作曲コンクールの意義

日本音楽コンクール作曲部門の審査が簡素化される。それに対して日本現代音楽協会会長の近藤譲がコンクール当局に公開書簡を送った。近藤が強調する"作曲コンクールの意義"について首肯する。かつて当方も同じようなことを強調したことがあると思い至った。当該の文章を以下の通り公開する。文章は芥川作曲賞という一事例を通して、作曲コンクール一般の意義について考察している。そこで得られた知見に基づけば、当該の簡素化の(経費削減以外の)根拠は薄弱で、近藤の指摘は要を得たものと感じられる。
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芥川作曲賞(公益財団法人サントリー芸術財団・東京)

 1989年1月、作曲家の芥川也寸志(1925生)が亡くなった。作家・芥川龍之介の三男。 管弦楽曲《トリプティーク》(1953)や《エローラ交響曲》(1958)、オペラ《ヒロシマのオルフェ》(1960/67)といった作品で知られる。テレビやラジオにもたびたび出演した。そのひとつがTBSのラジオ番組「百万人の音楽」だ。スポンサーはサントリー。番組開始の1967年から22年間、芥川は司会の椅子に座り続けた。この番組といわば二人三脚の関係を持つ顕彰事業として1969年、鳥井音楽賞(現サントリー音楽賞)が興され、賞を運営する鳥井音楽財団(現サントリー芸術財団)が設置された。
 その後、芥川のアイデアが財団の音楽事業を牽引していく。とりわけ斯界への衝撃が大きかったのは、サントリーホールの開場だ。東京初のクラシック専用ホールとして1986 年、 杮落としを迎えた。このホールの建設を、当時の同社社長・佐治敬三に進言したのが、芥川だった。
 サントリーの音楽事業にとってなくてはならない存在の芥川。その功績を讃えて財団は1990年、芥川作曲賞をつくった。主唱したのは作曲家仲間の黛敏郎だった。この作曲賞の 大きな特徴である、公開選考の制度を設計したのも黛だ。
 芥川作曲賞は、前年に国内外で初演された日本人作曲家の管弦楽曲のうち、同ジャンルに初めて挑んだ作曲家の作品を対象にしている。第1次選考は楽譜と録音とで行い、3作品を作曲賞候補として最終選考に付す。
 候補の作曲家は公開演奏に向け、指揮者、管弦楽団とともに入念なリハーサルを行う。最終選考はすべて、公開で行われる。サントリーホールで候補3作品の演奏を行い、その後、 3人の選考委員が同じ舞台上で議論をたたかわせる。初期はベテラン作曲家が選考委員を務めていたが、最近はキャリアを積んだ30 代、40代の作曲家も起用されるようになった。結論はもちろん、議論の過程もすべて、サントリーホールに集う聴衆の前に公にされる。受賞者はサントリー芸術財団の委嘱により、2年後の公開選考会の冒頭、新作を披露する。
 この一連の流れを、賞にエントリーされる作曲家の立場から記述すれば、以下のようになる。作品はすでに初演を終えている。つまり作曲、実演の手配、リハーサル、初演の段階を踏んで世に出た管弦楽曲だ(その点で賞への「参入障壁」が高いとも言える)。第1次選考を通過すれば、選考演奏会に向けて、初演時とは異なる指揮者、管弦楽団、ホールでのリハ ーサルが行われる。最終選考で演奏されることで作品は、1 年ほどで再演されることになる。 選考は自作への批評であり、専門的なアドヴァイスでもある。候補者にとってはもっとも気になる議論だ。それが公開されている。公正さの点でこれ以上の差配はない。賞に輝けばさらに、財団から新作の委嘱を受け、作曲、実演の手配、リハーサル、初演の段階を新たに踏む。
 こうして、当該作の初演(選考前)と新作の初演(選考後)とを、当該作の再演(選考会)がつなぐ。このことはとても重要だ。作曲賞が一時的な褒賞で終わることなく、作曲家の過去と未来とをつなぎ、創作の連続性をつくり出す。当該曲の再演は作家に、初演時とは異なる音楽的な刺激を与え、そこで得た経験が新作の初演に生かされる。選考の制度設計によっ て候補者の過去を取り込み、事後支援によって未来を付与する。賞はその「架け橋」となっている。芥川作曲賞の仕組みは、新進作曲家の育成に大きく関与するように整えられている。
 一方、聴き手の立場から考えれば、とりわけ選考演奏会は大きな意味を持つ。まずはこれが、当該作の再演であること。同時代作品の初演される機会はそれほど多くない。それに輪をかけて、再演される機会は少ない。その少ない機会が得られるとすれば、作曲家本人はもちろんのこと、初演を聴いた聴き手にとっても、選考会で初めて当該作を聴く聴衆にとっても幸いなことだ。前者は初演とは違った当該作の姿を目の当たりにするだろうし、後者はかつて聴き逃した作品に改めて出会うことができる。
 公開選考は聴き手の姿勢になんらかの影響を与えるかもしれない。専門家による討論は、一般の音楽ファンの聴き方と重なりあったり相反したりすることだろう。そのことが、当該作品の新たな魅力や思わぬ欠点を、聴き手に印象付けることにつながる。それによって聴衆は、評価を変えたり、新しい視点に気づきつつ、なお自分の考えを維持したりするだろう。 それは、受賞者の新作への期待感を醸成することにもつながる。こうして公開選考会は、聴き手の過去と未来とをつなぐ役目も果たす。(調査日:2016 年 1 月 7 日 / 調査地:公益財 団法人サントリー芸術財団・東京都港区)


