ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(4)

 アンナ・マクダレーナ・ヴィルケはバッハの2番目の妻。歌手として活躍していた。故郷のヴァイセンフェルスでデビューして、1721年にはケーテンの宮廷音楽家に。まもなく当地の宮廷楽長だったバッハと結婚。以後、妻・母・写譜家などの役割を追うこととなる。
 「宮廷女性歌手」と題されたこのたびの演奏会は、そんなマクダレーナの音楽家としての側面に光を当てたプログラム。《アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳》などに基づき、彼女が歌ったり鍵盤楽器で弾いたりしたであろう作品を並べる。合間には企画者のナレーションも入って、演奏会は立体的に進む。
 バッハは「今の私の妻はなかなかよい澄んだ声で歌う」と妻を評した。今回の主役ヌリア・リアルは、そんな声を想像させる素晴らしいソプラノだ。彼女はカタルーニャ出身。すべての息を100%のエネルギー効率で声にできるまれに見る逸材で、素直な発声と技術とで歌を表現し尽くす。明るくクリアな声色を背景に、ときおりそこに翳りとなる色彩を加える。テーマにふさわしい人選だ。
 とくにバッハのカンタータ《私は満ち足りています》BWV82はとても素敵な演奏だった。シメオン老人が赤ん坊のイエスと出会い、救い主にあった今、満足して眠りにつける(この世を離れることができる)と歌う作品。バス独唱用だったこの曲にバッハは、ソプラノ稿も残した。
 これをリアルが歌うと、甘美な死の甘美さは増し、安らかに眠る、という言葉の本当の意味が伝わってくるように聴こえる。子守唄の境地といってもよいかもしれない。ここに、歌手・筆写者・信仰者・母といったマクダレーナの多様な姿が何重にも映し出されている。
 テーマの興味深さ、プログラムの組み立ての奥深さ、歌手の水準の高さ、プレゼンテーションの楽しさの歯車がしっかりと噛み合ったコンサート。街のヴァリエテ(寄席・演芸場)クプファーザールを会場としたのも、洒落ていて好もしかった。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(3)

 ライプツィヒ市は毎年、バッハ演奏に功績のあった人物や団体に、バッハメダルを贈呈している。これまでにレオンハルトガーディナーアーノンクール、コープマン、ヘレヴェッヘブロムシュテット鈴木雅明ベルリン古楽アカデミー、ラインハルト・ゲーベルらが受賞した。
 このたび市は、バス歌手のクラウス・メルテンスに、2019年のメダルを贈ることを決めた。6月16日、その授賞式兼演奏会に行く。場所はライプツィヒ大学礼拝堂パウロ教会。
 「あの日のことは忘れません。家に帰ったらオーバービュルガーマイスター(市長)からの知らせが届いていました。バッハメダルを頂戴できるとのことでした。この受賞はささやかな私の歌い手人生のハイライトです。」
 こう答礼の言葉を述べたメルテンス。40年来の友人であり、今般、バッハアルヒーフの会長に就任したトン・コープマンも祝辞を述べ、大いにその功績をたたえた。
 メルテンスの歌はとても不思議だ。その音楽性の点で非の打ち所がないほどに優れているにもかかわらず、ドイツ語の詩を持つ曲を歌うときには、その歌全体が言語の発話として聴こえてくる。すばらしい歌(音楽)とドイツ語(言葉)とが、完全に平仄を合わせるのだ。「ドイツ語の歌」であることを大きく超えて、「純化したドイツ語」の域に達しているようにさえ思われる。
 こうしたすばらしいバスが、バッハ演奏を支えてきたことは疑う余地のないことだ。近年まれに見るほど妥当なバッハメダル授与式に参加できた。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(2)

