま変ホ長調アレグロ楽章に突入、先ほどの音形とよく似た第1主題を華やかに奏でる。先述の 弦楽四重奏曲第9番 と同じ段取りだ。

 この作曲家の代表作とも言える、1808年のふたつの交響曲でも、アタッカは重要な表現手段となっている。《田園》では第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」と第4楽章「雷雨、嵐」とをひとつなぎに。集いの楽しい雰囲気を、突然の雷雨が切り裂く様子を表す。《運命》のアタッカはより抽象的ながら、その劇的なさまは「田園」をしのぐ。ハ短調の第3楽章の最後、50小節に渡ってティンパニがハ音を連打。そのさなか、徐々に光が差し込んでいくかのように楽想が変化していき、第3楽章に参加していた大方の楽器が合流したところでアタッカの指示。ハ長調の第4楽章にすぐさま移る。終楽章冒頭の響きの中心はトロンボーン。教会音楽か劇音楽でしか使われなかった楽器が、高らかに鳴り響く。同音連打による緊張感の持続、短調から長調へと間断なく移る運び、宗教性を帯びた響きによる華々しい開幕。アタッカの効果がここに極まっている。
 作曲者による指示のないところで演奏者が、こうした効果を狙うこともある。たとえば《英雄交響曲》や 交響曲第7番 の後半ふたつの楽章。それぞれ終楽章の開幕の効果を最大化するため、直前の楽章から緊張感を切らさずに次楽章に入る。指示はないが、潜在的なアタッカを総譜から読み取っている。ベートーヴェンの劇的な音楽の性格からして、この演奏解釈はうなずける。

 多楽章の楽曲を切り刻ませない。それは作品の自律であり、作曲家の自立でもある。アタッカなる習慣は、ベートーヴェンの音楽家像をそのまま写し取っているかのようだ。


【CD】
弦楽四重奏曲 作品59
クラヴィーア協奏曲第5番
交響曲各曲


初出:モーストリー・クラシック 2019年1月号



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角英憲 訳 『レオポルト・アウアー自伝』(出版館ブック・クラブ)

◇レオポルト・アウアー『レオポルト・アウアー自伝 — サンクト・ペテルブルクの思い出』角英憲訳, 出版館ブック・クラブ, 2018年

 自伝を読むには少しコツがいる。まず、自伝を客観的な伝記だと思わないこと。喜怒哀楽のすべてが、いくらかずつ過剰だと想定するくらいがちょうどよい。つぎに、自伝を作り話の集成だと思わないこと。過剰な内容の芯にはつねに、真実が横たわっている。さいごに、そのさじ加減は著者の心持ちによって左右されるということ。過剰さと真実味の割合はつねに揺れ動く。
 こうした留意点を踏まえた上で、レオポルト・アウアーの自伝を読む。アウアーはハンガリー出身のヴァイオリニスト。ドイツ語圏で修行時代を過ごしたのち、著名な演奏家・教師としてロシアで活躍した。革命以降はアメリカに渡り、同地でも教育に携わった。この自伝はアウアーが、生年の1845年から晩年にあたる1920年ごろまでのエピソードを、20の章に分けて綴ったものだ。
 なかでも帝政末期のロシアに関する記述が厚い。リムスキー=コルサコフに代表される「ロシア五人組」と、その同時代を生きたチャイコフスキーとの距離感、両者の世評の実際を、冷静な目つきで観察する。そこには音楽家の厳しい鑑識眼が働いている。一方で、友人たちの思い出や街の風俗を描く筆致は、温かみに溢れている。
 興味深いのはアウアーが、“文化交流の外交官”として当時の西欧とロシアとをつないでいたことだ。ロシアでは積極的にワーグナーを紹介し、西欧では取り憑かれたようにチャイコフスキーを取り上げた。とくに後者に関して、アウアーはこの作曲家に強い負い目を感じていたため、そのように行動し、さらにそれを自伝に事細かに記したのだろう。負い目、それを埋め合わせるかのような行動、そしてその行動を書物にとどめておこうとする彼の意志については、本書で確認していただきたい。
 このチャイコフスキーへの態度とその記録とに、思い入れの過剰さとその底に横たわる真実の両面がはっきりと現れている。自伝を読む醍醐味がここにある。


