ハレ・ヘンデル音楽祭2014(2)

【ガラコンサート OAE】
 ヘンデルが生まれたころ、ハレ大聖堂はユグノー派(フランスのカルヴァン派)の礼拝に使われていた。ヘンデルが初めに得た音楽の仕事は、このハレ大聖堂でのオルガニストの職だった。外観は質素、内部はがらんとした大きな長堂。残響の多さは典型的な「教会の響き」だ(必ずしも演奏に向いているとは思わない)。
 6月10日(火)は、このハレ大聖堂でのガラ・コンサートに足を運んだ。出演はルーシー・クロウ(ソプラノ)、ジェイムズ・ギルクリスト(テナー)、スティーヴン・デヴァイン指揮オーケストラ・オヴ・ジ・エイジ・オヴ・エンライトゥンメント(OAE)と同合唱団。
 18世紀イギリスの作曲家ウィリアム・ボイスのセレナータ《ソロモン》を中心に、ヘンデル作品を組み合わせるプログラムで、狙いは同時代の「ソロモン」比較。台本は違うが、ヘンデルもオラトリオ《ソロモン》を作曲している(後述)。
 ハレ大聖堂は残響の多い大きな長堂なので、内陣のあたりで歌う歌手の言葉を、平土間の後ろまで届かせるのには、少し工夫が必要だ。当時の音楽家はそのあたりを心得ている。ポイントはコラ・パルテ。器楽が他のパートの旋律を重複して演奏し、音色や音量、子音を補強すること。
 OAEはこれがうまい。オーボエがヴァイオリンの旋律を共に吹き、それがさらに歌手の歌を下支えする、といった具合だ。音量と音色と子音の発音が歌い手に寄り添っているから、詩が御堂の後ろまで生き生きと伝わる。
 管弦楽のそういった共同作業のおかげもあり、歌い手は存分に力を発揮する。この日の注目はテナーのギルクリストだ。教会での歌い方を心得ている。大声で歌うわけではない。サーフィンの要領でコラパルテに乗ればよい。子音や声色は芝居の役者のように。朗々と「カンターレ」しないところに、空間の性質と楽曲の内容とを弁えた知恵を感じる。なお、ソプラノのクロウ、合唱団も佳演。


ヘンデルのソロモン】
 こちらはヘンデルのオラトリオ《ソロモン》の演奏。11日(水)、聖母教会が会場だ。ペーター・ノイマン指揮コレギウム・カルトゥシアーヌム。何度もこちらで聴いているコンビ。期待していないし、実際、ノイマンとオーケストラの音楽はほとんど「何も言っていない」に等しい。
 でも、でも、合唱と独唱はやってくれた!とりわけ今回の音楽祭のなかで最も個性的な独唱陣は圧巻。ソプラノのマリア・ケオハネ、カウンターテナーのイエスティン・デイヴィス、テナーのヴィルギル・ハルティンガー、そしてバスのヴォルフ・マティアス・フリードリヒ。もう曲者だけ集めた感じ。忍んでも忍んでも、まだまだ目立つ忍者たちのような布陣だ。
 とくにケオハネ!この人の魅力、やっと分かった。ごく有り体に言うと、喉の素材としては音色のパレットが少ない。問題はそれを何で補うか。会場を味方につけるわけだ。表現に変化をもたらしたい時、たくさんの工夫をするけれど、決定的なのは顔の向きを変えること。左右上下に音を飛ばして、会場での響き方そのものを変える。そうすると、出ている声色は同じでも、聴衆にはレジスターが変わったように聴こえる。これがとても合理的で効果的で、なにより音楽的。もっともなことなのだけど、あそこまで徹底して実践している歌手の歌を聴いたのは初めて。


【最大の衝撃 レージネヴァ】
 ソプラノのユリア・レージネヴァに心底、驚いた。ユジャ・ワンの演奏を聴いたときと同じような衝撃。超絶技巧を音楽の下に完璧に統合する。他を寄せ付けないほどの揺るぎない技術が、楽興に奉仕している。
 12日(木)のガラ・コンサートはウルリヒ教会(←コンサートホール)で。プログラムはヘンデル典礼楽曲やオペラからの抜粋に、ジェミニアーニの合奏協奏曲を挟みこむもの。ジョヴァンニ・アントニーニ指揮イル・ジャルディーノ・アルモニコ管弦楽を担当した。
 アントニーニとイル・ジャルディーノ・アルモニコ、日本での売り出し方は「エキセントリックなイタリア人」といった体だったけれど、実態は真っ当な音楽を真っ当な視点から演奏する音楽家。そんな真っ当さが、退屈なものではなく、豊かに心を揺さぶるものだと知っている演奏家。たとえばヘンデルの作品6-6。「ミュゼット」と題された楽章は、きちんとミュゼット(バグパイプの一種)の音がする。弦楽器がドローンと管楽器とを模倣する。そんな手当てをしっかりとするから、この楽章の持つ意味合いが際立ってくる。対比されるその他の楽章の個性もまた、はっきりする。子音のたった通奏低音はいつもながら、ほれぼれするほどの「語りっぷり」だ。
 そういう音楽家たちがレージネヴァの歌と触れたら、スパークするのは当然だ。レージネヴァはヴィブラートを完全に装飾音として使う。簡単に言うけど、これはちょっとすごいこと。凡百の歌手は、喉の弱さを補い、音痴をごまかすためにヴィブラートを多用する。これを装飾音として「のみ」使い、(歌手自身でなく)音楽表現に奉仕するようにできるのはひとえに、喉が強靭で、音程が完璧だから。
 声色にもびっくり。音域によって音色が異なる歌手はいる。レージネヴァは母の声と娘の声と末息子の声とを持っていて、それを同じ音域で切り替えることができる。さらにそれぞれのキャラクターには聖俗の二面がある。聖俗二面の三キャラクターを低中高の音域それぞれで実現できるわけだから、表現の幅は実に広い。
 こういう、他人にはできないことをすべて、音楽に結びつける。こんな幸せな夜で、当方のヘンデル・フェストシュピーレはフィニッシュ。この音楽祭はやはり、歌、歌、歌だ!



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