ドビュッシー「最後の3つのソナタ集」

クロード・ドビュッシー「最後の3つのソナタ集」◇ファウスト(ヴァイオリン), ケラス(チェロ), メルニコフ(ピアノ)他〔KKC5938〕

ドビュッシーはその最晩年、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、フルート、ヴィオラとハープのためのソナタの3つのソナタをなんとか書き上げた。このたびの録音はこれら3作品に、同時期のピアノ曲を加えた最晩年作品集。注目は名手ぞろいの奏者たちとその楽器。いわゆる古楽器をふんだんに用いる。それがお飾りで終わらない。たとえばヴァイオリン・ソナタ。音高を変えながら同じ音形を繰り返す場面でファウストは、音域によって異なる音色を楽器から引き出す。それはまるで、同じセリフを複数の登場人物で言い合うかのように聴こえる。古楽器の特性と作品世界とを奏者の創意が結び付けている。それは当たり前だが難しい。



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伊東信宏『東欧音楽綺譚』

◇伊東信宏『東欧音楽綺譚』音楽之友社, 2018年

 自由な連想を綴るエッセイ集。ただし、この“自由”には少し注意が必要だ。連想の筋道は網の目のように拡がる。この網の目をきちっと辿らなければイメージはつながらない。網には隙間もある。想像力を発揮すべき場所はそこ。この空き地で思いのままに羽ばたくことが、ここでいう“自由”だ。この羽ばたきが連想に弾力を与える。
 演奏にも似たところがある。ラフマニノフの弾くモーツァルトが佳い例。もっとも緊張の高まる和音に、作曲家のつけた指示は「強いアクセントで」。ピアニストはその音に最弱音をあてる。「強く」という表面上の指示には背くが、「もっとも緊張する」という響きの芯は外さない。大切なことは固く守り、その表現は自由に行う。
 この書物にはこうした連想の自由が、何層にも折り重なっている。著者の伊東信宏は東欧音楽の専門家。雑誌の人気連載を取りまとめた24章はいずれも「東欧」の「音楽」の話題だが、内容は音楽家とその演奏、作曲家とその作品、東欧各地とその習俗などさまざまだ。こうしたテーマを起点にして伊東は、歴史・文学・社会・政治、さらに個人の履歴までも数珠つなぎにし、連想を進めていく。たとえばこんな風に。ルーマニアへの旅、その地の風習コリンダ、その歌のつまずきかけるような拍子、足の不具合が示す儀礼性、オイディプスの神話、シンデレラのおとぎ話、バルトークの音楽、東欧の闇……。
 著者が思考を飛翔させるにあたり、その“踏切板”にしたのは、指揮者クルレンツィスとヴァイオリン奏者コパチンスカヤの演奏のようだ。ラフマニノフの例にも似たクルレンツィスの仕事、発想力豊かなコパチンスカヤの解釈。チャイコフスキー作品の筆写譜から作曲家の秘めた恋心を掘り出し、それを演奏の現場に生かす。その筋道と飛躍とは、著者の連想の有り様にそっくり。こうした入れ子構造が、読みやすさの奥に広がる意味の沃野を感じさせ、読み手に連想への参加を促す。