 ライプツィヒ・バッハ音楽祭には若手のための演奏会枠がある。当地のバッハ国際コンクールを始め、各地の国際コンクールを勝ち抜いた若い音楽家のための“ご褒美コンサート”だ。
 6月15日、旧取引所に登場したのはヴァイオリンのマリア・ヴロスチョスカ(Maria Włoszczowska)。2018年のライプツィヒ・バッハ国際コンクール、ヴァイオリン部門を制した。プログラムにはコレッリ、バッハ、ルクレールの名前が並ぶ。
 コレッリソナタ作品5-3は、旋律装飾を前提とした、いわば“骨格”作品。演奏者が即興性を発揮して曲を完成させる。その装飾の全体構成がよい。ヘミオラを伴う大きな終止に向けて徐々に装飾音を増やしていき、一旦リセット、また終止に向けて装飾を増やし、局所的にはギザギザのグラフを描きながら、全体としては右肩上がりに装飾が厚くなっていく。螺旋状に増えていくと言ってもよい。これはバッハ自身が弟子に教えていた方法だ。細部の装飾音形がもっと洒落たものになれば、この人はイタリア式装飾の名手になれるかもしれない。
 バッハの無伴奏ソナタ第2番とチェンバロ付きのハ短調ソナタに移ると、構成感の弱さが前に出てしまった。楽譜の緻密な分析の結果ではなく、楽譜から個人的に得た感興のほうを優先して表現する。というか、ほぼ全体がそれに占められる。バッハは、若い音楽家が感じるままに演奏して太刀打ちできるほど、作品を安易に書かない。
 だから、彼女の得た感興と作品のキャクターとが( た ま さ か )一致したルクレールソナタ作品9-8は、据わりのよい演奏になった。アンダンテでは楽器の音域の違いによる音色差を生かして、対話構造を浮き彫りにしたりと、その手腕も冴える。この曲の最終楽章はシャコンヌ。激しい楽想の後の浮遊感のある音色には、バロックらしい色彩がある。バッハのシャコンヌではなくて、ルクレールシャコンヌで締めたのもおしゃれだ。
 表現したい感興がしかとあって、それを音楽表現として表に出す。今のところ彼女は感興のほうが大きく、しかもそれが個人的な“感傷”に留まっている。勉強や表現方法の開拓がまだ追いついていないわけだ。ただし、表現意欲が人並外れて強いことは確か。技術をつけることも勉強を重ねることも後からできる。表現意欲がつよいことを大きく評価しての一等賞だったのだろうと思わされた。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(1)

 バッハが後半生を過ごしたドイツ中部ライプツィヒ。この街で6月14日(金)、恒例のバッハ音楽祭が始まった。会場は市内のバッハ史跡など。今年は「宮廷音楽家バッハ」をテーマに、23日までの10日間、約160の公演で大作曲家の仕事を振り返る。

 オープニングの式典とコンサートは例年通り、トーマス教会でトーマス合唱団の歌声に乗せて執り行われた。真面目だが音楽的能力が圧倒的に足りないトーマスカントルの指揮と、一所懸命だが上手とは言えない“天使の歌声”、そして本来は見事な仕事をするはずのフライブルクバロックオーケストラによる弛緩したルーティンワークのおかげで、(これも例年通り)演奏は言及に値しない。ちなみにプログラムは、バッハのオルガンのための《幻想曲》ト長調 BWV572、シャルパンティエの《テ・デウム》ニ長調、バッハの管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068、同じくカンタータ《笑いは我らの口に満ち》BWV110。

