ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(9)

 今年のハイライトのふたつめは、ピアノのアンドラーシュ・シフによるパルティータ全曲(BWV825-830)演奏会。シフは昨年、ゲヴァントハウスで《イタリア協奏曲》BWV971、《フランス風序曲》BWV831、《ゴルトベルク変奏曲》BWV988を一気に披露した。つまり『クラヴィーア練習曲集』の第2部(BWV971・831)と同第4部をすべて弾いたことになる。このたびは『クラヴィーア練習曲集』の第1部をコンプリートする。休憩含め2時間50分。長大なコンサートだが、少しも長く感じなかった。

 アンドラーシュ・シフも自然体の音楽家である。ファウストと違うのは、音楽の自然さを活かしきるためならば、楽器(彼の場合はピアノ)にとって自然とは言えないことを平然とやってのけるところだ。正確にいうと、凡百の奏者なら未練がましくすがろうとするピアノの「不自然な機能」を一顧だにしない。
 たとえばシフは、強弱に頓着しない。もちろん、楽譜が明らかに要求する強弱を無視するわけではない。各声部が絡み合う対位法的な部分で、パートの出入りや交通整理に強弱を利用するピアニストは少なくない。強弱の対比はピアノのもっとも得意とするところだからだ。しかし、対位法というのはすべてのパートが対等な立場で、それぞれの個性とその調和を目指す音楽。その中に強弱といった階層を設けてよいのか。本来、声部分けはパート間に時間差(微細なズレ)をつけたり、それぞれに句読点(まとまりの単位を小さくすることで、声部を追いやすくする)を打ったりすることで実現する。古典鍵盤楽器奏者はおおむね、この手法をとる。そこに音域による音色差を掛け合わせることで、声部にはっきりと個性を刻印し、対位法の交通整理をきちんと行なう。シフはこの音楽の求める自然さを追求するために、ピアノの得意技を使わない。強弱に頓着しないというのは、こういうことだ。

 音に方向性があるのもこの人の美点のひとつ。第3番のアルマンドが佳い例だろう。アルマンドは当時「くつろいだ雰囲気の舞曲」と評価されていた。それを鵜呑みにしてそのまま弾くと、微温的な演奏になりがち。シフのピアノの音には弦楽器の弓の上下を思わせる方向性、加速度の違い、拍節との平仄の一致があるので、こうした穏やかな楽想でも、きちんと進みたい方向を指し示しつつ、音楽を進めることができる。
 各曲のサラバンドの表現には恐れ入った。たとえば第2番。2拍めで粘り腰、3拍めでその分の時間を返す。これは2拍めにアクセントのあるこの舞曲にふさわしい、いわば通常運転。一方、第1番では2拍めに向けて細かくペダリング、2拍めにアクセント、これを受けて新たに細かくペダリング。こうして2拍めに音色上の浮遊感を出す。2拍めに工夫をする点は同じ。その工夫の仕方はずいぶん異なる。サラバンドの芯は外さない。しかしその表現は自由。この音楽家の真骨頂である。



.