初出:モーストリー・クラシック 2019年2月号



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《ロ短調ミサ曲》私録 XVIII【新訂版】

 当方がこれまで実演に接したバッハ《ロ短調ミサ》BWV232の番付を発表するコーナーの第18回。今回はデイヴィッド・スターン指揮、テルツ少年合唱団、オペラ・フオーコ(管弦楽)の公演に足を運んだ(2019年6月23日 於ライプツィヒ・トーマス教会)。
 合唱も管弦楽も協和音を協和音として、不協和音を不協和音としてきちっと響かせることができていない。そのため和声、つまり緊張と緩和の行き来がゆるゆるで、重要な表現を総じて殺している。たとえば《Et incarnatus est》の「ex Maria virgine」のあの強烈な不協和音が、舐めたネジのような響きになったし、《Confiteor》と《Et expecto》とのブリッジ部分の精妙なエンハーモニック転調(音名は違うが実質的には同じ音[例:嬰ヘ=変ト]を媒介に、綱渡り的に遠い調へと移ること)が、茹ですぎた蕎麦をボソボソと喰むような運びになった。こうした演奏からは当然、楽章間(ミサ通常文間)の関係性は浮き上がるはずもない。ただただ、指揮者が音楽家としてもミサの解釈者としても無能であることを立派に証明しただけのことで、ひたすら残念なロ短調。なお、ソリストの水準も低く、とりわけアルトを歌ったアンドレアス・ショルは、この舞台でキャリアにピリオドを打ちかねない酷い演奏(端的に言って驚くほど音痴)だった。バッハ音楽祭の千穐楽にまったくふさわしくない。よって問題外。
 相変わらずガーディナーの圧倒的第1位は揺らぐことはない。これはあくまで「私録」なので、ランキング内容についてのクレームはご容赦を(笑)

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第01位 ガーディナー, モンテヴェルディ合唱団&イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(ライプツィヒ・トーマス教会, 2010年)
第02位 ユングヘーネル, カントゥス・ケルン(アルンシュタット・バッハ教会, 2011年)
第03位 ヘンゲルブロック, バルタザールノイマン合唱団&同アンサンブル(同トーマス教会, 2009年)
第04位 ビケット, イングリッシュ・コンサート(同トーマス教会, 2012年)
第05位 コープマン, アムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団(同トーマス教会, 2014年)
第06位 クリスティ, レザール・フロリサン(同トーマス教会, 2016年)
第07位 エリクソン, エリクソン室内合唱団&ドロットニングホルム・バロックオーケストラ(同トーマス教会, 2004年)
第08位 コープマン, アムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団(すみだトリフォニーホール, 2018年)
第09位 ブロムシュテット, ゲヴァントハウス合唱団&同管弦楽団(同トーマス教会, 2005年)
第10位 鈴木雅明, バッハ・コレギウム・ジャパンサントリーホール, 2015年)
第11位 ヤコプス, バルタザール・ノイマン合唱団&ベルリン古楽アカデミー(同トーマス教会, 2011年)
第12位 フェルトホーヴェン, オランダ・バッハ協会(東京オペラシティ, 2011年)
第13位 アーノンクール, シェーンベルク合唱団&コンツェントゥス・ムジクス・ヴィーン(サントリーホール, 2010年)
第14位 ブロムシュテット, ドレスデン室内合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団(同トーマス教会, 2017年)
第15位 ミンコフスキ, レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル=グルノーブル(ケーテン・ヤコブ教会, 2014年)
第16位 鈴木雅明, バッハ・コレギウム・ジャパン(バーデン・バーデン祝祭劇場, 2012年)
第17位 へレヴェッへ, コレギウム・ヴォカーレ・ヘント(ケーテン・ヤコブ教会, 2010年)
第18位 ピノック, 紀尾井バッハコーア&紀尾井シンフォニエッタ東京(紀尾井ホール, 2015年)
第19位 ラーデマン, ゲッヒンガー・カントライ、バッハ・コレギウム・シュトゥットガルト(同トーマス教会, 2015年)
第20位 ブリュッヘン, 栗友会合唱団&新日本フィルすみだトリフォニーホール, 2011年)
第21位 ノリントン, RIAS室内合唱団&ブレーメン・ドイツ室内管弦楽団(同トーマス教会, 2008年)
第22位 へレヴェッへ, コレギウム・ヴォカーレ・ヘント(同トーマス教会, 2003年)
第23位 シュヴァルツ, トーマス合唱団&ベルリン古楽アカデミー(同トーマス教会, 2018年)
第24位 ビラー, トーマス合唱団&ストラヴァガンツァ・ケルン(同トーマス教会, 2006年)
第25位 延原武春, テレマン室内合唱団&テレマン室内オーケストラ(いずみホール, 2011年)
第26位 シュミット=ガーデン, テルツ少年合唱団&コンツェルトケルン(同トーマス教会, 2007年)
第27位 ビラー, トーマス合唱団&フライブルクバロック・オーケストラ(同トーマス教会, 2013年)
問題外 NEW! スターン, テルツ少年合唱団, オペラ・フオーコ(同トーマス教会, 2019年)
問題外 コルボ, ローザンヌ声楽アンサンブル&器楽アンサンブル(東京国際フォーラム, 2009年)