初出:モーストリー・クラシック 2018年11月号



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20世紀のソナタ作品

 「ソナタ」は17世紀、その内容に関わらず器楽一般を指した。はじめは3つ以上のパートと通奏低音とによるアンサンブルを意味することが多かったが、やがて2つのパートと通奏低音、1つのパートと通奏低音、独奏楽器のみのソナタにまで編成が絞られていく。18世紀後半にはさらに、急速楽章をいわゆるソナタ形式で書くことが、言わずもがなのスタイルとなった。ベートーヴェンが32のピアノ・ソナタでこのジャンルに大きな足跡を残して以降、19世紀の作曲家はその作法を守ったり逸脱したりしつつ、ソナタの創作を続けた。
 その最後の果実は、ベルクの「ピアノ・ソナタ」(1911年初演)だろう。仏革命から第一次大戦までをひと区切りとする歴史区分、「長い19世紀」(1789〜1914年)の世紀末に現れたこの作品でベルクは、ソナタ形式を踏まえ、調の有無の境目を行きつ戻りつする。加えて、ひとつの主題を変奏するように全体をまとめることで、師シェーンベルクの1909年前後の作風をなぞっている。

 一方、第一次大戦後から冷戦終結までの「短い20世紀」の「ソナタ」は、こうしたベートーヴェン以来のスタイルを“受け継がないこと”を旨とする。もちろんこの時代の作曲家も、インスピレーションの源としてベートーヴェンソナタ作品を重要視した。しかしそれは、スタイルの継承という形では発露しなかった。
 彼らはベートーヴェン以降の「ソナタ」を受け継がないための方法論として、18世紀以前の「ソナタ」を継承することにした。継承の仕方には2つの潮流がある。ひとつはスタイルを受け継ぐという姿勢、もうひとつは概念を受け継ぐという態度だ。
 ストラヴィンスキーバルトークらは、バロック以前のスタイルを借りることで、先輩世代の「ソナタ」に対抗した。ストラヴィンスキーはみずからの「ピアノ・ソナタ」(1924年)に関して「ソナタという用語をその本来の意味で用いた」と述べて、より原初的なソナタ(=18世紀以前のソナタ)へと接近している。バルトークは「ピアノ・ソナタ」(1926年)でバロック風のポリフォニーを採用、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」(1944年)では、バッハの同様作品のスタイルをトレースしている。プーランクマルティヌーもこの系譜に連なる。
 こうした新古典主義の「ソナタ」作家として重要なのはヒンデミットだ。キャリアの初期(1917〜24年)と円熟期(1935〜55年)とに、たくさんの「ソナタ」を書いた。ピアノやヴァイオリンはもちろん、ファゴットやチューバを含む各種の管楽器から、ハープやオルガン、ヴィオラ・ダモーレまで、その対象楽器は多岐にわたる。ロマン主義風にテンポを揺り動かすのではなく、リズム・パターンを何度も繰り返したり、パートとパートとが絡み合うポリフォニーを作曲原理としたりと、ソナタ形式を含む19世紀来のスタイルとは距離を置いた。

 器楽一般を意味したバロック期の「ソナタ」概念を受け継ぎ、それを抽象的な器楽ジャンル、卑近に言えば“なんでもありの実験室”として利用したのが、ブーレーズやバラケといった前衛の作曲家たちだ。「ピアノ・ソナタ第2番」(1948年)でブーレーズは、ソナタ形式を無効にした。第1楽章、対比的な2つの主題を響かせながら、それを展開するのではなく徐々に解体していく。「同第3番」は5つのまとまりを持つ。そのまとまりの組み合わせ(ルールに基づくと8通り)は奏者に任される。また、各まとまりの中でも各部分の順序を変えることができる。こういった不確定性をブーレーズは、「ソナタ」という器に注ぎいれた。「ソナタ」はここで、まさに“なんでもありの実験室”として存在している。
 同じ「ソナタ」作家でも、こうした西欧の流れとは隔絶したところにいたのがアメリカ、およびソヴィエト連邦の作曲家たちだ。アメリカで言えば、ケージの立場が興味深い。プリペアド・ピアノのための「ソナタとインターリュード」(1946〜48年)の「ソナタ」でケージは、バロック期のスタイルを擬似的に採用するが、東洋風の音階を使うことで「バロック」も、また、その様式を借りた「新古典主義」までも骨抜きにしている。
 ソヴィエト連邦の作曲家は「ソナタ」や「新古典主義」に対して、ケージのような“皮肉”めいたそぶりを取らなかった。西欧の作曲家とは異なり彼らは、19世紀来の「ソナタ」伝統を自国に持たなかったので、反発すべき規範も同様に持たなかった。プロコフィエフがその「ピアノ・ソナタ」群で、独自の和声・リズム感覚を盛り込むのにソナタ形式を呵責なく採用できたのは、そうした環境にあったからだ。こうした姿勢はショスタコーヴィチに受け継がれる。彼は「ピアノ・ソナタ第2番」(1942年)で(多分に政治体制への“迎合”があったにせよ)ソナタ形式、ロンド、変奏曲など、さまざまな懐古的手法を取り入れた。それでいて、雪がしんしんと降り積もり、やがて雪崩を起こし、地の底で融けていくような、この作曲家独特の音楽運びは、その中でも十分に生きている。

