ハレ・ヘンデル音楽祭2018

 ハレ・ヘンデル音楽祭に行った。ハレは中部ドイツの街。ヘンデルの生まれ故郷として有名だ。そのハレが毎年、郷土の偉人を讃えるべく、ヘンデル音楽祭を開催している。歿後250年記念の2009年を境に、豪華な出演陣、楽しい演目、少し凝った企画を盛り込むようになる。その結果、今では多くのファンを集める国際的な音楽祭へと成長した。
 2018年は5月25日から6月10日までの17日間、ヘンデル史跡をはじめとした市内各所で50余の演奏会が開かれた。当方は5月31日から6月6日まで、ライプツィヒからハレに通って、いくつかのコンサートを楽しんだ。以下その短信。


【5月31日】
 ウルリヒ教会でマグダレナ・コジェナーのガラコンサート。ふつうこういう演奏会は、歌手が会場全体を支配するか、さもなければ歌手と楽団との力が拮抗して、相乗効果を上げるかだが、今回はアンドレア・マルコン率いるラ・チェトラが、音楽性の点で主役の歌い手を凌駕した。コジェナーももちろん悪くはない(白眉は《Verdi prati》)6月1日はそのマルコン&ラ・チェトラで《メサイア》。期待大。


【6月1日】
 マルコン指揮、ラ・チェトラ・バーゼルで《メサイア》を聴く。大聖堂にて。きわめて劇的。ただしそれは、闇雲にオペラ風というのではない。単純な和声進行の持つ緊張と緩和の行き来、それを手抜きなく描き出す。ブフォン論争を持ち出すまでもなく、イタリア音楽の簡明な和声は振れ幅の大きい情緒を描き出す。そこに旋律の流麗さが乗り、全体として彫り深く、それでいて細やかに詩の綾を表現する。ヘンデルはそういう音楽をイタリアで学んだし、それを生かして創作していた。そんなヘンデルの音楽の力が、十分に発揮された舞台。
 ヨハンソン、メナ、チャールズワース、ヴォルフの各ソリストも、マルコンのそういう姿勢をよく理解していた。具体的には装飾音(有り体に言えば不協和音)、管弦楽との時間的ズレ(ルバート)などでもう一段、和声の彫りを深くする。ヘンデル祭は3年に2回程度のペースで8度目のはずだが、もっとも素晴らしい《メサイア》。


【6月2日】
 ナタリー・シュトゥッツマンがソプラノのカミラ・ティリングを相棒に、ウルリヒ教会でガラコンサート。管弦楽はもちろんOrfeo 55。さまざまなオペラからアリアを抜粋、器楽曲を挟みながら一連の(恋愛)ストーリーを織り上げる。よくできたプログラム、小芝居付きで楽しい。シュトゥッツマンがすばらしいのはいわずもがなだが、ティリングの幅広い芸風が見事。俊敏でいて太めの声だから、朗らかな場面も愁嘆場も、いずれも情感豊か。
 1日のラ・チェトラが「道理のわかったモダン奏者が古楽器持って弾いている」感じ(それはそれで悪くない)だとすれば、Orfeo 55は「古楽器からレッスンをスタートしたような連中が古楽器を弾いている」感じ(とてもよい)。とりわけ通奏低音の子音と弓の上下の力感とには恐れ入った。各パートの即興も各所で炸裂、場を盛り上げた。


【6月6日】
 いちばん楽しみにしていたユリア・レージネヴァの演奏会@ウルリヒ教会。オーケストラはシンコフスキ率いるラ・ヴォーチェ・ストゥルメンターレ。このオケが曲者(ほめてない)。リーダーのシンコフスキは18世紀の語法を踏まえた上で、それをデフォルメしたりして、ギリギリのところを攻めていく(ときに逸脱する)。問題は他のメンバー。モダン奏者がただ古楽器を持ちました、いや、古楽器ですらなく「モダンセッティングの楽器を古楽持ちしてます、あっ、弓は18世紀のレプリカです」といった状態。さらに、18世紀の語法をふまえずにリーダーの真似だけをするから、ただアタックが鋭いだけのアクの強い似非古楽演奏といった風情。とくに通奏低音がひどくて、ああいうチェロはいっそ、内側に収納されているピンをしっかり出して、モダン弾きしてくれたほうがまだマシである。
 もう本当に冒頭の器楽曲で頭にきてしまったのだが、レージネヴァの登場した2曲めからは別世界だった。彼女は多分、少し声が低くなった。その結果、太い声の太さは増し、細い声の細さはそのまま維持された。絹布のような肌触りの声質は以前からだが、その布が厚くなったといったところ。(いつもながらに)びっくりするのは、同じ声量でforteとpianoとを歌い分けるところ。forteとpianoとは音量が違うのではなく、性格違うのだということがよく分かる。
 器楽が声楽のように演奏する、ということは重要視されるが、18世紀音楽でもうひとつ大切なのは、歌い手がいかに器楽的に歌えるか、ということ。レージネヴァはその点、音色変化も運動性能も申し分ない。下行音階をすばやく繰り返すゼクエンツ、繰り返すたびに音色や表情を変え、しかも、最終的に到達する最低音まできっちり望ましい音程に着地する。子音先行で母音が音符に乗るので、歌に澱むところがない。歌い始めのすばらしさはもちろんだが、感動的なのは歌い切りに通う神経の細やかさ。語尾の美しい言葉はやはり、人の心を動かす。






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