加藤浩子『バッハ』

◇加藤浩子『バッハ —「音楽の父」の素顔と生涯』平凡社新書, 2018年

 転職するたびに着実にキャリアアップを果たす。ドイツの大作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは、そんな現代的な就労スタイルを300年も前に実践していた。注意すべきはその転職が、つねに転地をともなっていたことである。土地を移れば職務が変わり、職務が変われば作品の内実も変わる。だから古今、バッハの伝記に類するものは「引越しの記録」のような体裁をとることが多い。
 加藤浩子の『バッハ』もまた、その点で先達の仕事を受け継ぐ。類書とこの書物とを画すのは、著者がバッハゆかりのドイツ各地に、なんどもなんども足を運んでいる点だ。そこでの体験がこの本を、単なる「引越しの記録」ではなく、地に足のついた「作曲家の履歴書」として成り立たせている。
 全5章の内容は彩り豊かだ。第2章がいわゆる評伝部分。9つの町を取り上げ、バッハの生涯をたどる。その前段として置かれた第1章「バッハとルター」が味わい深い。大作曲家の「履歴書」を読み解く上で必須の背景を、簡潔に語る。これが第2章を紐解く際の補助線となる。第3章に登場する「オルガン紀行」もまた、旅を続ける著者ならではのもの。小さな村に残る小さなオルガンにも、バッハの仕事の跡はたしかに残る。
 近年の新発見に触れるコラムにも注目したい。21世紀に入ってもバッハ研究は、その勢いを衰えさせることなく、次々と新しい発見を重ねた。そこに触れるのは新たに世に出る本の務め。この書物はその義務をよく果たしている。ただ、この新発見に関する記述を中心に、調査不足などによる誤りが散見される。著者がその経験に重きを置いて筆を進めたことの副作用か。この誤りに関してはすでに、版元のウェブサイトに正誤表が掲出されている。
 自分の足で歩き、その手で触れ、その目で見て、その耳で聴く。それが旅の醍醐味だ。その醍醐味の一端を味あわせるこの本は、紀行文としてもたくさんの読者を得ることだろう。


初出:モーストリー・クラシック2018年10月号



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