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(11)

 前半戦にも登場したピエール・アンタイが、《ゴルトベルク変奏曲》を引っさげて戦線復帰した(6月22日、連邦行政裁判所)。

 ひとまず時をさかのぼる。2005年5月5日。時刻は22時半。最小限の照明がライプツィヒ旧市庁舎の舞台を照らす。そこにピエール・アンタイが登場し、挨拶もそこそこにチェンバロを弾き出した。当初のプログラムは《ゴルトベルク変奏曲》全曲の一本勝負。ところが、奏者の意向により直前に演目が増えた。ウィリアム・バードの変奏曲を2曲と、大バッハの《イギリス組曲》第2番から5つの舞曲を、《ゴルトベルク》の前に置いた。なるほど、変奏曲と舞曲とを混ぜて、それをポリフォニックに調理して出来上がったのが《ゴルトベルク変奏曲》。アンタイはそのレシピを、演奏会のプログラム上に再現している。演目は素晴らしかった。その代わり終演時間は深夜24時半を回ってしまった。

 今回もそんな14年前を思い起こさせるリサイタル。まず演目が案内もなく変わった。冒頭は《前奏曲、フーガとアレグロ 変ホ長調》BWV998とされていたが、アンタイが弾きだしたのは《プレリュードとフーガ ニ短調》BWV539。変ホ長調という調(からト長調へと進むの)が気に入らなかったのかもしれない。たしかにニ調からト調なら完全五度だ。

 演奏は肝っ玉の据わったもの。多少(というか多々)のミスタッチなどは演奏の根幹を揺るがすことがない。ミスタッチひとつで演奏会全体が崩壊するアンドレス・シュタイアーとは大きく違うところだ。正確にテンポを刻む左手に、揺らぐ右手。その右手がさらに、装飾音をその場の興に任せて挟み込む。その半ば強引な装飾音の挿入が、ミスタッチを誘っているようにも思えたが、スリリングな進み具合には、何にも代えがたい魅力がある。
 レジスターチェンジの工夫も興味深かった。アリアから第1変奏、第2変奏と進む歩み(のテンポというより気分の質)が、徒歩、踊り歩き、スキップと変化していく。3種のレジスター(8’、8’+4’、8’+8’+4’)+リュートストップの機能を使い切らんばかりに使うのは、この楽器に対する信頼の賜物か。
 最終盤5曲の「追い込み」が当夜の聴きものだったかもしれない。心地よい速度で粘らずに進む第25変奏、変奏ごとに徐々に加速していって、第30変奏はたっぷりとした間合いながら軽みを前面に出したクオドリベット、最後に繰り返しで重量級の装飾を施したアリアと、終わり方を心得た運び。この人の(18世紀語法に裏打ちされた)自由な発想が、この日の《ゴルトベルク》も興味深いものにしていた。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(10)

 2019年の音楽祭、後半の“隠れテーマ”は「ヴァイマル期のカンタータ」だ。4つの演奏会でこの時期の作品をすべて演奏する。その第2回がとりわけ興味深いコンサートとなった。時は6月22日、場所はライプツィヒを離れ、ザクセン・アンハルト州ヴァイセンフェルスの城館教会。
 バッハが奉職していた頃のヴァイマル城館教会は、ヒンメルスブルク(天空城)と呼ばれるちょっとした高層建築。回廊のある4階建てで、最上階にオルガンを設置していた。このオルガンの前に奏者たちが陣取り、カンタータなどを演奏したことだろう。それはまるで、天から音楽が降り注ぐように感じられたはずだ。残念なことにこの教会、1774年の火災で焼失し今はもうない。
 
