ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(2)

カンタータ・リング1】「待降節と降誕祭」2018年6月8日 20時 於ニコライ教会 ▽ ガーディナー指揮、モンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 褒めるところがありすぎて書ききれないので、合唱の扱いに照準を合わせる。(いつものように)内声が厚く力強いので、合唱は中身の詰まった立体的な響きになる。それでいて内声は柔軟に動き、繊細に推移する。だから合唱団の声全体がまるで、形を刻々と変える柔らかい(そして時に手応えのある)物体のように感じられる。その物体のフォルムの変容が、詩の情緒の移り変わり、それに即したバッハの音楽の表情の推移をきれいにトレースする。そればかりか、ときにはそれを上回る勢いで自律的にその形を変化させていく。そういう表現がバッハのカンタータ群はもちろん、そのあいだに挟まれたガッルスやシュッツの合唱曲でも力を発揮する。これは合唱だけの手柄ではなく、それを支える器楽の手腕によるところも大きい(コラ・パルテなど)。統率のとれた楽団だが、音楽家ひとりひとりの表現意欲はそれぞれにほとばしっている。すばらしい。


カンタータリング2】「顕現日とマリア潔めの祝日」2018年6月9日 正午 於トーマス教会 ▽ コープマン指揮、アムステルダムバロック・オーケストラ&合唱団

 こちらも褒めるところばかりなので、管弦楽と独唱のクラウス・メルテンス(バス)について。この楽団のすばらしさは、大仰でなく繊細であるにもかかわらず、ニュアンスに富んでいて彫りの深い表現ができるところにある。それは、ことバッハ演奏について言えば、レジスター変化に敏感だから。弦楽上声部が単独で登場、やがて管楽器がそれをベールのように覆い、そこに通奏低音が合流して来るような場面。この重なり合いの推移がもたらす情緒の変化が、精妙であるにもかかわらず、実にくっきりとしている。それが楽想の移り変わり、とりわけ和声や調の変化と平仄を合わせる。指揮者はオルガン演奏の大家でもある。あの精緻なレジスター操作は、その経験からくるものとみてよい。
 クラウス・メルテンスの歌にはいつも、感動させられる。きりがないので一点だけ。彼は音量に大きな変化をつけずにフォルテとピアノとを歌い分けることができる。性格を描き分けているということ。だからフォルテのときに闇雲に大きな声で音割れしたり、ピアノのときに変なささやき声で聞こえなかったり、ということがない。いずれでもしっかりと詩を平土間に響かせ、それでいて詩の情緒は細やかに歌い上げる。こういう管弦楽団と歌い手とが手を組むのだから、BWV82が彫り深く、それでいて柔らかく、その上、決然とした演奏になるのは当然のこと。感に堪えない。








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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(1)

 ドイツ中部ライプツィヒで6月、恒例のバッハ音楽祭が開催された。会場は市内のバッハ史跡など。今年は「サイクル」をテーマに、6月8日から17日までの10日間、160を超える公演で大作曲家の仕事を振り返る。
 今年の音楽祭は「カンタータ・リング」に始まり「カンタータ・リング」に終わったと言っても過言ではない。「カンタータ・リング」とは今年のバッハ音楽祭の大型企画。主催者の厳選したバッハのカンタータ33曲を、3日10公演でリレーする“駅伝コンサート”だ。ガーディナー、コープマン、鈴木、ラーデマンらが、それぞれの楽団とともに演奏に携わる。
 各演奏家とも教会暦にしたがって順番に数曲ずつカンタータを披露していく。数曲のカンタータのあいだには、16世紀や17世紀の教会音楽を挟み込む。これも当然、教会暦やカンタータの内容に呼応する。音楽だけでなく教会暦に沿った聖書の箇所の朗読も行われた。
 企画全体のコンセプト、演目の組み立ての方法論、個別の演奏の充実度、聴衆を巻き込む会場の一体感、そして発券状況。どれをとっても大成功としかいいようのないプロジェクトとなった。

