ハレ・ヘンデル音楽祭2019(1)

 ドイツ中部の街ハレは、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの生まれ故郷。ヘンデルは18歳までこの地で生活を営んだ。彼の若いころをしのばせる史跡が今も、あちこちに残る。
 街は偉大な作曲家を顕彰し、ヘンデル音楽祭を毎年初夏に開催する。今年も世界中から熱心なヘンデル・ファンが集った。演目はオペラやオラトリオといった大規模声楽作品が中心。さらに、そこからの抜粋によるガラ・コンサートが多数、用意される。実力も人気も一流のスター歌手が毎日、立て続けに出演するので、人気が高い。
 今年は5月31日から6月16日までの17日間、「繊細で雄々しく、気高い ー ヘンデルの描く女性」をテーマに、22の会場で100を超える演奏会を開催する。

 まず足を運んだのは、ヴィヴィカ・ジュノー(メゾソプラノ)とローレンス・ザッゾ(カウンターテナー)のガラコンサート(6月1日 於ヘンデル・ホール)。声の高さや役柄で性差を行き来する、バロック・オペラ特有の世界観を描き出す。ヘンデル、ハッセ、ポルポラ、ヴィヴァルディらのオペラからアリアなどを抜粋して組み合わせ、どこか倒錯した面白さを追求する。

 驚かされたことが3つ。ひとつはカッチュナー指揮のラウテン・カンパニー・ベルリンが、音響設計に非常に優れた楽団に変貌を遂げていたこと。とりわけコラパルテのバランスに繊細な気配りが感じられる。コラパルテとはあるパートの旋律を、別のパートがそのまま重複して演奏すること。器楽が器楽を、器楽が声楽を重複する場合のどちらのコラパルテもある。
 たとえば線の細いヴァイオリンの音を、オーボエがコラパルテする。するとヴァイオリンともオーボエともつかぬ、第3の音色がオーケストラから立ち上がる。これがより力強く、作品世界の輪郭を描き出す。
 管楽器のブレンドの仕方にも見識が光る。フラウト・トラヴェルソナチュラル・ホルン、そしてガットを張った弦楽器によるピチカート。これらのどれかが突出するのではなく、まさに混ざりあった状態で聴き手の耳に届く。この不可思議な音色が、続くアリアの詩の内容を先取りしているというわけだ。プログラミングとパフォーマンスの妙。

 ふたつめの驚きはザッゾの歌。こもり声だが、子音をあらかじめ発音して母音を音符に乗せるので、言葉が明瞭な上、前に進む力に澱むところがない。音色の幅は決して広くないが、声の太さの変化、地声と裏声との行き来が音楽の描出力を下支えする。そして音程がすこぶる良い。

 ジュノーの表現力にもびっくりした。これが3つめの驚き。押し出しの強い容姿のわりに、歌はきわめて慎ましやか。それは表現の幅をピアニッシモ方面に拡げているから。だから、コントラスト自体は高めで、迫力は削がれない。名コロラトゥラ歌手だけあって、細かい音の連なりをリズムの点でも音程の点でも適切に歌い上げる。重要なのは、音域を変えて同じ音形を繰り返すゼクエンツで、その繰り返しのたびに表情が異なる。音色や語り口を微妙に変化させているからだ。
 白眉はハッセのオペラ《シーロのアキッレ Achille in Sciro》より、アキッレのアリア《お答えします Risponderti vorrei》。ジュノーが弱音方向に声をコントロールするので、繊細さが際立つ。弱音といっても音が小さいわけではなく、ピアニッシモの性格を見事に描き出しているということ。
 男性役を歌う前には、控えの椅子に大股開きで座ったりと、世界観の彫琢に余念がない。そういう点も含めてとても華のある、チャーミングな歌手のひとり。女王の貫禄をひしひしと感じた一夜。



.