初出:『顕彰・コンクール事業の現在』(公益社団法人企業メセナ協議会2015年度事例研究






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ヴァイグレ、読響の次期常任指揮者に

読売日本交響楽団は、2019年4月1日付でセバスティアン・ヴァイグレ(Sebastian Weigle)を第10代常任指揮者に迎えると発表した。最初の任期は、2022年3月末までの3年間。ヴァイグレはドイツ出身の指揮者で、2008年からフランクフルト歌劇場の音楽総監督を務める。読響との初共演は2016年8月。翌年、R・シュトラウスばらの騎士〉でもピットを共にした。なお、2019年3月末で退任する現常任指揮者のシルヴァン・カンブルランには、桂冠指揮者の称号が贈られる。ヴァイグレと読響との初共演については、以下のとおり批評を寄稿した。ここであらためてご覧になり、このコンビの今後を占うよすがとしていただきたい。
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読売日本交響楽団 第561回定期演奏会

 フランクフルト歌劇場音楽総監督のセバスティアン・ヴァイグレが、読響の定期演奏会に初めて登場。得意のR・シュトラウスで演目を固め、日本の聴衆に指揮の実力を見せつけた。
 ヴァイグレはシュトラウスを、極めて細い糸で織り上げようとする。管弦楽、とくにヴァイオリンが高い精度でそれに応える。糸は細くとも織り上がる布の重さは変わらない。織りが緻密ということだ。光沢は増し、わずかな動きでも表情を変える。管弦のバランスを繊細に調えることで、緊張と緩和の落差を大きくする。大げさな強弱はない。それが緩和を先延ばしにする局面でも効果を発揮した。聴き手はシュトラウスの和声の綾に巻き込まれていく。
 交響詩ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」でそうした音楽が響いたあと、会場全体はもう指揮者の手の内に落ちた。「4つの最後の歌」では、とりわけ第1曲でソプラノのエルザ・ファン・デン・ヘーヴァーが繊細さを発揮。口跡と音量とが、お互いを殺さない地点で釣り合った。
 局所的にはつねに軽やかだが、結果として軽々しくならないのは「家庭交響曲」でも同じ。こうした方向性は、日常生活の各場面と、登場人物それぞれの性格とを細やかに描き分けるこの作品にうってつけだ。
 この指揮者が管弦楽に求める機能と、読響の持つ高精細な演奏能力との平仄がぴたりと一致している。音楽上の相性の好さを、強く聴衆に印象付けた一夜。〔2016年8月23日(火)サントリーホール