 さて、オープニングコンサートにもいちおう触れておく(6月8日 於トーマス教会)。トーマス・オルガニスト、トーマス・カントール、トーマス合唱団とゲヴァントハウス管弦楽団の出演はいつも通り。無資格でトーマスカントールになったゴットホルト・シュヴァルツの音楽は、例によってコメントに値しない。
 ただし、プログラムはとても優れていた(考えたのはインテンダントのミヒャエル・マウル)。シャイン、シュッツ、バッハ、メンデルスゾーンと同地にゆかりのある音楽家の作品を並べる。250年ほどの時間を超えて “ライプツィヒの音楽” を提示する試み。シャインのテ・デウムで始まり、シャインとシュッツの作品で一時「メメントモリ」、バッハの短ミサBWV233を経て、メンデルスゾーンの《Verleih uns Frieden gnaediglich》で締める。
 音楽様式の対比と共通点、詩のメッセージの一貫性、投影されるライプツィヒの歴史。とりわけ、冷戦末期に反体制運動を主導したこの街にとって、重要な言葉であり思想である「Frieden」を“柔らかく”強調するところがすばらしい。その後の演奏会のプログラムにも、こうした「すばらしさ」があろうことを強く予感させるもの。その予感は的中することとなる。


写真:ライプツィヒ・トーマス教会






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ハレ・ヘンデル音楽祭2018

 ハレ・ヘンデル音楽祭に行った。ハレは中部ドイツの街。ヘンデルの生まれ故郷として有名だ。そのハレが毎年、郷土の偉人を讃えるべく、ヘンデル音楽祭を開催している。歿後250年記念の2009年を境に、豪華な出演陣、楽しい演目、少し凝った企画を盛り込むようになる。その結果、今では多くのファンを集める国際的な音楽祭へと成長した。
 2018年は5月25日から6月10日までの17日間、ヘンデル史跡をはじめとした市内各所で50余の演奏会が開かれた。当方は5月31日から6月6日まで、ライプツィヒからハレに通って、いくつかのコンサートを楽しんだ。以下その短信。


【5月31日】
 ウルリヒ教会でマグダレナ・コジェナーのガラコンサート。ふつうこういう演奏会は、歌手が会場全体を支配するか、さもなければ歌手と楽団との力が拮抗して、相乗効果を上げるかだが、今回はアンドレア・マルコン率いるラ・チェトラが、音楽性の点で主役の歌い手を凌駕した。コジェナーももちろん悪くはない(白眉は《Verdi prati》)6月1日はそのマルコン&ラ・チェトラで《メサイア》。期待大。


【6月1日】
 マルコン指揮、ラ・チェトラ・バーゼルで《メサイア》を聴く。大聖堂にて。きわめて劇的。ただしそれは、闇雲にオペラ風というのではない。単純な和声進行の持つ緊張と緩和の行き来、それを手抜きなく描き出す。ブフォン論争を持ち出すまでもなく、イタリア音楽の簡明な和声は振れ幅の大きい情緒を描き出す。そこに旋律の流麗さが乗り、全体として彫り深く、それでいて細やかに詩の綾を表現する。ヘンデルはそういう音楽をイタリアで学んだし、それを生かして創作していた。そんなヘンデルの音楽の力が、十分に発揮された舞台。
 ヨハンソン、メナ、チャールズワース、ヴォルフの各ソリストも、マルコンのそういう姿勢をよく理解していた。具体的には装飾音(有り体に言えば不協和音)、管弦楽との時間的ズレ(ルバート)などでもう一段、和声の彫りを深くする。ヘンデル祭は3年に2回程度のペースで8度目のはずだが、もっとも素晴らしい《メサイア》。


【6月2日】
 ナタリー・シュトゥッツマンがソプラノのカミラ・ティリングを相棒に、ウルリヒ教会でガラコンサート。管弦楽はもちろんOrfeo 55。さまざまなオペラからアリアを抜粋、器楽曲を挟みながら一連の(恋愛)ストーリーを織り上げる。よくできたプログラム、小芝居付きで楽しい。シュトゥッツマンがすばらしいのはいわずもがなだが、ティリングの幅広い芸風が見事。俊敏でいて太めの声だから、朗らかな場面も愁嘆場も、いずれも情感豊か。
 1日のラ・チェトラが「道理のわかったモダン奏者が古楽器持って弾いている」感じ(それはそれで悪くない)だとすれば、Orfeo 55は「古楽器からレッスンをスタートしたような連中が古楽器を弾いている」感じ(とてもよい)。とりわけ通奏低音の子音と弓の上下の力感とには恐れ入った。各パートの即興も各所で炸裂、場を盛り上げた。