バッハ・アルヒーフの新会長にコープマン

ドイツ中部ライプツィヒにある研究機関バッハ・アルヒーフは5月13日、オランダの音楽家トン・コープマンが同アルヒーフの新会長に就任したと発表した。バッハ・アルヒーフは音楽学の研究所で、資料部門、博物館部門、音楽祭部門も擁する総合機関。日々、学術調査をおこなうのはもちろんのこと、年に1度、大バッハを顕彰する音楽祭をライプツィヒで開催している。コープマンは1970年代から、作品作曲当時の楽器やその奏法などを重視する姿勢で演奏を続ける。このたび、同様の活動を重ねてきたイギリスの音楽家ジョン・エリオット・ガーディナーから、その職位を受け継いだ。ガーディナーは2014年から会長の任にあった。詳細はこちら

Foto: Bach-Archiv Leipzig/Gert Mothes



.

小林聡幸『音楽と病のポリフォニー』

◇小林聡幸『音楽と病のポリフォニー — 大作曲家の健康生成論』アルテスパブリッシング, 2018年

 従来のものとはひと味違う作曲家論。著者は精神医学を専攻する大学教員で、クリエーターの病理とその創造性との関係を問う病跡学に、一方ならぬ知見を有する。
 この書物は全7章で、いずれの章でも作曲家を一人(最終章のみ二人)取り上げ、その創作活動に触れる。たとえば第4章。老年期のシベリウスは生活面では溌剌としていたが、創作面では作品に取り掛かるも書き上げられない「堂々めぐり」に陥った。そこに「創造性のうつ状態」を見るあたりは、専門家らしい議論となっている。
 一方、シューマンを扱う第2章で著者は、楽曲分析によって創作スタイルを抽出するも、それがシューマンの個人様式なのか、その年代の時代様式なのか、その土地の地域様式なのかといったことを検証しない。その持ち主不明のスタイルと、シューマン個人の病とを直接、連結してしまう。
 この本の面白さは第5章からにわかに加速する。病と創造性とに密接な関係が“ない”例のほうに、視点を移していくのだ。とりわけ、第6章のショスタコーヴィチの創作史は興味深い。スターリニズムの過酷な環境下、統合失調気質を抱えながら、精神的には大きな破綻を来すことなく生き、健筆を振るった。
 本書には登場しないが、バッハにせよモーツァルトにせよ、死の床でそれぞれ「ロ短調ミサ曲」や「レクイエム」を構想し、アウトプットした。その弱り切った身体と、生み出された音楽の豊かさとの間には深い谷が横たわっている。本書の第5章以降には、この隔たった両岸に橋をかけるためのヒントが隠されている。
 そもそも言葉で表現できないからこそ音楽として存在している音楽を、言葉で言い表そうというのは(それを仕事としている当方から見ても)“いかがわしい”ことだ。その意味では病跡学もまた“いかがわしい”。ただその“いかがわしさ”は、音楽の捉えきれなさから発する。そうである以上、これを面白がらないのは損というものだ。


初出:モーストリー・クラシック 2018年12月号


.

NHK FM「N響演奏会」出演〔5/11(土)18時〕

NHK交響楽団第1912回定期演奏会の実況放送(5月11日土曜日18時より)に、解説者として出演します。会場においでになる方はご一緒に、おいでになれない方は放送で演奏をお楽しみいただければと思います。くわしくはこちら→演奏会について放送について



.

特集 カンブルラン(過去の批評 その他)

読売日本交響楽団第9代常任指揮者 シルヴァン・カンブルランの任期最後の演奏会を聴いた(2019年3月24日〔日〕)。思えば、雑誌にいくたびか批評を寄稿したのをはじめ、さまざまな機会をとらえてカンブルランの演奏を文章にした。つねに幸せな試みだった。その記録。
...........................................................................