 音楽祭の真のスタートは、20時からニコライ教会で行われた演奏会と言ってよい。ヴィオール奏者ジョルディ・サヴァール率いるル・コンセール・ナシオンが、バッハの《音楽の捧げもの》BWV1079、管弦楽組曲第2番ロ短調 BWV1067を披露した。「宮廷音楽家バッハ」のテーマに沿って、ベルリンのプロイセン宮廷とゆかりの深い《音楽の捧げもの》と、同じくプロイセン宮廷との関係が取りざたされる(エマヌエルの就職用、マルティン・ゲック)管弦楽組曲第2番とを並べる、ベルリン・プログラム。
 ベテラン演奏家たちの音楽的基礎体力がずば抜けている。どんなに速い楽章でも旋律に句読点を打って区切りをつけ、まとまりを細かく設定することで、複雑に絡み合う声部を交通整理する。フラウト・トラヴェルソのマルク・アンタイもその息づかいで、弦楽器の弓の上下を思わせる音の力動を笛から引き出す。
 とりわけ興味深いのは、アンサンブルが絶妙なブロークン・コーンソートだったこと。フラウト・トラヴェルソ、第1・第2ヴァイオリン、ヴィオール、チェロ、コントラバスチェンバロヴァイオリン属の土台の上に、笛とヴィオールが乗ってくるので、各パートの音色の構成が絶妙に個性的になる。それが前半の《音楽の捧げもの》では各声部のキャラクターを描き分ける絵筆となったし、後半の管弦楽組曲では本来ヴィオラのパートをヴィオールで演奏するので、その浮遊感のある音色で内声が浮き立ち、より立体的な響きになった。
 職人性の透徹したこうした仕事に接すると、とても清々しい気分になる。その気分のまま、夜中はマルクト広場の野外コンサートへ。美味しく飲んで(炭酸水を)帰宅。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(7)

 長身で手足が長く、その立ち居振舞いに素養を感じる。それもそのはずで、アルトのユリア・ベーメは演劇畑の出身。芝居の勉強を終えてから声楽の専門教育を受けた。なぜ転向したかは定かではないが、その声、コントラルトもいけるのではないかと思わせるふくよかで、それでいて芯のある声を聴いた音楽家が、スカウトしたのではないか、と勝手に想像している。そう思わせるほど、立派な声帯の持ち主。
 このたびは「第2の女性」と題した演奏会で、オペラの脇を固める役柄にスポットライトをあてる(6月8日 於レオポルディーナ)。プログラムに並ぶ名前はヘンデル、ヴィヴァルディ、ハッセ。一騎当千のオペラ作家ばかりだ。
 声は先述の通りとても立派。コントラルトの名歌手ナタリー・シュトゥッツマンと並ぶ恰幅の良い声だが、シュトゥッツマンがきわめて内向的な声色であるのに対し、ベーメはとても外向的で曇りのないを発声をする。だから、とてもよく言葉が聴こえる。これが個性の光るところ。音色の幅はそれほど広くない。息の細さ太さ、それを太いほうへ大胆に、細いほうへ精緻にコントロールし、そこに息の勢いの差異を手段として加えて表現の基礎とする。
 さらに先述の通り、演劇で培った「身振りのアート」が歌の味方をする。総合的な表現力が非常に高い逸材で、このアルトにライプツィヒ・バッハ音楽祭ですぐに再会できるのは、とても嬉しいことだ。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(6)

 イタリア・ピアチェンツァで学んだメゾ・ソプラノ、ジュゼッピーナ・ブリデッリが6月9日、音楽祭3日目のフュージョン系公演に引き続きステージに上がる。今度はソロの舞台だ。前公演で「おっ!」と思わされた歌い手。さすが有能な主催者だけあって、ブリデッリひとりの舞台も用意していた。
 「ヘンデルとポルポラのオペラにおける女性史」とは、まるで論文のようなタイトルだが、プログラム自体は聴きやすいもの。とはいえやはり、公演全体には生真面目な雰囲気が漂う。歌い手の個性がそうさせるのだろう。
 ブリデッリの基本姿勢はこうだ。声色は内向と外向のふたつ。そこにヴィブラートの多寡を掛け合わせて対比やグラデーションを作る。たとえばポルポラのアリア《海の神よ Nume che reggi ’l mare》。ダ・カーポアリアの前半をノンヴィブラートの外向的な声で、後半をヴィブラート付きの内向的な声で、ダ・カーポをノンヴィブラートの外向的な声で装飾を施して歌う。
 それほど複雑なことをしているわけでないのだが、これだけの工夫でも、作品世界の輪郭ははっきりするのだから、大したものだ。まだまだ手数自体は少ない。ただ工夫を惜しまぬ心意気がある。勉強と場数の量で次のステップに進んで欲しい。またヘンデル音楽祭で会いたい歌手のひとり。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(5)