【6月6日】
 いちばん楽しみにしていたユリア・レージネヴァの演奏会@ウルリヒ教会。オーケストラはシンコフスキ率いるラ・ヴォーチェ・ストゥルメンターレ。このオケが曲者(ほめてない)。リーダーのシンコフスキは18世紀の語法を踏まえた上で、それをデフォルメしたりして、ギリギリのところを攻めていく(ときに逸脱する)。問題は他のメンバー。モダン奏者がただ古楽器を持ちました、いや、古楽器ですらなく「モダンセッティングの楽器を古楽持ちしてます、あっ、弓は18世紀のレプリカです」といった状態。さらに、18世紀の語法をふまえずにリーダーの真似だけをするから、ただアタックが鋭いだけのアクの強い似非古楽演奏といった風情。とくに通奏低音がひどくて、ああいうチェロはいっそ、内側に収納されているピンをしっかり出して、モダン弾きしてくれたほうがまだマシである。
 もう本当に冒頭の器楽曲で頭にきてしまったのだが、レージネヴァの登場した2曲めからは別世界だった。彼女は多分、少し声が低くなった。その結果、太い声の太さは増し、細い声の細さはそのまま維持された。絹布のような肌触りの声質は以前からだが、その布が厚くなったといったところ。(いつもながらに)びっくりするのは、同じ声量でforteとpianoとを歌い分けるところ。forteとpianoとは音量が違うのではなく、性格違うのだということがよく分かる。
 器楽が声楽のように演奏する、ということは重要視されるが、18世紀音楽でもうひとつ大切なのは、歌い手がいかに器楽的に歌えるか、ということ。レージネヴァはその点、音色変化も運動性能も申し分ない。下行音階をすばやく繰り返すゼクエンツ、繰り返すたびに音色や表情を変え、しかも、最終的に到達する最低音まできっちり望ましい音程に着地する。子音先行で母音が音符に乗るので、歌に澱むところがない。歌い始めのすばらしさはもちろんだが、感動的なのは歌い切りに通う神経の細やかさ。語尾の美しい言葉はやはり、人の心を動かす。






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作曲コンクールの意義

日本音楽コンクール作曲部門の審査が簡素化される。それに対して日本現代音楽協会会長の近藤譲がコンクール当局に公開書簡を送った。近藤が強調する"作曲コンクールの意義"について首肯する。かつて当方も同じようなことを強調したことがあると思い至った。当該の文章を以下の通り公開する。文章は芥川作曲賞という一事例を通して、作曲コンクール一般の意義について考察している。そこで得られた知見に基づけば、当該の簡素化の(経費削減以外の)根拠は薄弱で、近藤の指摘は要を得たものと感じられる。
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芥川作曲賞(公益財団法人サントリー芸術財団・東京)