 アメリカやソヴィエト連邦よりもいっそう奇特な形で、西欧の同時代の潮流と隔絶していたのは日本かもしれない。矢代秋雄は1961年、「ピアノ・ソナタ」を書いた。矢代の1960年前後と言えば、フランス留学から帰国、「交響曲」で高く評価され、「チェロ協奏曲」で尾高賞を受賞した時期。もっとも厚みのある活動をした創作期にあたる。対比的な2つの主題を持つソナタ形式の第1楽章、それらの主題をそれぞれ用いた第2楽章(トッカータ)と終楽章(変奏曲)。循環する主題で作品全体をまとめる手法は、ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ第30番」作品109に範をとる。19世紀的な伝統の中で、どこまで「ソナタ」の芯に肉薄できるか。現地ではすでに失われたモットーを、遠く日本で矢代秋雄が高く掲げていた。


【CD】
ベルク「ピアノ・ソナタ」
ヒンデミット「ピアノ・ソナタ」
ブーレーズ「ピアノ・ソナタ第2番」
ケージ「ソナタとインターリュード」
ショスタコーヴィチ「ピアノ・ソナタ第2番」
矢代秋雄「ピアノ・ソナタ」


初出:モーストリー・クラシック 2018年10月号



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第九の編曲、そのさまざまな姿

 ウィーン・オペラ座の正面玄関を出て、建物の西側の通り、オーパーンガッセをのんびりと6、7分、歩いて南下する。左手にカフェ・ムゼウムを見ながら進むと、やがて「金色のキャベツ」のような円蓋を戴いた白亜の建物が目に入る。分離派会館(ゼツェッシオン)だ。
 クリムトの大作「ベートーヴェンフリーズ」は、この分離派会館の地下に保存されている。クリムトは1901年にこの壁画を制作し、翌02年、第14回分離派展に出品した。この年の分離派展のテーマは「ベートーヴェン」。クリムトは作曲家の最後の交響曲「第九」の第4楽章を主題に、壁画を描き上げた。
 一方、クリムトと親交のあったマーラーは、「第九」終楽章の「ひれ伏すのか、諸々の民よ」以下を素材に、6つのトロンボーンのための作品を編み、この展覧会の内覧会で披露した。こうしてクリムトの絵画による「第九」の“編曲”と、マーラー金管楽器による編曲とが、来場者の目と耳を同時に楽しませた。
 マーラーの編曲にはさまざまな含みがある。ベートーヴェンへの敬意、「第九」の再解釈、場にふさわしい規模への再編成。現実的な側面に注目すれば、3つめの再編成はとても重要だ。床面積が狭く天井の高い空間で、充分な響きを得る必要がある。長大な作品をすべて演奏するわけにもいかない。こうした条件が、少ない楽器で豊かに響く金管アンサンブルの「第九」パッチワークを生み出した。
 こうした楽器編成の移し替え、とくにその縮小を主眼とする編曲を、音楽家たちは長らくおこなってきた。管弦楽などを必要とする作品を、家庭で聴けるようにする点でこの編曲は、現代の音楽ソフトと同じ役目を果たしている。
 「第九」も大規模な作品なので、つねにこうした“縮小”編曲の対象となった。とりわけピアノ1台ないし2台への移し替えが多い。19世紀、ピアノは市民階級にも徐々に普及し、まさに家庭の楽器としてその地位を固めつつあった。大規模作品のピアノ編曲は、楽器の歩みと軌を一つにする。教会や劇場などの空間を、家庭の居間の大きさに縮め、管弦楽団や合唱団を、ピアノの中に閉じ込める。「第九」はいまや、自宅の安楽椅子に腰掛けて聴く音楽となった。
 リストの編曲(ピアノ1台版、ピアノ2台版)が有名だが、それ以前にも多くの“縮小”「第九」が存在する。初演から5年経った1829年ベートーヴェンの弟子チェルニーが連弾版を出版。シューマン1830年代初めに、第1楽章の途中までをピアノ用に編曲した。同じころワーグナーも、交響曲の学習を兼ねてピアノ独奏版を編む。