ヴァイセンフェルスの城館教会は、このヒンメルスブルクによく似ている。3階建てで天井が高い。床面積は小さいところながら、空間の容積はたっぷりとってある。最上階の南側にはオルガン。構造はヒンメルスブルクそのものだ。ここでヴァイマル期のカンタータを聴くという趣向である。
 演奏はフィリップ・ピエルロ率いるリチェルカーレ・コンソート。平土間からオルガン前の聖歌隊席を見上げても、演奏者の姿は全く見えない。ところが、歌い手を含めその音楽ははっきりと像を結ぶ。詩もよく聴き取れる。なるほど、ヴァイマルの城館もかくや、と思わせる響きだ。
 演奏も実によかった。ピエルロらの通奏低音隊が強力であるのと同じくらい、リーダーのヴァイオリン奏者ゾフィー・ゲントの牽引力が強く、その綱引きと共同作業がいずれも効果絶大。その上、ソプラノのモリソンや、テノールのマンメルの佳唱もあり、引き締まったよいコンサートとなった。
 企画力、地域資源、音楽家の水準が呼応して、後半戦のコンセプトを支える。音楽祭の運営が好循環に入っている証左のひとつだろう。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(9)

 今年のハイライトのふたつめは、ピアノのアンドラーシュ・シフによるパルティータ全曲(BWV825-830)演奏会。シフは昨年、ゲヴァントハウスで《イタリア協奏曲》BWV971、《フランス風序曲》BWV831、《ゴルトベルク変奏曲》BWV988を一気に披露した。つまり『クラヴィーア練習曲集』の第2部(BWV971・831)と同第4部をすべて弾いたことになる。このたびは『クラヴィーア練習曲集』の第1部をコンプリートする。休憩含め2時間50分。長大なコンサートだが、少しも長く感じなかった。

 アンドラーシュ・シフも自然体の音楽家である。ファウストと違うのは、音楽の自然さを活かしきるためならば、楽器(彼の場合はピアノ)にとって自然とは言えないことを平然とやってのけるところだ。正確にいうと、凡百の奏者なら未練がましくすがろうとするピアノの「不自然な機能」を一顧だにしない。
 たとえばシフは、強弱に頓着しない。もちろん、楽譜が明らかに要求する強弱を無視するわけではない。各声部が絡み合う対位法的な部分で、パートの出入りや交通整理に強弱を利用するピアニストは少なくない。強弱の対比はピアノのもっとも得意とするところだからだ。しかし、対位法というのはすべてのパートが対等な立場で、それぞれの個性とその調和を目指す音楽。その中に強弱といった階層を設けてよいのか。本来、声部分けはパート間に時間差(微細なズレ)をつけたり、それぞれに句読点(まとまりの単位を小さくすることで、声部を追いやすくする)を打ったりすることで実現する。古典鍵盤楽器奏者はおおむね、この手法をとる。そこに音域による音色差を掛け合わせることで、声部にはっきりと個性を刻印し、対位法の交通整理をきちんと行なう。シフはこの音楽の求める自然さを追求するために、ピアノの得意技を使わない。強弱に頓着しないというのは、こういうことだ。

 音に方向性があるのもこの人の美点のひとつ。第3番のアルマンドが佳い例だろう。アルマンドは当時「くつろいだ雰囲気の舞曲」と評価されていた。それを鵜呑みにしてそのまま弾くと、微温的な演奏になりがち。シフのピアノの音には弦楽器の弓の上下を思わせる方向性、加速度の違い、拍節との平仄の一致があるので、こうした穏やかな楽想でも、きちんと進みたい方向を指し示しつつ、音楽を進めることができる。
 各曲のサラバンドの表現には恐れ入った。たとえば第2番。2拍めで粘り腰、3拍めでその分の時間を返す。これは2拍めにアクセントのあるこの舞曲にふさわしい、いわば通常運転。一方、第1番では2拍めに向けて細かくペダリング、2拍めにアクセント、これを受けて新たに細かくペダリング。こうして2拍めに音色上の浮遊感を出す。2拍めに工夫をする点は同じ。その工夫の仕方はずいぶん異なる。サラバンドの芯は外さない。しかしその表現は自由。この音楽家の真骨頂である。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(8)

