ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(8)

 今年のバッハ音楽祭、ハイライトはふたつあった。そのひとつ、イザベレ・ファウストクリスティアン・ベザイデンハウトによるデュオ・リサイタル(6月18日 於コングレスハレ・ヴァイサーザール)。
 ファウストのヴァイオリンは自然体の域に達している。自然体といっても勝手気ままに弾いているわけではない。音楽と演奏との平仄が合っているということだ。両者を合わせるのは一朝一夕にはできない。いや、実に簡単なことではあるのだが、気づくのに時間がかかる。
 たとえばファウストは、旋律の跳躍音程の場所に自然と句読点を打つ。移弦やポジション移動を伴うので、そこに「読点( 、)」がつくのは演奏上、普通のこと。ただ、20世紀後半の演奏習慣は、それをいかに滑らかにつなげるかに腐心してきた。
 歴史的に考えれば、跳躍音程の間には、特別な指示がない限り、読点を打つべきだ。ルネサンス期の、基本的には隣り合った音にしか移動しない旋律が、いくつも組んず解れつしていた音楽から、バロックのモノディー(独唱[奏]+通奏低音)にスタイルが移るとき、旋律に大胆な跳躍が生まれた。複数のパートを擬似的にひとりで演奏するためだ。つまり、跳躍音程を挟んで高から低、低から高へと異なるパートに移っているのだ。跳躍音程の前後で声部が違う以上、それを滑らかにつなげるいわれはない。さらに言えば、その前後は音色が違って当然である。
 そういう音楽の内実と演奏の技術とは本来、平仄が合っていた。跳躍音程の前後は声部が違い、そこには断絶があるので、必ず読点を打つ。演奏上は、弦楽器ならば移弦やポジション移動を、管楽器ならばレジスターチェンジ(第1オクターブから第2オクターブへの移動等)をする。自然に弾けば間ができるし音色も変化する。それが読点につながる。こうして、ひとりで複数のパートを擬似的に表現できるわけだ。
 自然体の演奏には、跳躍音程だけとってもこれだけの背景がある。作品を弾きこなすには、あらゆる場面に道理込みの自然さが必要だ。ファウストはそれらをひっくるめて、1周回って自然体なのだ。

 弓の上下運動の力加減が違うのもの、音楽の内実が求めるところ。拍節には下拍と上拍とがある(強拍と弱拍、と言い換えることもできるが、これは誤用に近い)。下拍とは「ボールの落下」拍。静止したところから、徐々に加速して地面に落ちて停止する。上拍とは「ボールの投げ上げ」拍。初速がもっとも速く、徐々に減速して位置エネルギーが最大化したところで静止する。両者を交互に繰り返すことが拍節だ。それが表現できていると、拍節感のある演奏ということになる。拍節感のある演奏には推進力があり、その裏面の効果として段落感を深く表現することもできる。つまり、アクセルとブレーキの性能がきわめて佳いということだ。
 ファウストの運弓は、この拍節の道理と軌を一つにする。つまり、弓の上下動の力加減が、ボールの運動の加速度=拍節と一致しているのだ。20世紀後半の演奏習慣では、音楽の内実とは裏腹に、上下運弓とも均一にすることを旨とした。

 こうした自然体の積み重ねが、無伴奏パルティータ第2番で実を結ぶ。シャコンヌがいつもよりずっと遅い。それは会場がすこぶる乾いた音響のため。響きの少ないこの場所で快速のシャコンヌでは、和声の推移をきちんと感じる間もなく、音楽は先に行ってしまう。たっぷり音を響かせて、緊張感の移り変わりを深く彫琢することをファウストは選んだのだろう。すばらしい点を挙げればきりがない。たとえば、長調の中間部から移旋して短調に戻るところ。長いアルペジオで刻一刻と音楽の相貌が変化していく。さまざまな「顔つき」を見せつつ緊張感を高め、最高潮に達したところで短調に。明るさの中で多彩な表情を見せ、クライマックスのあと、ふと翳る顔色。それをさまざまな自然体、つまり弓の速度、使う毛幅の違い、駒と発音場所との距離などを駆使して、音楽の求める通りの答えを出す。

 この日はほかにヴァイオリンとチェンバロのためのソナタBWV1014, 1016, 1019も披露された。ファウストの素晴らしさは言わずもがなだが、その音楽性の高さにチェンバロのベザイデンハウトが呼応しきれていない。とくに拍節の力動の差異を鍵盤から引き出すことができないのは問題。終止だけ強引に段落感をつけるようなところも多い。その点に抜かりのないファウストの演奏とでは、とりわけ対位法的な部分での齟齬が大きい。

 相棒のこうした不行き届きにも関わらずファウストは、圧倒的に高い音楽性で強い印象を聴衆の心中に残した。多くの聴き手が熱烈な拍手の後、えもいわれぬ表情で会場を後にしていた。ファウストの円熟を物語る夕べ。



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