 1838年には、ベートーヴェンと並び称された鍵盤演奏の巨匠フンメルがピアノ四重奏版を刊行、ベートーヴェンらの後輩世代に当たるカルクブレンナーがピアノ独奏版を出版した。その20年後、1858年になってやっと、リストの2台ピアノ版が登場することとなる。
 “縮小”編曲の多くがアマチュアリズムと楽譜出版産業とに密接に関わっていた一方で、“拡大”編曲はもっぱら職業音楽家の演奏の現場で生まれた。先述のマーラーは この“拡大”編曲にも手を染めた。
 19世紀末から20世紀初めにかけてマーラーは、大陸ヨーロッパとアメリ東海岸とで、ベートーヴェン「第九」をさかんに指揮した。その中でマーラーがつねに心がけたのは、1820年代に書かれた「第九」を、1900年前後のオーケストラの機能に合わせて改変し、そのフォーマット上で「第九」に本領を発揮させる、ということ。この思想が正しいか否かはひとまずおき、結果としてマーラーが何をしたのかに着目したい。
 第一に編成の拡大。オリジナルは二管編成、つまり木管楽器奏者を各パート2人ずつ擁する規模だが、マーラーはその二管を倍増させた。またティンパニを2人にし、原曲にないテューバも加える。1895年のハンブルク公演では、バンダ(別働楽隊)まで使ったという。
 つぎに響きの拡大。編成が大きくなったので音量は当然、大きくなる。加えてマーラーは、弦楽5部のひとつひとつのパートをさらに分割して声部の数を増やし、内声を充実させることで響きに厚みを持たせた。
 そしてテクスチュアの拡大。副次的な旋律を新たに加えたり、楽器の組み合わせを変えて音色を変化させたりする。弦楽器の弓づかいを細かく指示することで、当世好みの息の長いフレージングを実現することも忘れない。
 こうした改変は編曲と言えるのか。マーラーはみずからの「第九」を実現するために、演奏(調理のスタイル)だけでなく、楽譜(レシピの中身)そのものを変えた。ここまでの手の込んだ作業を編曲と呼ばないほうが、むしろ不自然だろう。
 程度の差こそあれ「第九」は、こうした“編曲”の波に洗われてきた。マーラーより時間をさかのぼること半世紀、1846年にワーグナーは、ドレスデン「第九」の公演を指揮した。この公演に際してワーグナーは楽譜を改訂。みずから筆をとってプログラムノートを書き、改訂の特徴を述べている。基本的な考えはマーラーと同じ。ベートーヴェン当時の楽器や奏法を発展途上のものとし、よりよく進化した現代(ワーグナーの当時)の楽器と奏法、それに基づく語法を採用すべきとした。
 こうした信念はその後も綿々と受け継がれたる。たとえば、ワインガルトナー、メンゲルベルクトスカニーニといった20世紀前半の指揮者は、金管楽器の重複やティンパニの追加、音高の異動など、ワーグナーマーラーらの“編曲”をそれぞれの仕方で利用した。
 「第九」編曲の歴史は、そこにさまざまな目的や手段を輻輳させながら、折々に多様な姿を示してきた。その点に作品の懐の深さが表われているのはもちろんだが、むしろ音楽家や聴衆の、ある種の欲深さを反映していると見るほうがよいのかもしれない。そうした欲深さこそ、アートの沃野を耕す原動力なのだから。


【CD】

リスト 2台ピアノ版
ワーグナー ピアノ独奏版
マーラー 管弦楽版


初出:モーストリー・クラシック 2019年1月号


 
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かげはら史帆『ベートーヴェン捏造』(柏書房)