初出:モーストリー・クラシック 2016年11月号






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読売日本交響楽団 第608回名曲シリーズ

 シルヴァン・カンブルランの指揮で読響が、シリーズの名にふさわしい演奏会。とはいえこのコンビが、単なる名曲コンサートをして事足れりとするはずもない。
 ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」はイザベレ・ファウストの独奏。彼女はつねに、ヴァイオリン演奏が弓のアートであることを再認識させてくれる。たとえば第1楽章、4つの音が順に下行する音形の繰り返し。この繰り返しをファウストは、すべて違う語り口で弾く。そのおかげで単旋律にさえ、音楽の対話が生まれる。弓の巧みさのなせるわざ。こうした弓のアートが管弦楽に伝染する。舞曲風の第3楽章でそれは、リズムの力動につながった。
 この協奏曲(ニ長調)を受け、マーラーの編曲によるバッハの「管弦楽組曲」(ロ短調およびニ長調)を経て、ベートーヴェンの「運命」(ハ短調からハ長調)へと続く流れがすばらしい。第一に、ニ長調ロ短調ニ長調と運ぶプログラムで、「運命」のハ短調からハ長調へと進む“物語”を聴き手に予習させたこと。第二に、すべての演目でティンパニを扇の要としたこと。ティンパニ奏者(近藤高顯)が極めて優秀だったこともつけ加えたい。
 このふたつの補助線のおかげで、「運命」第3楽章掉尾のティンパニによる同音連打を経て、ハ長調の第4楽章冒頭に響く“教会の音”・トロンボーンへと、聴き手の耳は強烈に引き込まれた。巧みな組み合わせの名曲を名演奏で。そこには何にも代えがたい魅力がある。(2018年1月19日〔金〕サントリーホール


【CD】イザベレ・ファウスト▼ブラームス ヴァイオリン協奏曲


初出:モーストリー・クラシック 2018年4月号






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出開帳!website『音遊人』に批評を寄稿

ヤマハのweb情報誌『音遊人』に、アレクサンドル・タローのリサイタル評を寄稿しました。演目はバッハの《ゴルトベルク変奏曲》。以下のサイトでご覧ください。

その夜、《ゴルトベルク変奏曲》はフランス語で”演じられた”/アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル

なお、トッパンホールでのリサイタル(フランス・プログラム)については、2018年4月20日発行の「モーストリー・クラシック」6月号に批評を書いています。あわせて乞うご高覧。


【その他の記事】
ベルリン・フィル内に室内合奏団を生んだ、シューベルトの《八重奏曲》を聴く
奏者と楽器と空間、三者がみごとに交わり、メシアンの音楽を包み込む/オズボーン (Pf.)






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ゲーベル&ベルリン・バロック・ゾリステン:《ブランデンブルク協奏曲》(全曲)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ《ブランデンブルク協奏曲》(全曲)▼ラインハルト・ゲーベル(指揮)ベルリン・バロック・ゾリステン[SICC 30471~2]

ベルリン・フィルの楽団員を中心に結成された17・18世紀音楽の専門集団が、バッハの管弦楽作品の最高峰に挑む。ゲーベルはかつて、ムジカ・アンティクヮ・ケルンを率いた音楽家。最近はヴァイオリンを指揮棒に持ち替えて活動している。ヴァイオリニスト時代はまるで、抜き身のままに音楽をするような奏者だったが、指揮者になって各楽団と共演することで、そこにさまざまな拵(こしら)えが付いた。それでも本身の切れ味はそのまま。第2番の第2楽章に聴く「せわしないため息」、第3番第3楽章に描かれる「ダムの決壊」、第6番第1楽章に現れる「カノンの洪水」。18世紀の語法を採用すればモダン楽器でも筋肉質なバッハになる。



