2012年10月27日(土) サントリーホール
指揮:シルヴァン・カンブルラン
バリトン:大久保光哉 / アルト:藤井美雪
合唱:ひろしまオペラルネッサンス合唱団 / 管弦楽:読売日本交響楽団
ハンス・ツェンダー《般若心經―バリトンとオーケストラのための》
(創立50周年記念委嘱作品/世界初演)
細川俊夫《ヒロシマ・声なき声―独奏者、朗読、合唱、テープ、オーケストラのための》
(1989-2001年)
前半の《般若心經》と後半の《ヒロシマ》との対比が興味深い。それはきっと、日本的なことがらを音楽で表現できるか否か、という根本的な問いに対する、作曲者のスタンスの違いが表れた結果だ。
ツェンダーはそれが可能だと考えた。しかしこれは、誤解に基づいている。ツェンダーは、般若心經を、ヘーゲル風観念論のヴァリアントと理解することで、同経を音楽で表現できると錯誤した。
対立する二者を止揚した先に新たな地平が開ける、といったヘーゲル風の思想なら、確かに彼のしたように表現できる。たとえば、ツェンダーは「色」と「空」とを対比的に描く。その対比を克服した先に心の平静があるかのように。しかし「色即是空」「空即是色」とはそういったことがらなのだろうか。
はたまた、「ぎゃあてえ、ぎゃあてえ、はらぎゃあてえ、はらそうぎゃあてえ……」なる「安寧の鍵言葉」をツェンダーは、音楽の頂点に据える。だが、この言葉は般若心経におけるクライマックスに相当するのか。般若心経とはそうした頂を必要としているのか。
つまるところ、般若心経に代表される日本的なことがらを、(西洋音楽のみならず、東洋音楽的語法をもってしても)音楽で表現することはできない。たとえば、色即是空、空即是色をどのように表現すれば良いのだろうか。
ただ、それを「言外に」示すことは可能かもしれない。音楽で日本の思想を表現することはできない、と悟りつつ、主に西洋音楽の語法を用いて、それを「言外」に示そうとしているのが細川俊夫だ。《ヒロシマ•声なき声》で細川は、最も大切な音、聴こえねばならない声を隠し続けた。たとえば、第二楽章。原爆にあった子供達の手記を朗読する三人の声は、はじめこそはっきりと聞き取れるけれど、やがて折り重なって混沌とし、それが管弦楽にいとも簡単に飲まれてしまう。その管弦楽とて、最も悲痛な響きは、厚く煙った音の噴煙に覆われている。細川はなにかを表現しようとするのではなく、書法の狭間になんとかそれを示そうと試みているようだ。
当夜、そういったことが、ツェンダーの作品との対比で期せずして「示された」。こうした示唆を聴き手に与えたという意味において皮肉にも、《般若心經》なる作品は大成功をおさめたといって良い。
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