 今年のバッハ音楽祭、ハイライトはふたつあった。そのひとつ、イザベレ・ファウストクリスティアン・ベザイデンハウトによるデュオ・リサイタル(6月18日 於コングレスハレ・ヴァイサーザール)。
 ファウストのヴァイオリンは自然体の域に達している。自然体といっても勝手気ままに弾いているわけではない。音楽と演奏との平仄が合っているということだ。両者を合わせるのは一朝一夕にはできない。いや、実に簡単なことではあるのだが、気づくのに時間がかかる。
 たとえばファウストは、旋律の跳躍音程の場所に自然と句読点を打つ。移弦やポジション移動を伴うので、そこに「読点( 、)」がつくのは演奏上、普通のこと。ただ、20世紀後半の演奏習慣は、それをいかに滑らかにつなげるかに腐心してきた。
 歴史的に考えれば、跳躍音程の間には、特別な指示がない限り、読点を打つべきだ。ルネサンス期の、基本的には隣り合った音にしか移動しない旋律が、いくつも組んず解れつしていた音楽から、バロックのモノディー(独唱[奏]+通奏低音)にスタイルが移るとき、旋律に大胆な跳躍が生まれた。複数のパートを擬似的にひとりで演奏するためだ。つまり、跳躍音程を挟んで高から低、低から高へと異なるパートに移っているのだ。跳躍音程の前後で声部が違う以上、それを滑らかにつなげるいわれはない。さらに言えば、その前後は音色が違って当然である。
 そういう音楽の内実と演奏の技術とは本来、平仄が合っていた。跳躍音程の前後は声部が違い、そこには断絶があるので、必ず読点を打つ。演奏上は、弦楽器ならば移弦やポジション移動を、管楽器ならばレジスターチェンジ(第1オクターブから第2オクターブへの移動等)をする。自然に弾けば間ができるし音色も変化する。それが読点につながる。こうして、ひとりで複数のパートを擬似的に表現できるわけだ。
 自然体の演奏には、跳躍音程だけとってもこれだけの背景がある。作品を弾きこなすには、あらゆる場面に道理込みの自然さが必要だ。ファウストはそれらをひっくるめて、1周回って自然体なのだ。

 弓の上下運動の力加減が違うのもの、音楽の内実が求めるところ。拍節には下拍と上拍とがある(強拍と弱拍、と言い換えることもできるが、これは誤用に近い)。下拍とは「ボールの落下」拍。静止したところから、徐々に加速して地面に落ちて停止する。上拍とは「ボールの投げ上げ」拍。初速がもっとも速く、徐々に減速して位置エネルギーが最大化したところで静止する。両者を交互に繰り返すことが拍節だ。それが表現できていると、拍節感のある演奏ということになる。拍節感のある演奏には推進力があり、その裏面の効果として段落感を深く表現することもできる。つまり、アクセルとブレーキの性能がきわめて佳いということだ。
 ファウストの運弓は、この拍節の道理と軌を一つにする。つまり、弓の上下動の力加減が、ボールの運動の加速度=拍節と一致しているのだ。20世紀後半の演奏習慣では、音楽の内実とは裏腹に、上下運弓とも均一にすることを旨とした。