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テミルカーノフ&読売日本交響楽団

 《新世界より》を聴いた。テミルカーノフ&読響の演奏、サントリーホールにて。なんと汎スラヴ主義的なことか。
 なるほどドヴォルジャーク交響曲、第7番までは習作、第8番でやっと東欧風味、第9番はアメリカの皮を被ったチェコ音楽。それを、同じスラヴじゃとてテミルカーノフは、東ヨーロッパ平原の穀倉地帯をうねりながら駆け巡る疾風のように振る。チェコ音楽というよりロシア民謡、いや汎スラヴ節。こうなるともう、アメリカなんてどうでもよくなって、新世界はきっと、あのウラル山脈の向こう、ノボシビルスクに違いない、と思えてくる(モスクワから見てる)。
 ここまでスラヴィスムの濃厚な、そしてアメリカ色のあせた《新世界より》は聴いたことがないし、オケも弾いたことがなかったのではないか。その証拠に楽団は当夜、指揮者に振り回されっぱなしだった(必死の形相でついていく)。精鋭部隊の必死の形相って悪くない(悪趣味)。個性的でじつに滋味深い公演だった。


読売日本交響楽団 第609回名曲シリーズ▼指揮:ユーリ・テミルカーノフ▼2018年2月20日(火)19時▼サントリーホール



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メシアン《アッシジの聖フランチェスコ》(カンブルラン&読響 )

読売日本交響楽団 第606回名曲シリーズ▼2017年11月26日(日)サントリーホール

 楽団の創立55周年と作曲家の没後25周年とを記念して読響が、シルヴァン・カンブルランの指揮の下、メシアンの歌劇《アッシジの聖フランチェスコ》を演奏会形式で上演した。全3幕8景、正味4時間半の大作で、全曲演奏は日本初演
 独唱の連なりで状況を描き、各場面の掉尾にコラール風の合唱を置く音楽運びは、バッハも《ヨハネ受難曲》などで実践した。これは精度の高い合唱団あっての物種。差音が聞こえるほど調和した協和音、険しく軋むような不協和音、そしてどこか美しく響く不協和音。3つ目にメシアンの個性がにじむ。合唱団がそれをよく掬いとった。
 作曲家は聖人の言葉のうち重要なもの、たとえば「十字架だけが誇り」や「私も癒されるに値しない」といった詞章を、伴奏なし(器楽の旋律重複あり)の裸の声で表現することで、場面をまたいで呼応させる。声楽と管弦楽とが均衡しているため、一方が姿を消すと、他方の力強さが表に出る。こうした“均衡と逸脱”を実現し、作曲家の思い描く信教上の力点を浮かび上がらせた点に、指揮者の精密すぎるほどのバランス感覚と、それに応える楽団の誠実さとがうかがえる。この裸の声は、ベートーヴェンが《荘厳ミサ曲》で用いた表現法に他ならない。
 このようにメシアンは、西洋音楽史の堆積の頂にこの歌劇を据えた。作品の革新性だけでなく、そこに折り重なる歴史性も、題名役のル・テクシエをはじめとする独唱陣、新国立劇場びわ湖ホールの合同合唱団そして管弦楽が、集中力を切らさずに描き出した。扇の要はもちろん指揮者。カンブルランがこの作品の再演の種を、日本にまいてくれた。この種を芽吹かせることこそ、指揮者への答礼となるだろう。