【批評】

読売日本交響楽団 第507回定期演奏会◇2011年9月12日(月) サントリーホール

読売日本交響楽団 第514回定期演奏会◇2012年4月16日(月)サントリーホール

読売日本交響楽団 第519回定期演奏会◇2012年10月27日(土) サントリーホール

読売日本交響楽団 第555回名曲シリーズ◇2012年12月19日(水)サントリーホール

読売日本交響楽団 第153回マチネーシリーズ◇2013年3月16日(土)東京芸術劇場

読売日本交響楽団 第158回マチネーシリーズ◇2013年9月8日(日)東京芸術劇場

読売日本交響楽団 第536回定期演奏会◇2014年4月17日(木)サントリーホール

読売日本交響楽団 第543回定期演奏会◇2014年12月4日(木)サントリーホール

読売日本交響楽団 第606回名曲シリーズ◇2017年11月26日(日)サントリーホール

読売日本交響楽団 第608回名曲シリーズ◇2018年1月19日(金)サントリーホール

読売日本交響楽団 第581回定期演奏会◇2018年9月28日(金)サントリーホール


【推薦文】

読売日本交響楽団 第533回定期演奏会◇2014年1月14日(火)サントリーホール

読売日本交響楽団 第559回定期演奏会◇2016年6月24日(金)サントリーホール

読売日本交響楽団 第615回名曲シリーズ◇2018年9月21日(金)サントリーホール〔PDF〕


【ブログ未掲載分】

読売日本交響楽団 第559回定期演奏会◇2016年6月24日(金)サントリーホール

 カンブルランの指揮でベルリオーズの序曲「宗教裁判官」、デュティユーのチェロ協奏曲「遥かなる遠い世界」、ブルックナー交響曲第3番「ワーグナー」を聴く。
 「宗教裁判官」で指揮者は、ヴィブラートの有無を音色の表現に、音色の表現を和声の緊張と緩和に結びつける。細部の表現をより大きな作品彫琢へとつなげる手腕はデュティユーでも。ケラスの弾く独奏部と管弦楽とが、筍と竹林のような関係を結ぶ。ある時は顔を出し、ある時は竹林に紛れる筍。両者の根は地下で分かち難くつながる。
 「ワーグナー」はさまざまな区分、たとえば和声進行や転調、形式の推移を、オルガンの明確な音色変化のように表現したらどうなるか、という長大な実験。カンブルランの場合、区分の変わり目のシェイプに主張がある。耳を引くのは柳腰を思わせる流線型。くびれは深いが変化は滑らかだ。少し「鈍い」ところのある作品だが、カンブルランはその「鈍さ」を「スマート」に示した。好演。(モーストリー・クラシック 2016年9月号)


読売日本交響楽団 第611回名曲シリーズ◇2018年4月13日(金)サントリーホール

 クラリネット独奏にメイエを迎え、カンブルランと読響がひと味違った名曲プログラム。
 まずはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」から4曲。作曲家はこの作品に、響きの実験室の役割を与えた。そんな実験を指揮者と管弦楽が再現していく。続くモーツァルトの「協奏曲」とドビュッシーの「第1狂詩曲」とはいずれも、クラリネットのための音楽。どちらでもメイエは、仏語の発話リズム風にスイングする。前者ではそれがよいスパイスに、後者ではその発話リズムと音楽との平仄がぴたりと合う。
 ストラヴィンスキーの「春の祭典」では、響きとリズムとが高度に融合した。響きの波間にリズムは埋もれないし、リズムの前進に響きは置いていかれない。これは速度制御の妙。サウンド過多になりそうなところは遅くしてリズムを丁寧に。リズム優勢になりそうなところは速くして響きの渦を。いわば逆張りの美学。これにより、この作品の楕円(複焦点)構造がはっきりと浮かび上がった。(モーストリー・クラシック 2018年7月号)



.

プレガルディエン&ゲース

クリストフ・プレガルディエン&ミヒャエル・ゲース◇2018年11月9日(金)於 トッパンホール

 テノールのプレガルディエンがピアノのゲースを伴ってリサイタル。シューマンの連作歌曲の世界を描き出す。
 「5つの歌曲」の第3曲「兵士」は、主人公による情景描写と心情独白とを交互に置く。歌い手は両者で声色や表現の振幅を変える。客観的な情景描写のほうをより抑えた語り口にするのは当然。その冷静にも思える声がときおり、かすかに震えたり伸び縮みしたりする。抑えきれない想いが漏れ出ている。「詩人の恋」の第11曲「ある若者が娘に恋をした」でも、第三者的な声色で失恋の痛々しさを倍加させる。
 ピアノがその表現世界に奥行きを与えていたのは間違いない。たとえば「詩人の恋」の第1曲「このうるわしい5月に」。まっすぐな声で初夏の芽吹き=恋の誕生を喜ぶ歌手に対してピアノは、テンポの揺らぎと不協和音の強調とで、主人公を不安な世界へと引きずり込もうとする。
 歌い手とピアノ、ふたつの中心がせめぎあう楕円的な作品世界。その力の均衡点にシューマンの幻影を見た。


【DVD】
シューベルト《美しき水車屋の娘》プレガルディエン&ゲース


初出:モーストリー・クラシック 2019年2月号



.