 1989年1月、作曲家の芥川也寸志(1925生)が亡くなった。作家・芥川龍之介の三男。 管弦楽曲《トリプティーク》(1953)や《エローラ交響曲》(1958)、オペラ《ヒロシマのオルフェ》(1960/67)といった作品で知られる。テレビやラジオにもたびたび出演した。そのひとつがTBSのラジオ番組「百万人の音楽」だ。スポンサーはサントリー。番組開始の1967年から22年間、芥川は司会の椅子に座り続けた。この番組といわば二人三脚の関係を持つ顕彰事業として1969年、鳥井音楽賞(現サントリー音楽賞)が興され、賞を運営する鳥井音楽財団(現サントリー芸術財団)が設置された。
 その後、芥川のアイデアが財団の音楽事業を牽引していく。とりわけ斯界への衝撃が大きかったのは、サントリーホールの開場だ。東京初のクラシック専用ホールとして1986 年、 杮落としを迎えた。このホールの建設を、当時の同社社長・佐治敬三に進言したのが、芥川だった。
 サントリーの音楽事業にとってなくてはならない存在の芥川。その功績を讃えて財団は1990年、芥川作曲賞をつくった。主唱したのは作曲家仲間の黛敏郎だった。この作曲賞の 大きな特徴である、公開選考の制度を設計したのも黛だ。
 芥川作曲賞は、前年に国内外で初演された日本人作曲家の管弦楽曲のうち、同ジャンルに初めて挑んだ作曲家の作品を対象にしている。第1次選考は楽譜と録音とで行い、3作品を作曲賞候補として最終選考に付す。
 候補の作曲家は公開演奏に向け、指揮者、管弦楽団とともに入念なリハーサルを行う。最終選考はすべて、公開で行われる。サントリーホールで候補3作品の演奏を行い、その後、 3人の選考委員が同じ舞台上で議論をたたかわせる。初期はベテラン作曲家が選考委員を務めていたが、最近はキャリアを積んだ30 代、40代の作曲家も起用されるようになった。結論はもちろん、議論の過程もすべて、サントリーホールに集う聴衆の前に公にされる。受賞者はサントリー芸術財団の委嘱により、2年後の公開選考会の冒頭、新作を披露する。
 この一連の流れを、賞にエントリーされる作曲家の立場から記述すれば、以下のようになる。作品はすでに初演を終えている。つまり作曲、実演の手配、リハーサル、初演の段階を踏んで世に出た管弦楽曲だ(その点で賞への「参入障壁」が高いとも言える)。第1次選考を通過すれば、選考演奏会に向けて、初演時とは異なる指揮者、管弦楽団、ホールでのリハ ーサルが行われる。最終選考で演奏されることで作品は、1 年ほどで再演されることになる。 選考は自作への批評であり、専門的なアドヴァイスでもある。候補者にとってはもっとも気になる議論だ。それが公開されている。公正さの点でこれ以上の差配はない。賞に輝けばさらに、財団から新作の委嘱を受け、作曲、実演の手配、リハーサル、初演の段階を新たに踏む。
 こうして、当該作の初演(選考前)と新作の初演(選考後)とを、当該作の再演(選考会)がつなぐ。このことはとても重要だ。作曲賞が一時的な褒賞で終わることなく、作曲家の過去と未来とをつなぎ、創作の連続性をつくり出す。当該曲の再演は作家に、初演時とは異なる音楽的な刺激を与え、そこで得た経験が新作の初演に生かされる。選考の制度設計によっ て候補者の過去を取り込み、事後支援によって未来を付与する。賞はその「架け橋」となっている。芥川作曲賞の仕組みは、新進作曲家の育成に大きく関与するように整えられている。
 一方、聴き手の立場から考えれば、とりわけ選考演奏会は大きな意味を持つ。まずはこれが、当該作の再演であること。同時代作品の初演される機会はそれほど多くない。それに輪をかけて、再演される機会は少ない。その少ない機会が得られるとすれば、作曲家本人はもちろんのこと、初演を聴いた聴き手にとっても、選考会で初めて当該作を聴く聴衆にとっても幸いなことだ。前者は初演とは違った当該作の姿を目の当たりにするだろうし、後者はかつて聴き逃した作品に改めて出会うことができる。
 公開選考は聴き手の姿勢になんらかの影響を与えるかもしれない。専門家による討論は、一般の音楽ファンの聴き方と重なりあったり相反したりすることだろう。そのことが、当該作品の新たな魅力や思わぬ欠点を、聴き手に印象付けることにつながる。それによって聴衆は、評価を変えたり、新しい視点に気づきつつ、なお自分の考えを維持したりするだろう。 それは、受賞者の新作への期待感を醸成することにもつながる。こうして公開選考会は、聴き手の過去と未来とをつなぐ役目も果たす。(調査日:2016 年 1 月 7 日 / 調査地:公益財 団法人サントリー芸術財団・東京都港区)


初出:『顕彰・コンクール事業の現在』(公益社団法人企業メセナ協議会2015年度事例研究






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ヴァイグレ、読響の次期常任指揮者に

読売日本交響楽団は、2019年4月1日付でセバスティアン・ヴァイグレ(Sebastian Weigle)を第10代常任指揮者に迎えると発表した。最初の任期は、2022年3月末までの3年間。ヴァイグレはドイツ出身の指揮者で、2008年からフランクフルト歌劇場の音楽総監督を務める。読響との初共演は2016年8月。翌年、R・シュトラウスばらの騎士〉でもピットを共にした。なお、2019年3月末で退任する現常任指揮者のシルヴァン・カンブルランには、桂冠指揮者の称号が贈られる。ヴァイグレと読響との初共演については、以下のとおり批評を寄稿した。ここであらためてご覧になり、このコンビの今後を占うよすがとしていただきたい。
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読売日本交響楽団 第561回定期演奏会