初出:モーストリー・クラシック 2018年2月号






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ボン・ベートーヴェン音楽祭2017

 ベートーヴェンは1770年、ドイツ西部のボンで産声をあげた。そのことにちなみ同地では毎年、この大作曲家の名を冠した音楽祭が催されている。今年のベートーヴェン音楽祭は9月8日から10月1日までの3週間あまり、市内のベートーヴェン史跡やホールを会場に、54の公演で作曲家の業績をたたえた。交響曲や協奏曲など大規模な管弦楽のコンサートはもちろん、いくつかのカルテットが分担してベートーヴェン弦楽四重奏曲を紹介するシリーズや、ジャズのライブ、野外演奏会までプログラムは幅広い。
 とりわけ最後の10日間に注目の公演が並んだ。9月23日にはイザベレ・ファウストがオラモ指揮のBBC交響楽団とベルクの協奏曲で共演、27日と29日にはオランダのフォルテピアノ奏者、ロナルド・ブラウティハムがベートーヴェンソナタなどを演奏した。28日にはロシアの若手イゴール・レヴィットが現代ピアノでバッハなどを披露。29日にはクリスティアン・ベズイデンホウトが、現代ピアノを古典奏法で弾いた。
 なかでも、ブラウティハムとベズイデンホウトとの対比が興味深い。ブラウティハムは、ボン郊外に建つ18世紀の瀟洒な館でリサイタルをおこなった。ベートーヴェンの「幻想曲風ソナタ」作品27-1、「月光」同27-2を中心としたプログラムで、楽器は19世紀初期のグラーフを写したもの。演奏法は19世紀のスタイルを採る。聴こえてきたのは豊かなドイツ語のおしゃべりだ。句読点の打ち方を工夫し、多彩な子音母音を総動員することで、登場人物たちの対話を描く。
 ベズイデンホウトは現代的な会議場の大ホールで、カエイエルス指揮のル・コンセール・オランピークと共演、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」を弾いた。ピアノも管弦楽も現代楽器だが、どちらも古典奏法を採用することで作曲当時のみずみずしさを再現する。会場が大きいだけに、大音量のモダン楽器で古典奏法という選択は当を得たもの。ピアノと管弦楽の各パートとで、同じ旋律のフレージングを細かいところまで共有するので、対話や受け渡しが実に自然に響く。ブラウティハムもベズイデンホウトも、21世紀に19世紀初めの音楽を響かせる意味を正面から見据える。その結果、こうした対比と共通点とを生み出すことへとつながった。
 2018年の音楽祭は8月31日から9月23日まで。プログラムの詳細は来春、発表される予定だ。


【CD】
「ベートーヴェン ピアノソナタ全集」ブラウティハム(フォルテピアノ)


初出:モーストリー・クラシック 2018年1月号





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ブーレーズ他『魅了されたニューロン』(笠羽映子訳)

ピエール・ブーレーズ 他『魅了されたニューロン』笠羽映子訳, 法政大学出版局, 2017年

 パリのサン・ジェルマン・デ・プレに軒を連ねるカフェ。文学者や哲学者らがそこで議論を戦わせてきた。この書物はそんな人士のおしゃべりを思わせる対話篇だ。仮想カフェの席を温めるのは作曲家で指揮者のブーレーズ、神経生物学者のシャンジュー、ブーレーズの息子世代にあたる作曲家マヌリのフランス人3人。シャンジューが狂言回しとなり、さまざまな問題についてブーレーズに見解を問う。そこにマヌリがセカンド・オピニオンを挟んでいく。昨年亡くなったブーレーズにとって、最後の著作となった。
 話題の総数は57。特徴的なのはシャンジューが、第4の同席者をたびたび登場させることだ。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルソー、パブロフ、メシアンらの言葉を巧みに引用して、話しのきっかけを作る。こう聞くと難しい内容を想像しがちだが、必ずしもそうではない。持って回った言葉づかいは、フランス語話者の個性と解釈しておこう。
 音楽にまつわるさまざまな疑問に、生物学的な観点から斬りこむのが同書の身上。たとえば、「新しさ」を重視する芸術の姿勢をシャンジューは、人間の生理学的な反応から擁護する。新しい刺激に接すると人間は、感官の感度を上げ、頭部の血流を増やし、脳を覚醒させるのだという。それに対してブーレーズは、「新しさ」に対する興奮よりも、同じ動作を繰り返すことへの不快感を訴える。
 シャンジュー自身が言うように、「脳生物学が興味を持つ分子的あるいは細胞的なレヴェルと、他方の、音楽の(中略)知覚のレヴェルとの間には、飛び越え難い深淵が存在する」。だから、説得力が高いように感じられる先ほどの議論にも、美学と生理学とを結びつける根拠は、実のところない。とはいえこれを、カフェでの対話として捉えれば、そこには良質な知的ゲームとしての側面が見える。このカフェの5番目の客として臨席し、彼らの話に耳を傾けてみる。そんな読み方がこの書物の柔らかさにふさわしい。