 歌い手にスポットライトを当てて音楽を楽しむ。たくさんの目と耳が一点に集中する。聴き手の期待感は大きい。舞台に立つ主役の緊張感も大きかろう。そんなステージで成果を上げた3人の歌い手を紹介。

 カリナ・ゴーヴァンはカナダ出身のソプラノ。バロック・オペラへの出演経験が豊富だが、古楽系とは一線を画す極太の美声。まるでワーグナー歌いのようだ。このゴーヴァンが6月10日、ハレ大学の講堂でリサイタル。管弦楽はジュリアン・ショーヴァン率いるラ・コンセール・ドゥ・ラ・ロージュが担当した。
 「狂乱」と題された通り、演奏会のプログラムは起伏の激しいジェットコースターのような設え。ヘンデルを始め、カイザー、グラウプナー、テレマンスカルラッティ(父)、ヴィヴァルディ、そしてラモーの名前が並ぶ。詩の言語も独伊仏英と色とりどりだ。
 ゴーヴァンは息の太さ細さを自在に操り、そこに息の速度を掛け合わせて基本表現とする。つまり「息深め x 息速め」「息深め x 息遅め」「息浅め x 息速め」「息浅め x 息遅め」の4通りを柱に、歌の詩世界を浮き彫りにするわけだ。息が浅くても声がスカスカにならないのは、もとが極太系だから。天賦の才を活かしている。
 大いに拍手を誘ったのは、深く速い息で歌う劇的で急速なアリアだが、浅く遅い息で歌うゆったりとした作品のほうが、表現に奥行きを感じさせる。とりわけ母国語のひとつ、英語で歌ったヘンデルの《太陽は忘れるかしら? Will the sun forget to streak》がすばらしい。余分な脂肪を取り去った声を、落ち着いた息づかいで送り出す。ヤハウェの威光を見聞きし、太陽神への信仰に揺らぎが生じるさまを、黄昏時の風情と重ね合わせる。その、女王の弱さや揺らぎが、軽めの声を丁寧に紡ぎ出す歌い方によって際立った。(つづく)



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(4)

 ヘンデル音楽祭といえばオペラである。器楽曲(とくに室内楽)もたくさん聴きたい。だがやはり、オペラ公演の華々しさというか求心力は大きい。この音楽祭のバロックオペラ三昧の日々を楽しみにしているファンも多い。
 今年は《アグリッピーナ Agrippina》HWV6、《アルチーナ Alcina》HWV34、《アルバーチェ Arbace》HWV A10、《アタランタ Atalanta》HWV35、《エジプトの女王ベレニーチェ Berenice, Regina d’Egitto》HWV38、《 忠実な羊飼い Il Pastor fido》HWV8a (1712年版)、《エジプトのユリウス・ケーザル Julius Caesar in Ägypten》HWV17(ジューリオ・チェーザレ独語版)、《ヴェンチェズラーオ Venceslao》HWV A4、《セルセ Serse》HWV40の9作品を舞台に掛ける。