 フランクフルト歌劇場音楽総監督のセバスティアン・ヴァイグレが、読響の定期演奏会に初めて登場。得意のR・シュトラウスで演目を固め、日本の聴衆に指揮の実力を見せつけた。
 ヴァイグレはシュトラウスを、極めて細い糸で織り上げようとする。管弦楽、とくにヴァイオリンが高い精度でそれに応える。糸は細くとも織り上がる布の重さは変わらない。織りが緻密ということだ。光沢は増し、わずかな動きでも表情を変える。管弦のバランスを繊細に調えることで、緊張と緩和の落差を大きくする。大げさな強弱はない。それが緩和を先延ばしにする局面でも効果を発揮した。聴き手はシュトラウスの和声の綾に巻き込まれていく。
 交響詩ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」でそうした音楽が響いたあと、会場全体はもう指揮者の手の内に落ちた。「4つの最後の歌」では、とりわけ第1曲でソプラノのエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーが繊細さを発揮。口跡と音量とが、お互いを殺さない地点で釣り合った。
 局所的にはつねに軽やかだが、結果として軽々しくならないのは「家庭交響曲」でも同じ。こうした方向性は、日常生活の各場面と、登場人物それぞれの性格とを細やかに描き分けるこの作品にうってつけだ。
 この指揮者が管弦楽に求める機能と、読響の持つ高精細な演奏能力との平仄がぴたりと一致している。音楽上の相性の好さを、強く聴衆に印象付けた一夜。〔2016年8月23日(火)サントリーホール


初出:モーストリー・クラシック 2016年11月号






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読売日本交響楽団 第608回名曲シリーズ

 シルヴァン・カンブルランの指揮で読響が、シリーズの名にふさわしい演奏会。とはいえこのコンビが、単なる名曲コンサートをして事足れりとするはずもない。
 ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」はイザベレ・ファウストの独奏。彼女はつねに、ヴァイオリン演奏が弓のアートであることを再認識させてくれる。たとえば第1楽章、4つの音が順に下行する音形の繰り返し。この繰り返しをファウストは、すべて違う語り口で弾く。そのおかげで単旋律にさえ、音楽の対話が生まれる。弓の巧みさのなせるわざ。こうした弓のアートが管弦楽に伝染する。舞曲風の第3楽章でそれは、リズムの力動につながった。
 この協奏曲(ニ長調)を受け、マーラーの編曲によるバッハの「管弦楽組曲」(ロ短調およびニ長調)を経て、ベートーヴェンの「運命」(ハ短調からハ長調)へと続く流れがすばらしい。第一に、ニ長調ロ短調ニ長調と運ぶプログラムで、「運命」のハ短調からハ長調へと進む“物語”を聴き手に予習させたこと。第二に、すべての演目でティンパニを扇の要としたこと。ティンパニ奏者(近藤高顯)が極めて優秀だったこともつけ加えたい。
 このふたつの補助線のおかげで、「運命」第3楽章掉尾のティンパニによる同音連打を経て、ハ長調の第4楽章冒頭に響く“教会の音”・トロンボーンへと、聴き手の耳は強烈に引き込まれた。巧みな組み合わせの名曲を名演奏で。そこには何にも代えがたい魅力がある。(2018年1月19日〔金〕サントリーホール


【CD】イザベレ・ファウスト▼ブラームス ヴァイオリン協奏曲


初出:モーストリー・クラシック 2018年4月号






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出開帳!website『音遊人』に批評を寄稿

ヤマハのweb情報誌『音遊人』に、アレクサンドル・タローのリサイタル評を寄稿しました。演目はバッハの《ゴルトベルク変奏曲》。以下のサイトでご覧ください。

その夜、《ゴルトベルク変奏曲》はフランス語で”演じられた”/アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル

なお、トッパンホールでのリサイタル(フランス・プログラム)については、2018年4月20日発行の「モーストリー・クラシック」6月号に批評を書いています。あわせて乞うご高覧。


【その他の記事】
ベルリン・フィル内に室内合奏団を生んだ、シューベルトの《八重奏曲》を聴く
奏者と楽器と空間、三者がみごとに交わり、メシアンの音楽を包み込む/オズボーン (Pf.)






