角英憲 訳 『レオポルト・アウアー自伝』

◇レオポルト・アウアー『レオポルト・アウアー自伝 — サンクト・ペテルブルクの思い出』角英憲訳, 出版館ブック・クラブ, 2018年

 自伝を読むには少しコツがいる。まず、自伝を客観的な伝記だと思わないこと。喜怒哀楽のすべてが、いくらかずつ過剰だと想定するくらいがちょうどよい。つぎに、自伝を作り話の集成だと思わないこと。過剰な内容の芯にはつねに、真実が横たわっている。さいごに、そのさじ加減は著者の心持ちによって左右されるということ。過剰さと真実味の割合はつねに揺れ動く。
 こうした留意点を踏まえた上で、レオポルト・アウアーの自伝を読む。アウアーはハンガリー出身のヴァイオリニスト。ドイツ語圏で修行時代を過ごしたのち、著名な演奏家・教師としてロシアで活躍した。革命以降はアメリカに渡り、同地でも教育に携わった。この自伝はアウアーが、生年の1845年から晩年にあたる1920年ごろまでのエピソードを、20の章に分けて綴ったものだ。
 なかでも帝政末期のロシアに関する記述が厚い。リムスキー=コルサコフに代表される「ロシア五人組」と、その同時代を生きたチャイコフスキーとの距離感、両者の世評の実際を、冷静な目つきで観察する。そこには音楽家の厳しい鑑識眼が働いている。一方で、友人たちの思い出や街の風俗を描く筆致は、温かみに溢れている。
 興味深いのはアウアーが、“文化交流の外交官”として当時の西欧とロシアとをつないでいたことだ。ロシアでは積極的にワーグナーを紹介し、西欧では取り憑かれたようにチャイコフスキーを取り上げた。とくに後者に関して、アウアーはこの作曲家に強い負い目を感じていたため、そのように行動し、さらにそれを自伝に事細かに記したのだろう。負い目、それを埋め合わせるかのような行動、そしてその行動を書物にとどめておこうとする彼の意志については、本書で確認していただきたい。
 このチャイコフスキーへの態度とその記録とに、思い入れの過剰さとその底に横たわる真実の両面がはっきりと現れている。自伝を読む醍醐味がここにある。


初出:モーストリー・クラシック 2018年11月号



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