◇かげはら史帆『ベートーヴェン捏造 — 名プロデューサーは嘘をつく』柏書房, 2018年

 想像力は敏感さと鈍感さの両翼を持つ。正確に言うと、鈍感さに対して敏感でなければならない。たとえば演奏の現場。奏者は音楽に通じていて敏感だから、響きの微細な変化の内に、情緒の大きな推移を感じることができる。一方、聴き手が奏者と同じだけの情動を得るには、演奏に多少、誇張がなければならない。だから奏者は、聴き手の鈍感さに思いをいたす必要がある。
 19世紀の音楽家アントン・フェリックス・シンドラーは、ベートーヴェンの伝記を編むにあたり、こうした想像力を大いに発揮した。本書の著者かげはら史帆も、シンドラーの一連の仕事を記すにあたり、同様の想像力を発揮したようだ。
 シンドラー1820年代の初めにベートーヴェンの秘書となった。その経験を生かして作曲家の伝記をものする。依拠した資料は「会話帳」。失聴したベートーヴェンの筆談ノートだ。話し相手は伝えたいことを書いて作曲家に見せる。作曲家は発話してそれに答える。ノートには話し相手のメッセージが延々と連なる。ベートーヴェンの声は行間に聞こえるのみ。
 シンドラーはそこに目をつけた。話し相手の書き付けた言葉を改竄すれば、ベートーヴェンの意図を捏造することができる。作曲家の不名誉な履歴は消え、業績はいっそう際立つ。それをもとに伝記を書けば、鈍感な読み手もベートーヴェンの偉大さに気持ちよくひれ伏すだろう。シンドラーはそう考え、実際に「会話帳」を改竄した。世間はまんまと騙された。
 この改竄問題は40年前に決着済み。ただ、専門家にとっての当たり前が、世間にとっても当たり前とは限らない。著者は専門家の議論を誇張することで、これを一般の読み物として成り立たせた。事実の間をファンタジーで埋めるのは、シンドラーの手口と同じ。ただし、かげはらの誇張はギリギリのところで踏みとどまる。その崖っぷちの書き振りで著者は、シンドラーの心象に肉薄している。キケンな書物。 


初出:モーストリー・クラシック 2019年1月号



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バッハ《ミサ曲 ロ短調》◇ クリスティ&レザール・フロリサン

バッハ《ミサ曲 ロ短調》◇ウィリアム・クリスティ(指揮), レザール・フロリサン(合唱・管弦楽)〔KKC5886〕

フランス音楽に強い古楽奏者クリスティが、バッハ畢竟の大作を世に問う。彼らの当該曲の実演を2016年、ライプツィヒで聴いた。そのとき得た印象は「開放的なミサ曲」。録音にも同様の趣がある。巨視的には、キリストの十字架上の死に沈み込むのではなく、その後の復活と昇天を祝い、救済の喜びに浸る解釈。とりわけ「感謝の祭儀」にあたる「サンクトゥス」以下に活気を持って取り組む点に、そうした「開けた」解釈が現れる。微視的には、たとえば第三曲「キリエ」の譜割を「エレーイーソン」ではなく「エレーエーィソン」とすることで、開けた母音「エ」を印象付ける。こうした微に入り細を穿つ諸実践が、大局の鷹揚さにつながる。


初出:音楽現代 2018年12月号



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加藤浩子『バッハ』(平凡社新書)

◇加藤浩子『バッハ —「音楽の父」の素顔と生涯』平凡社新書, 2018年

 転職するたびに着実にキャリアアップを果たす。ドイツの大作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは、そんな現代的な就労スタイルを300年も前に実践していた。注意すべきはその転職が、つねに転地をともなっていたことである。土地を移れば職務が変わり、職務が変われば作品の内実も変わる。だから古今、バッハの伝記に類するものは「引越しの記録」のような体裁をとることが多い。
 加藤浩子の『バッハ』もまた、その点で先達の仕事を受け継ぐ。類書とこの書物とを画すのは、著者がバッハゆかりのドイツ各地に、なんどもなんども足を運んでいる点だ。そこでの体験がこの本を、単なる「引越しの記録」ではなく、地に足のついた「作曲家の履歴書」として成り立たせている。
 全5章の内容は彩り豊かだ。第2章がいわゆる評伝部分。9つの町を取り上げ、バッハの生涯をたどる。その前段として置かれた第1章「バッハとルター」が味わい深い。大作曲家の「履歴書」を読み解く上で必須の背景を、簡潔に語る。これが第2章を紐解く際の補助線となる。第3章に登場する「オルガン紀行」もまた、旅を続ける著者ならではのもの。小さな村に残る小さなオルガンにも、バッハの仕事の跡はたしかに残る。
 近年の新発見に触れるコラムにも注目したい。21世紀に入ってもバッハ研究は、その勢いを衰えさせることなく、次々と新しい発見を重ねた。そこに触れるのは新たに世に出る本の務め。この書物はその義務をよく果たしている。ただ、この新発見に関する記述を中心に、調査不足などによる誤りが散見される。著者がその経験に重きを置いて筆を進めたことの副作用か。この誤りに関してはすでに、版元のウェブサイトに正誤表が掲出されている。
 自分の足で歩き、その手で触れ、その目で見て、その耳で聴く。それが旅の醍醐味だ。その醍醐味の一端を味あわせるこの本は、紀行文としてもたくさんの読者を得ることだろう。


