フェンビー『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』

エリック・フェンビー『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』向井大策監修, 小町碧訳, アルテスパブリッシング, 2017年

 この書物は作曲家の評伝だが、その体裁はいくつかの点で類書と大きく異なる。
 英国の作曲家フレデリック・ディーリアスは1922年、60歳にして体の自由を失った。数年後には盲目となり、作曲をすることが実質的にできなくなる。彼の創作の危機を救ったのは、同郷の若き作曲家エリック・フェンビーだ。フェンビーは1928年からディーリアスの住居に寄宿し、口述筆記によって老作曲家の頭の中に鳴り響く音楽を楽譜に書き起こした。
 この評伝は、ディーリアスと過ごした日々をフェンビーが述懐したもの。対象者の生誕から死まで順を追って記すたぐいの伝記ではない。その特異な人物像のせいで、人間ディーリアスに目を奪われる向きもあろう。それもまたこの書物の魅力のひとつではある。しかし、その真価は別のところにある。
 この書物は作曲家の創作過程を言語化することに成功しているのだ。その言語化は二重になされた。つまり、作曲家が音楽の内容をフェンビーに伝えるために口述する段階と、フェンビーが第三者に伝えるために述懐する段階のふたつだ。作曲家の心中の音が楽譜になるまでの過程を、このように公共化した例は大変にめずらしい。
 バッハもまた、晩年に体の自由と視力とを失った作曲家のひとり。バッハの最後の創作過程がもし同書のように残されていたら、それは第一級の史料だ。この書物も後世、第一級史料と評されるだろう。本邦文化への貢献度はとても大きい。


初出:モーストリークラシック 2018年2月号



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