 そのうち印象に残るのは《エジプトのユリウス・ケーザル》HWV 17(5月31日初日、6月7日鑑賞 於ハレ・オペラ座)と《アグリッピーナ》HWV6(6月10日 於旧ウルリヒ教会)のふたつ。両者は実に対照的な体裁をとる。《ユリウス・ケーザル》は1724年にロンドンで初演された。ヘンデルのオペラ最盛期の、そのまた頂点を飾る輝かしい作品だ。ヘンデルは、聴き手が大まかなあらすじを知っているだけで流れを追えるように工夫し、耳に残るアリアや二重唱をたっぷりと盛り込んだ。イタリア語を解さない聴衆でも充分に楽しめる内容になっている。
 一方《アグリッピーナ》は、1709年にヴェネツィアで初演されたオペラ。ヘンデルがイタリア・オペラ修行の集大成として世に問うた作品だ。これが現地で好評を博した。ドイツ人の書いたイタリア語のオペラが大成功を収めたのだ。筋の面白さを際立たせるためにヘンデルは、レチタティーヴォ中心の対話劇として、このオペラを仕上げた。つまり、台詞の応酬こそが命といったところ。
 歌が中心の《ユリウス・ケーザル》と、台詞が中心の《アグリッピーナ》。「“歌”劇」と「歌“劇”」の対比といってもよいかもしれない。

 《ユリウス・ケーザル》はペーター・コンヴィチュニーの新演出。指揮はミヒャエル・ホフシュテッター、管弦楽はハレ・オペラ座管弦楽団古楽器)。演出には興味深い点が多かったが、ひとつ挙げるとすればセストの扱いの面白さ。台本では死んだ父親ポンペイウスの気持ちを代弁するようなアリアを担当する。つまり、ポンペイウスの心中を、半周回ってセストが歌っていることになる。この日の演出ではセストは台詞のみの子役。アリアを歌ったのはなんと、斬首されたはずのポンペイウスの“頭部”。気持ちの高まりのたびに黄泉の国から舞い戻り、うらみつらみを首だけで歌うのだ。台本からもう半周して、ポンペイウスの思いを(首だけの)ポンペイウスがみずから発する。恨み晴らさでおくべきか、と柳の下に幽霊が現れる国に生きているものにとって、むしろ自然な芝居の作りで楽しめた
 歌い手ではクレオパトラ役のヴァネッサ・ヴァルトハルトが水際だった舞台を見せた。小間使いに化ける芝居内芝居をする、滑稽なところのある美人を、ごく軽い声で演じる。コメディエンヌとして優秀。《こうもり》のアデーレなど似合いそうだ。それが、ここぞというとき、深い息のソプラノに豹変するのだから役柄同様、まったくもって女優である。

 コンサート形式での上演となったのが《アグリッピーナ》。指揮はチェンバリストでもあるクリストフ・ルセ管弦楽はレ・タラン・リリクが担当した。《ユリウス・ケーザル》に比べると、歌も美術も制限された中での対話劇だが、そんな舞台が殊の外、面白く運ぶ。ヘンデルレチタティーヴォの力、それを余すところなく表現する歌手の実力が物を言った。とりわけ題名役のソプラノ、アン・ハレンベルクの活躍がすばらしい。滑舌よく、しかも流麗さを失わない。男を手玉にとる、事がうまくいかず困惑する、逆境に立ち向かう、ひょうきんに振る舞う、威厳を発する。アリアを歌うまでもなく、レチタティーヴォの段階ですでに、こうした各側面をしっかりと造形していくのだ。過去のヘンデル音楽祭で、そのアリアの歌唱技術については十二分に知っていたつもりだったが、ハレンベルクの音楽家としての真価は実際のところ、この辺りにあったのかもしれない。それが分かっただけでも収穫が大きい。その上、舞台が面白い。豊作である。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(3)

  アンナ・プロハスカのガラコンサートに出掛ける(6月4日 於ウルリヒ教会)。プロハスカは17・18世紀音楽に専門性を発揮するかたわら、ヴィトマンやリームらの大規模声楽曲でも重要な役割を果たすソプラノ。このたびはバリトンのフルヴィオベッティーニを伴って、「アポロとダフネ」なるタイトルのコンサートを披露した。プログラムの前半にはカヴァッリとヘンデルのオペラから抜粋したアリアを数曲を、後半にはヘンデルカンタータ《アポロとダフネ(地は解き放たれた)》HWV122 を置く。