初出:モーストリー・クラシック2018年10月号



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バッハ先輩とのつきあいかた

 ふと周囲を見回すと、たくさんの先輩に囲まれて暮らしていることに気付く。もちろんその中には、尊敬できる先輩、近寄りがたい先輩、そりの合わない先輩などがいるだろう。そんな先輩たちとどのように付き合って行くべきか。音楽家たちはこんなふうに先輩と折り合いを付けていた。

ベートーヴェン
「和声の父・バッハの偉大なる芸術」(1801年の手紙)

シューマン
「私にとってバッハは、近寄りがたい存在だ」(1840年の手紙)

ドビュッシー
「バッハはすばらしいこともあるが、たいていは鼻持ちならない」(1917年の手紙)


 音楽家にとって先輩の仕事というのはどうしても気になるもの。自分がふと思いついた良いアイデアも、先輩が先に試していたらもう手遅れ。だから、しっかりと目配りをしておかなければならない。
 幼いころに立派な先輩に出会えれば、それはとても幸運なことだ。ベートーヴェンはそんなラッキーな音楽家のひとり。幼いころに付いていた先生が、当時としては貴重なバッハの楽譜を教材にしていたおかげで、その後の音楽家人生を決めるような勉強をすることができた。もしバッハの《平均律クラヴィーア曲集》を練習している学習者がいたら、そのひとはベートーヴェンと同じ訓練を積んでいることになる。
 バッハに会ったことがあるわけでもないのに、その生き方を肌身に感じながら創作に励んだ音楽家もいる。シューマンだ。彼は1828年から16年間、バッハが活躍したライプツィヒで生活した。ライプツィヒにはバッハの勤めた教会が残っているし、演奏を披露した広間もあれば、馴染みのカフェも健在だ。シューマンはそんな環境の中、バッハの音楽を勉強することで、この先輩の魅力に取り付かれてしまった。あまりに尊敬しすぎて「近寄りがたい」とまで言っている。
 一方で、そんな立派な先輩をどうしても好きになれない、という音楽家もいる。ドビュッシーはバッハの楽譜を勉強すればするほど、その「鼻持ちならない」様子に我慢できなくなってしまった。それでも、良いところは認めざるを得ないと白状しているのだから、先輩の立派さは理解しているようだ。
 バッハ先輩は尊敬されたり恐れられたり敬遠されたりと、その評価はまちまちだ。でも、だれもがバッハを気にしてしまう、というのは間違いないところ。先輩の影響力というのは侮れない。


ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750年)
多くの後輩音楽家の尊敬を集める「先輩の中の先輩」。現役時代から、鍵盤音楽の大家として注目されていた。死後しばらくは目立たなかったが、メンデルスゾーンが《マタイ受難曲》を蘇演したことで再び脚光を浴び、現在にいたる。◇マクリーシュ&ガブリエリ・プレイヤーズ《マタイ受難曲》

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年
幼いころベートーヴェンは、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》で鍵盤楽器の訓練を積んだ。その成果は晩年になって一気に花開き、《ミサ・ソレムニス》や《大フーガ》で実を結んだ。「三つ子の魂、百まで」。◇ガーディナー&モンテヴェルディ合唱団ほか《ミサ・ソレムニス》

ロベルト・シューマン(1810-56年)
音楽史上、バッハのことを最も尊敬していたのはこのシューマンではないだろうか。バッハの活躍したライプツィヒに暮らしたシューマンは、音楽だけでなく、バッハの勤めた教会、かよったカフェ、歩いた石畳を身体全体で感じていたはず。◇アーノンクール&バイエルン放送響ほか《楽園とペーリ》

クロード・ドビュッシー(1862-1918年)
ドビュッシーもバッハの曲を勉強したことは間違いない。でも、どうしてもそりが合わなかった。よいところもある、見習うべきところも。でも、どうしても好きになれない。そんな先輩のひとりやふたりは誰にでもいる。◇ファウスト, ケラス, メルニコフほか《最後のソナタ集》



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