 こうした自然体の積み重ねが、無伴奏パルティータ第2番で実を結ぶ。シャコンヌがいつもよりずっと遅い。それは会場がすこぶる乾いた音響のため。響きの少ないこの場所で快速のシャコンヌでは、和声の推移をきちんと感じる間もなく、音楽は先に行ってしまう。たっぷり音を響かせて、緊張感の移り変わりを深く彫琢することをファウストは選んだのだろう。すばらしい点を挙げればきりがない。たとえば、長調の中間部から移旋して短調に戻るところ。長いアルペジオで刻一刻と音楽の相貌が変化していく。さまざまな「顔つき」を見せつつ緊張感を高め、最高潮に達したところで短調に。明るさの中で多彩な表情を見せ、クライマックスのあと、ふと翳る顔色。それをさまざまな自然体、つまり弓の速度、使う毛幅の違い、駒と発音場所との距離などを駆使して、音楽の求める通りの答えを出す。

 この日はほかにヴァイオリンとチェンバロのためのソナタBWV1014, 1016, 1019も披露された。ファウストの素晴らしさは言わずもがなだが、その音楽性の高さにチェンバロのベザイデンハウトが呼応しきれていない。とくに拍節の力動の差異を鍵盤から引き出すことができないのは問題。終止だけ強引に段落感をつけるようなところも多い。その点に抜かりのないファウストの演奏とでは、とりわけ対位法的な部分での齟齬が大きい。

 相棒のこうした不行き届きにも関わらずファウストは、圧倒的に高い音楽性で強い印象を聴衆の心中に残した。多くの聴き手が熱烈な拍手の後、えもいわれぬ表情で会場を後にしていた。ファウストの円熟を物語る夕べ。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(7)

 バッハ音楽祭のコンサートだが、プログラムはすべてヴィヴァルディの書いた作品......。バッハのことをよくご存知の方はすぐにピンとくるだろう。
 バッハはヴァイマルにいた1713年ごろ、アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)を始めとするヴェネツィア楽派の協奏曲を深く学んだ。当時のバッハの雇い主のひとりヨハン・エルンスト公子は、たいそうな音楽好きだった。オランダに留学していたが、17歳になった1713年にヴァイマルに戻る。公子は帰国の途中に立ち寄ったアムステルダムで大量の楽譜を手に入れるとともに、興味深いオルガン演奏に出会った。それは当時、流行っていたイタリア風協奏曲をオルガン1台で演奏するもの。帰国した公子はお抱えだったバッハらに、アムステルダムと同様の編曲を命じる。
 この編曲を通してバッハは、トレッリやマルチェロ兄弟、とりわけヴィヴァルディの協奏曲のスタイルを学んだ。注文ありきの仕事だったとはいえ、この編曲がバッハにとって、願ってもないイタリア学習の機会となったことは言うまでもない。

 バッハのこうしたヴィヴァルディ体験を、演奏会として再現したのがアンドレア・マルコン率いるラ・チェトラ・バロックオーケストラと、オルガニストのイェルク・ハルベクだ(6月17日 於トーマス教会)。ヴィヴァルディの弦楽合奏ための原曲と、バッハのオルガンのための編曲とを交互に並べる。最後はヴィヴァルディの作品3-10。この作品をバッハは、4台のチェンバロのための協奏曲(BWV1065)として編曲している。この編曲の演奏はなし。BWV1065に加え、チェンバロ1台のために編曲した他者の協奏曲がいくつかある(BWV972-987)ので、続編への含みを残した格好だ。