 プロハスカの表現技術が抜きん出ている。これは単に歌が上手いという次元のことではない。まずは表現すべきコンテンツを持っていること。詩の感興をしっかりと咀嚼して、その栄養素を取り込み、その味わいを聴き手に伝えようとする意思と見取り図とがある。つまり、作りたい料理を頭に思い浮かべ、その作り方をレシピとして整理する能力がある。その想像の豊かさとレシピの精緻さとが卓越している。次に、そのレシピを実現しうる技術がある。レシピが精緻である分、調理は難しい。プロハスカはそんな難しい料理もやすやすと仕上げる。
 こうした総合的な表現力は、コロラトゥーラのような華々しい部分にも現れるが、むしろ(陰陽問わず)情感の深いゆったりとした歌に顕著だ。その点で地味といえば地味だけれど、そのぶん味わいは深い。布の手ざわりを伝えるような細やかな表現は、その反物そのものの質感はもとより、別の布地と重なったときの透け模様もあらわす。さらに、折り重なったときの布の重さまで聴き手に感じさせるのだから見事だ。
 具体的には、息の太さのコントロールが行き届いている。とりわけ細くする方向への統御が利いている。そうすると、たとえばピアノとフォルテの対比も、音量に頼るのではなくて、息の細い太いで表すことができる。つまり、音量は同じままにピアノの細やかさからフォルテの力強さ(逆もまた然り)へと移ることができる。これがさらに進むと、音量の小さいフォルテと、音量の大きいピアノとがコントラストを成すことさえある。これが詩世界の表現に奥行きを与える。
 一般的な意味で美しい声の持ち主だが、歌い手として図抜けて美声というほどではないプロハスカ。そんな彼女を一流に押し上げたのが、この細やかすぎるほど細やかな総合的表現力であることは明らかだ。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(2)

 6月2日(日)はヘンデルの生家・ヘンデルハウスで、「ペルシャバロックの交差点」なる演奏会を聴いた。チェンバロのジャン・ロンドー、リュートのトーマス・
ダンフォード、トンバク/サントゥールのカイヴォン・シェミラニがトリオで出演。イラン由来の曲と西洋バロック期の作品とを組み合わせ、それらを各楽器の即興でつないでいく。
 楽器の編成も巧み。リュート欧亜全体に広がる撥弦楽器サントゥールは西洋でも用いられ、ハンマーダルシマーと呼ばれている。チェンバロがハンマーダルシマーの構造や、リュートの奏法からさまざまな影響を受けていることは言うまでもない。打楽器のトンバクが入ることで、西洋音楽も原初の姿に戻ったかのように響く。
 プログラムに並ぶ作品の間だけでなく、その作品そのものにも即興の色合いが強い。その自由さがもっとも高く羽ばたいたのは、イタリア・バロックの作曲家ストラーチェの《チャコーネ》において。低音の主題を繰り返し繰り返し演奏する。その間、さまざまな変奏を各楽器で受け渡しつつ曲は進む。
 繰り返しの魔力、定型に抗うような変化、その相克が生む緊張感、その先にある安堵感。ただ自由なだけではない。たとえばチェンバロのロンドー。彼の自由さの土台の部分は真っ当なバロック音楽語法。その固い基礎があるから、その上で飛んだり跳ねたりしても作品の屋台骨は揺るがない。
 それはリュートのダンフォードも同じ。ふたりのバロック音楽語法に、シェミラニによるペルシャの打楽器が呼応するのが面白い。欧州と中東とが陸続きであることを強く感じさせる瞬間が多々ある。
 自由を保証する確固たる基盤。今、もっとも先端にいるチェンバロ奏者らにも、その遺伝子が受け継がれていることに意を強くする。



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