酒井健治《ブルーコンチェルト》初演



シルヴァン・カンブルラン(指揮)読売日本交響楽団管弦楽)▼2014年12月4日 東京・サントリーホール

 読売日本交響楽団の委嘱に基づき作曲された管弦楽曲の初演。1977年生まれの作曲者は欧州各地で研鑽を積み、多くの作曲賞を受けた。現在はベルリンに住む。同楽団ヨーロッパツアーでの再演も決まっているこの作品はいわば、読響の押し出しをよく見せるための、仕立ての良い背広といったところだ。
 楽曲には音楽の要素の線的な変化が、数コース用意され、それらが絡み合いながら先に進む。たとえば音階組織。冒頭に登場する完全五度音程、それが積み重ねられることで各音程の音が生まれる。それらはやがて五音(民謡的)に、七音(全音階的/旋法的)に、そして十二音(半音階的)にいたる。はたまた音響体の大きさ。室内楽から大管弦楽にいたる様々な規模の楽器編成でアンサンブルが試される。ときには機動性が、ときには音色が、異なる音響体間で対比されられたり、寄り添わされたりする。そこに作曲者の個人史が織り込まれる。それは色をめぐるロマン主義だったり、親しい人におくる弔意だったり。
 これらの線が組んず解れつ先に進み、何かもの言いたげな「変化」を醸していく。カンブルランと読響はこの変化を勤勉にすくい取った。響きは混濁しないし、音色のパレットも多彩。音量の輝度差は耳に痛くない程度に整えられ、その分、控えた「塩味」を、和音の推移がもたらす「出汁」が補っていく。
 このようにコンセプトは深く、それを表現する書法は卓越しており、込められた物語性も豊かで、演奏はそれらを丁寧に描く。しかし作品は、実に退屈なかたちで聴衆の元に届けられた。同じ枕でも、噺家の筋の組み立てによって面白くもつまらなくもなる。この退屈さの責任は、筋を組み立てるべき作曲家にあろう。たとえば一般に、多弁になればなるほど、単位毎の情報量は薄まる。そんなことが当夜、起きていなかったか。あの楽器種の多さは、音楽にとって必然的だったのか。大管弦楽と言える規模のオーケストラである必要が(委嘱条件だとしても)あったのかどうか疑問だ。
 管弦楽の規模の問題ではないのかもしれない。切り詰めた話術、無駄を省き経済的に語る、といった話者の態度は必ずしも、その人の潜在的な声の大きさや語彙の多さと関係があるわけではない。ただ、上記のような経済的でない運用は、オーケストラの持つ各能力をおおむね表に出すのには寄与していたように思う。その点で「読響の押し出しをよく見せるための、仕立ての良い背広」の役目は果たしたと言える。

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