 演奏がすごかった。とくにヴァイオリン独奏のシラノシアン。冒頭は《グロッソモーグル》原曲だったが、のっけから驚かされる。ソロ声部は始めに重音奏法を使って、ハーモニーとメロディーとを同時に弾く。このハーモ二ー部分は正確にテンポを刻むのに、メロディー部分は自由にルバートする。このズレが音楽的な刺激を大いにもたらす。なんでこんなことが可能なのか分からない。ハーモニーのテンポを正確にしようとすれば、メロディーのテンポも正確になるはずだし、メロディーをルバートするためにはハーモニーの正確さを犠牲にしなければならないはず。弾いている弓は1本なのだからそれが道理だ。だが、実際にはズレたり一致したりする。そのズレ幅が緊張感の移り変わりを作り出す。見事というほかない。
 独奏を含む弦楽合奏陣は、雑音を含むあらゆる音を表現手段として使う。つまり多彩すぎるほど多彩な「子音」を楽器から引き出しているということ。フォルテの時には力強い子音、ピアノの時には慎ましやかな子音。これができれば、音量を変えなくとも、子音の変化だけでフォルテとピアノとの対比を表現できる。この子音に、細部まで慎重に打たれた句読点、弓の上下運動の力加減の差異を掛け合わせる。すると、推進力にあふれ、滑舌の良い、方向性のはっきりとした音楽が流れ出る。
 こうした演奏の手綱を、通奏低音陣がしっかりと引いている。そこに本格派の身上がうかがえる。たとえばヴィヴァルディの作品3-10、最後のアレグロ。同じ音形を高さを変えながら(すなわち和声を変化させながら)繰り返すゼクエンツは、いわば同じ台詞のはずなのに、そのニュアンスやそれを発するときの顔の表情が刻一刻と変化していく。それを司っているのが通奏低音。支えは万全だ。

 一方のオルガンのハルベクは正直、危なっかしいところが多かった。地口を弄するようなところがあるというべきか。《グロッソモーグル》を受けての編曲BWV594の演奏では、子音を作りだせないオルガンの欠点をカバーすべく、間合いを取ることで音楽的な時間を作り出そうとするが大失敗。適度な間はアートになるが、彼の「繊細さを欠いた大胆な間」は、単なる「間抜け」であって、音楽性のかけらもない。ルバートの基本は「盗んだテンポ(速くした/遅くした速度)は必ず返す(平均速度を取り戻すために遅くする/速くする)」こと。盗んだら盗みっぱなしの速度変化は、酔っ払い運転のようなものだ。こういったところに質の悪い“即興性”を発揮するのに、いざ第2楽章「レチタティーヴォアダージョ」になると、楽譜をなぞるだけの弾きぶり。まったく納得のいくものではない。
 だが、BWV596は別人が弾いているかのようだった。原曲はヴィヴァルディの作品3-11。先ほどまでひどかった音栓の選択が適切で、声部の個性が生きる。緩徐楽章での装飾も洗練されていて、情緒を深くえぐる。保続音とその解決とのさばき方が、オルガンなる楽器の特性を浮き彫りにしている。このくらい磨きをかけてから他の作品も披露してほしいところだ。

 いずれにせよ、コンサートはとても刺激的。演奏者の美意識や見識、技術が、個々の作品
とプログラム全体の輪郭をくっきりと描き出した。2011年来、マルコンのバッハ音楽祭の演奏に期待はずれはない。またライプツィヒで会いたい音楽家の1人



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(6)

 今年は変わり種の催しが多かった。ルイ・マルシャン対バッハの鍵盤対決を創造的に再現したコンサート(6月16日 於シュタットバート)には、トン・コープマンアンドレアス・シュタイアーが出演した。この演奏会は、1717年の秋にドレスデンで予定されながら、マルシャンの敵前逃亡でお流れになった競い合いを下敷きとする。
 ちなみにマルシャン役をコープマンが、バッハ役をシュタイアーが担当した。オランダ語の「コープマン」は「商人」を意味している。ドイツ語にすると「カウフマン」。フランス語にすると「マルシャン」というわけだ。
 プログラムには舞曲が並ぶ。マルシャンとバッハの舞曲作品を、その曲種ごとに対決させる。最後は「ハッピーエンド」として、バッハの2台のチェンバロのための協奏曲ハ長調 BWV1061a をふたりで弾いて御開きとなった。演奏はマルシャン役の“悪ふざけ”(褒めてる)が楽しく、そのおかげでバッハ役の“真面目さ”が浮き彫りに。豪華な遊びに興ずる一夜。