初出:モーストリー・クラシック 2017年11月号





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バーデン・バーデン・ペンテコステ音楽祭 2017

 欧州に初夏を告げる聖霊降臨祭。このキリスト教の祭日を境にヨーロッパは、1年でもっとも爽やかな季節となる。それに合わせて各地で盛んに行われるのが音楽祭。ドイツ南西部の温泉町バーデン・バーデンでも、豪華なメンバーによるペンテコステ音楽祭が催された。
 バーデン・バーデンの祝祭劇場は、昔の鉄道駅舎を改装して造られた演奏会場。チケット窓口も当時の乗車券売り場をそのまま利用するなど、レトロな雰囲気を残す。内部は現代的な大ホールで、2500人の聴衆を収容できる。そんな劇場をおもな会場に、“バーデン・バーデン ペンテコステ音楽祭”は行われる。2017年は6月1日から5日までの5日間、8つの公演で音楽ファンの耳を楽しませた。
 ヤノフスキー指揮、NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団によるワーグナーのオペラ「ラインの黄金」や、ニケ指揮、ル・コンセール・スピリチュエルによるヘンデルの「水上の音楽」「花火の音楽」、ソプラノのダムラウによるオペラ・アリアの夕べなど、賑やかな舞台が話題を呼ぶ。一方、室内楽の演奏会にも優れた音楽家が出演。そのうちアンドラーシュ・シフのリサイタルと、ダニール・トリフォノフ室内楽コンサートは、2人のピアニストの腕が冴えるすばらしい夜だった。

 シフはリサイタルの前半に、バッハとバルトークの作品を組み合わせて演奏。後半にはヤナーチェクシューマンを並べる。折々にピアニスト自身の解説のある豪華なコンサートだ。トーク内容も興味深いが、なにより演奏の説得力が図抜けている。たとえばバッハの「愛する兄の旅立ちに寄せて」。6つの楽章からなるこの作品は、バッハが兄の就職に際して書いた音楽。それぞれの楽章に標題がつき、さまざまな情景や心情を描写する。その6つの楽章をシフは、まるで6つの異なる楽器で弾くかのように響かせた。それはチェンバロかもしれないしヴァイオリンかもしれないしオーボエかもしれない。それぞれの楽章の性格にぴたりと寄り添う音色が、1台のピアノから聞こえてくる。
 今回、ヴァイオリニストのアンネ=ゾフィ・ムターの相棒として出演したトリフォノフも、室内楽で大きな成果を上げた。とくにシューベルトピアノ五重奏曲「鱒」は聴きものだった。音域によって音色が違うのは当たり前。それを弦楽器の各パートの個性と対応させていく。ピアノの“子音”もヴァラエティーに富んでいる。たとえば同じ上行音階の繰り返しでも、そのたびごとに言い回しが異なるのだ。アンサンブルの中心にトリフォノフがいるのは明らかだった。
 2人のピアニストの“凄味”の利いた演奏に、くつろいだ気分で接することができるのは、音楽祭の効果だろう。ベテランと若手の競演によって、初夏の爽やかさがいっそう大きく感じられた。
 

写真上:バーデン・バーデン祝祭劇場のチケット売り場
写真下:拍手に応えるシフ(2017年6月1日, バーデン・バーデン祝祭劇場)


初出:月刊ピアノ 2017年8月号





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