角英憲 訳 『レオポルト・アウアー自伝』

◇レオポルト・アウアー『レオポルト・アウアー自伝 — サンクト・ペテルブルクの思い出』角英憲訳, 出版館ブック・クラブ, 2018年

 自伝を読むには少しコツがいる。まず、自伝を客観的な伝記だと思わないこと。喜怒哀楽のすべてが、いくらかずつ過剰だと想定するくらいがちょうどよい。つぎに、自伝を作り話の集成だと思わないこと。過剰な内容の芯にはつねに、真実が横たわっている。さいごに、そのさじ加減は著者の心持ちによって左右されるということ。過剰さと真実味の割合はつねに揺れ動く。
 こうした留意点を踏まえた上で、レオポルト・アウアーの自伝を読む。アウアーはハンガリー出身のヴァイオリニスト。ドイツ語圏で修行時代を過ごしたのち、著名な演奏家・教師としてロシアで活躍した。革命以降はアメリカに渡り、同地でも教育に携わった。この自伝はアウアーが、生年の1845年から晩年にあたる1920年ごろまでのエピソードを、20の章に分けて綴ったものだ。
 なかでも帝政末期のロシアに関する記述が厚い。リムスキー=コルサコフに代表される「ロシア五人組」と、その同時代を生きたチャイコフスキーとの距離感、両者の世評の実際を、冷静な目つきで観察する。そこには音楽家の厳しい鑑識眼が働いている。一方で、友人たちの思い出や街の風俗を描く筆致は、温かみに溢れている。
 興味深いのはアウアーが、“文化交流の外交官”として当時の西欧とロシアとをつないでいたことだ。ロシアでは積極的にワーグナーを紹介し、西欧では取り憑かれたようにチャイコフスキーを取り上げた。とくに後者に関して、アウアーはこの作曲家に強い負い目を感じていたため、そのように行動し、さらにそれを自伝に事細かに記したのだろう。負い目、それを埋め合わせるかのような行動、そしてその行動を書物にとどめておこうとする彼の意志については、本書で確認していただきたい。
 このチャイコフスキーへの態度とその記録とに、思い入れの過剰さとその底に横たわる真実の両面がはっきりと現れている。自伝を読む醍醐味がここにある。


初出:モーストリー・クラシック 2018年11月号



.

かげはら史帆『ベートーヴェン捏造』

◇かげはら史帆『ベートーヴェン捏造 — 名プロデューサーは嘘をつく』柏書房, 2018年

 想像力は敏感さと鈍感さの両翼を持つ。正確に言うと、鈍感さに対して敏感でなければならない。たとえば演奏の現場。奏者は音楽に通じていて敏感だから、響きの微細な変化の内に、情緒の大きな推移を感じることができる。一方、聴き手が奏者と同じだけの情動を得るには、演奏に多少、誇張がなければならない。だから奏者は、聴き手の鈍感さに思いをいたす必要がある。
 19世紀の音楽家アントン・フェリックス・シンドラーは、ベートーヴェンの伝記を編むにあたり、こうした想像力を大いに発揮した。本書の著者かげはら史帆も、シンドラーの一連の仕事を記すにあたり、同様の想像力を発揮したようだ。
 シンドラー1820年代の初めにベートーヴェンの秘書となった。その経験を生かして作曲家の伝記をものする。依拠した資料は「会話帳」。失聴したベートーヴェンの筆談ノートだ。話し相手は伝えたいことを書いて作曲家に見せる。作曲家は発話してそれに答える。ノートには話し相手のメッセージが延々と連なる。ベートーヴェンの声は行間に聞こえるのみ。
 シンドラーはそこに目をつけた。話し相手の書き付けた言葉を改竄すれば、ベートーヴェンの意図を捏造することができる。作曲家の不名誉な履歴は消え、業績はいっそう際立つ。それをもとに伝記を書けば、鈍感な読み手もベートーヴェンの偉大さに気持ちよくひれ伏すだろう。シンドラーはそう考え、実際に「会話帳」を改竄した。世間はまんまと騙された。
 この改竄問題は40年前に決着済み。ただ、専門家にとっての当たり前が、世間にとっても当たり前とは限らない。著者は専門家の議論を誇張することで、これを一般の読み物として成り立たせた。事実の間をファンタジーで埋めるのは、シンドラーの手口と同じ。ただし、かげはらの誇張はギリギリのところで踏みとどまる。その崖っぷちの書き振りで著者は、シンドラーの心象に肉薄している。キケンな書物。 