 6月20日は街中のヴァリエテ劇場(寄席)クプファーザールで、《狩のカンタータ》BWV208と《羊飼いのカンタータ》BWV249aのオペラ風公演。いずれも貴族の誕生日を祝賀する音楽で、いわばお誕生日会の出し物だ。主人公を持ち上げ、楽しく話を進める。合間合間に器楽による《ブランデンブルク協奏曲》第1番の各楽章を挟み込み、“狩”や“羊飼い”の舞台となる田園風景を音楽で調える。
 会場となった寄席の平土間に、歌舞伎の花道のような細長い舞台を設置。舞台の中心に置かれたテーブルの下から登場人物が出てくる。クロスをめくって人が出たり入ったりするわけだ。歌手たちは18世紀風のコスチューム。客席はその舞台を四方から取り囲む。
 演奏は堅実で、18世紀語法を踏まえた器楽奏者(カッチュナー指揮ラオテン・カンパニー・べルリン)に、芸達者な歌手が揃う。場所の雰囲気と演目の性格の平仄があっている上、演奏もなかなかのもので、拍手も大きかった。

 ルドルフ・ルッツは即興演奏を得意とする鍵盤楽器奏者。過去のバッハ音楽祭でもその腕前を披露している。このたびは大学教会で、バッハらのコラール変奏曲にみずからの即興演奏を加えて、ルター派讃美歌の世界と、それに基づくオルガン音楽の世界をともに紹介する(6月22日)。
 興味深いのは、題材となるコラールを聴衆が一緒に歌うこと。ルター派の礼拝を模している。滋味深い原曲のコラール、刺激的なバッハらの作品、それを当意即妙に弾いていくオルガニスト、そこにさらに華を添える即興演奏。こういう演奏会はルッツほどのタレントがいなければ成立しない。往時のバッハもこうであったかと思わされる。一緒に歌うことで会場の一体感も大きく、ルターがコラールを礼拝式の中に制定した意味を、改めて考えさせられた。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(5)

 「枯れる」といった言葉とは無縁の活動を続けるヘルベルト・ブロムシュテット。このたびは古巣のゲヴァントハウス管弦楽団と、メンデルスゾーンを中心としたプログラムでライプツィヒに“帰還”した(6月15日 於コングレスハレ)。
  前半のバッハの協奏曲2曲は言及に値しない。演奏、とりわけ独奏者のそれは、あらゆる場面で均一な音を目指す20世紀後半の心太スタイル。強弱以外に特段の表現法はない。丁寧な演奏だが、丁寧さがつねに音楽に寄与するかというと、そうではない。そうではないところがアートのおもしろさだ。全体のサウンドも小編成とは言え、まごうかたなきモダン演奏なのだが、モダンのふくよかな響きも、古楽の溌剌とした語り口もない。
 一方、後半、メンデルスゾーンの第3交響曲スコットランド》になるとすっかり様子が変わった。ブロムシュテットは平時より、いくぶんゆったりとしたテンポで曲を始める。それこそ「枯れた」のかと思わされたが、さにあらず。会場のコングレスハレはきわめて乾いた音響で、典型的な多目的ホールの響き。そこではたっぷりと音楽を進めないと、会場はおろか作品までカラカラになってしまう。場所を踏まえての差配だ。それが当然、功を奏する。古典的な装いの中にメンデルスゾーンが仕組む、隠し味の利いたハーモニー進行が、きちっと客席に届く。その緊張と緩和の行き来が、螺旋状に聴き手のヴォルテージを上げていき、われわれをフィナーレの「戦」へといざなう。その演奏上の構成が見事だ。
 具体的にはパート内精度、つまり音程・タイミング・弓や息の力加減がよく整っているので、和音が収まるところに収まりと、それが続くことにより和声進行の弾力性が高まる。その進行が緊張と緩和の交錯、つまり段落感の形成につながり、その積み重ねがうねるように(螺旋状に上昇して)クライマックスを築くというわけ。
 ブロムシュテットらしい明晰な演奏。やはりこの人に「枯れる」なんて言葉は似合わない。



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