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ゲーベル&ベルリン・バロック・ゾリステン:《ブランデンブルク協奏曲》(全曲)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ《ブランデンブルク協奏曲》(全曲)▼ラインハルト・ゲーベル(指揮)ベルリン・バロック・ゾリステン[SICC 30471~2]

ベルリン・フィルの楽団員を中心に結成された17・18世紀音楽の専門集団が、バッハの管弦楽作品の最高峰に挑む。ゲーベルはかつて、ムジカ・アンティクヮ・ケルンを率いた音楽家。最近はヴァイオリンを指揮棒に持ち替えて活動している。ヴァイオリニスト時代はまるで、抜き身のままに音楽をするような奏者だったが、指揮者になって各楽団と共演することで、そこにさまざまな拵(こしら)えが付いた。それでも本身の切れ味はそのまま。第2番の第2楽章に聴く「せわしないため息」、第3番第3楽章に描かれる「ダムの決壊」、第6番第1楽章に現れる「カノンの洪水」。18世紀の語法を採用すればモダン楽器でも筋肉質なバッハになる。



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テミルカーノフ&読売日本交響楽団

 《新世界より》を聴いた。テミルカーノフ&読響の演奏、サントリーホールにて。なんと汎スラヴ主義的なことか。
 なるほどドヴォルジャーク交響曲、第7番までは習作、第8番でやっと東欧風味、第9番はアメリカの皮を被ったチェコ音楽。それを、同じスラヴじゃとてテミルカーノフは、東ヨーロッパ平原の穀倉地帯をうねりながら駆け巡る疾風のように振る。チェコ音楽というよりロシア民謡、いや汎スラヴ節。こうなるともう、アメリカなんてどうでもよくなって、新世界はきっと、あのウラル山脈の向こう、ノボシビルスクに違いない、と思えてくる(モスクワから見てる)。
 ここまでスラヴィスムの濃厚な、そしてアメリカ色のあせた《新世界より》は聴いたことがないし、オケも弾いたことがなかったのではないか。その証拠に楽団は当夜、指揮者に振り回されっぱなしだった(必死の形相でついていく)。精鋭部隊の必死の形相って悪くない(悪趣味)。個性的でじつに滋味深い公演だった。


読売日本交響楽団 第609回名曲シリーズ▼指揮:ユーリ・テミルカーノフ▼2018年2月20日(火)19時▼サントリーホール



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メシアン《アッシジの聖フランチェスコ》(カンブルラン&読響 )

読売日本交響楽団 第606回名曲シリーズ▼2017年11月26日(日)サントリーホール

 楽団の創立55周年と作曲家の没後25周年とを記念して読響が、シルヴァン・カンブルランの指揮の下、メシアンの歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》を演奏会形式で上演した。全3幕8景、正味4時間半の大作で、全曲演奏は日本初演
 独唱の連なりで状況を描き、各場面の掉尾にコラール風の合唱を置く音楽運びは、バッハも《ヨハネ受難曲》などで実践した。これは精度の高い合唱団あっての物種。差音が聞こえるほど調和した協和音、険しく軋むような不協和音、そしてどこか美しく響く不協和音。3つ目にメシアンの個性がにじむ。合唱団がそれをよく掬いとった。
 作曲家は聖人の言葉のうち重要なもの、たとえば「十字架だけが誇り」や「私も癒されるに値しない」といった詞章を、伴奏なし(器楽の旋律重複あり)の裸の声で表現することで、場面をまたいで呼応させる。声楽と管弦楽とが均衡しているため、一方が姿を消すと、他方の力強さが表に出る。こうした“均衡と逸脱”を実現し、作曲家の思い描く信教上の力点を浮かび上がらせた点に、指揮者の精密すぎるほどのバランス感覚と、それに応える楽団の誠実さとがうかがえる。この裸の声は、ベートーヴェンが《荘厳ミサ曲》で用いた表現法に他ならない。
 このようにメシアンは、西洋音楽史の堆積の頂にこの歌劇を据えた。作品の革新性だけでなく、そこに折り重なる歴史性も、題名役のル・テクシエをはじめとする独唱陣、新国立劇場びわ湖ホールの合同合唱団そして管弦楽が、集中力を切らさずに描き出した。扇の要はもちろん指揮者。カンブルランがこの作品の再演の種を、日本にまいてくれた。この種を芽吹かせることこそ、指揮者への答礼となるだろう。


初出:モーストリー・クラシック 2018年2月号






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