初出:モーストリー・クラシック 2019年1月号



.

バッハ《ミサ曲 ロ短調》◇ クリスティ&レザール・フロリサン

バッハ《ミサ曲 ロ短調》◇ウィリアム・クリスティ(指揮), レザール・フロリサン(合唱・管弦楽)〔KKC5886〕

フランス音楽に強い古楽奏者クリスティが、バッハ畢生の大作を世に問う。彼らの当該曲の実演を2016年、ライプツィヒで聴いた。そのとき得た印象は「開放的なミサ曲」。録音にも同様の趣がある。巨視的には、キリストの十字架上の死に沈み込むのではなく、その後の復活と昇天を祝い、救済の喜びに浸る解釈。とりわけ「感謝の祭儀」にあたる「サンクトゥス」以下に活気を持って取り組む点に、そうした「開けた」解釈が現れる。微視的には、たとえば第三曲「キリエ」の譜割を「エレーイーソン」ではなく「エレーエーィソン」とすることで、開けた母音「エ」を印象付ける。こうした微に入り細を穿つ諸実践が、大局の鷹揚さにつながる。



.

加藤浩子『バッハ』

◇加藤浩子『バッハ —「音楽の父」の素顔と生涯』平凡社新書, 2018年

 転職するたびに着実にキャリアアップを果たす。ドイツの大作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは、そんな現代的な就労スタイルを300年も前に実践していた。注意すべきはその転職が、つねに転地をともなっていたことである。土地を移れば職務が変わり、職務が変われば作品の内実も変わる。だから古今、バッハの伝記に類するものは「引越しの記録」のような体裁をとることが多い。
 加藤浩子の『バッハ』もまた、その点で先達の仕事を受け継ぐ。類書とこの書物とを画すのは、著者がバッハゆかりのドイツ各地に、なんどもなんども足を運んでいる点だ。そこでの体験がこの本を、単なる「引越しの記録」ではなく、地に足のついた「作曲家の履歴書」として成り立たせている。
 全5章の内容は彩り豊かだ。第2章がいわゆる評伝部分。9つの町を取り上げ、バッハの生涯をたどる。その前段として置かれた第1章「バッハとルター」が味わい深い。大作曲家の「履歴書」を読み解く上で必須の背景を、簡潔に語る。これが第2章を紐解く際の補助線となる。第3章に登場する「オルガン紀行」もまた、旅を続ける著者ならではのもの。小さな村に残る小さなオルガンにも、バッハの仕事の跡はたしかに残る。
 近年の新発見に触れるコラムにも注目したい。21世紀に入ってもバッハ研究は、その勢いを衰えさせることなく、次々と新しい発見を重ねた。そこに触れるのは新たに世に出る本の務め。この書物はその義務をよく果たしている。ただ、この新発見に関する記述を中心に、調査不足などによる誤りが散見される。著者がその経験に重きを置いて筆を進めたことの副作用か。この誤りに関してはすでに、版元のウェブサイトに正誤表が掲出されている。
 自分の足で歩き、その手で触れ、その目で見て、その耳で聴く。それが旅の醍醐味だ。その醍醐味の一端を味あわせるこの本は、紀行文としてもたくさんの読者を得ることだろう。


初出:モーストリー・クラシック2018年10月号



.