アヴデーエワ「バッハ作品集」

◇J・S・バッハ:イギリス組曲, トッカータ ニ長調, フランス風序曲 ◇ ユリアンナ・アヴデーエワ(ピアノ)〔KKC5851〕

アヴデーエワの弾くバッハ作品集。これまでさまざまな作曲家の作品を組み合わせて録音を作ってきただけに、バッハひとりを特集するのは少し異例だ。そうした意気込みは演奏にも現れていて、とりわけ《フランス風序曲》の立体的な表現が素晴らしい。それを担保するのが、弦楽器の弓の上下を思わせる音運び。上げ弓と下げ弓の力具合の違いを、上拍と下拍の力動性に対応させるので、流れるような場面や緩徐な楽章でも拍節感は失われない。たとえば「ガヴォット」の跳ねて着地するような運動性。そのステップを音楽が、上拍下拍と続く拍節で模倣する。それを弓の上げ下げに変換し、ピアノでその力動を表現する。“基礎体力”のしっかりとしたバッハ演奏に拍手。

初出:音楽現代 2018年7月号





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クイケン『楽譜から音楽へ ― バロック音楽の演奏法』

◇バルトルド・クイケン『楽譜から音楽へ ― バロック音楽の演奏法』道和書院, 2018年

 雅楽や聲明の公演を制作する木戸敏郎は、伝統と伝承の違いを次のように説明している。伝統とはものごとのうちに潜む思想を伝えること、伝承とはものごとの形そのものを守ること。辞書上の語義とは必ずしも一致していないが、古典芸能を現代の舞台で生かすプロデューサーとして木戸が、この違いに敏感であるのは納得のいくところだ。
 ベルギーのフルート奏者、バルトルド・クイケンもまた、こうした差異に眼差しを向ける音楽家のひとり。クイケンは1949年生まれ。1960年代後半に18世紀のフルートを手に入れたことが決定打となり、以後、17・18世紀の音楽を当時の楽器で演奏する活動を続ける。
 この書物はその過程で得た知見を、コンパクトにまとめたもの。全体は5章だてだが、多くの紙幅は第4章に割かれる。第4章は「楽譜とその解読、演奏」と題され、「強弱」、「装飾」、「即興」といった18の小項目に分けられている。
 一見、楽譜読解法と演奏法の具体的な講釈のようだが、実態は違う。それぞれの項目に潜むエッセンスを示そうとする点で、むしろ思想書に近い。木戸の言葉を借りれば伝承ではなく、伝統に目を向けた内容と言える。とはいえその書きぶりは簡潔で、軽やかな音楽随筆といった趣がある。
 クイケンの思想の中心は、編曲や楽器選択を「翻訳」にたとえて議論している部分にあろう。翻訳には翻訳の効果があることを指摘しつつ彼は、原典に直接、アプローチできるのであれば、そうするほうが作品の経験として望ましいとする。それを敷衍すると、ある音楽をよりよく演奏するには、その当時の楽器と演奏法とがふさわしいという結論になる。
 この書物は豊富なテーマを通して、この考えをさまざまな角度から補強する。この豊富なテーマと、そこに見られる繊細な議論が集まって、モザイク画のように思想を形作っていく点に、この著作のどこかスリリングな楽しさが表れている。


初出:モーストリー・クラシック 2018年6月号





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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(5)

カンタータ・リング 10】「ミカエル祭 & 三位一体節後第10・14・27主日」▽2018年6月10日 20時 於ニコライ教会 ▽ ガーディナー指揮、モンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 連続演奏会「カンタータ・リング」の掉尾を飾るのは、ガーディナー。4曲のカンタータを披露したが、その頂点は最後の《目ざめよとわれらに呼ばわる物見らの声》BWV140だ。
 花婿を待つ花嫁の喩えで有名な「マタイによる福音書第25章1〜13節」を朗読したのち、シャインの合唱曲「おまえの若くして娶った妻をよろこべ」(箴言第5章18b〜19節)を挟み、福音書の喩えを踏まえたBWV140を続ける。聖書の朗読で音楽の背景に横たわるエピソードを印象付け、そのエピソードに関連する17世紀作品で音楽史的な参照点を準備する。続けざまそこに「目ざめよと呼ばわる声」を響かせる。こうした流れによって聴き手の耳は、きちっとチューニングされる。その耳に、音楽家ひとりひとりの意欲のほとばしる演奏が次々と飛びこんでくる。メッセージ性の点でも音楽性の点でも、人の心を強く揺り動かす。
 作品に縁の深い演奏会場、内容の理解と音楽の把握とに必要な最低限の補助線、歴史研究に基づく楽器と演奏法、未解決の部分を埋める、演奏者の大胆な創意。古楽の粋とはこうした演奏会のことを言うのだろう。





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《ロ短調ミサ曲》私録 XVI【新訂版】

 当方がこれまで実演に接したバッハ《ロ短調ミサ》BWV232の番付を発表するコーナーの第16回。今回はライプツィヒ・バッハ音楽祭2018の千秋楽、ゴットホルト・シュヴァルツ指揮、トーマス合唱団&ベルリン古楽アカデミーの演奏会に足を運んだ(2018年6月17日, ライプツィヒ・トーマス教会)。
 シュヴァルツの指揮(音楽解釈)のダメさ加減に変わりはないが、あの「名演殺し」の指揮を前に、職人的手さばきを見せたベルリン古楽アカデミーには、なんというか、同情の念を禁じえない。
 相変わらずガーディナーの圧倒的第1位は揺らぐことはない。これはあくまで「私録」なので、ランキング内容についてのクレームはご容赦を(笑)

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第01位 ガーディナー, モンテヴェルディ合唱団&イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(ライプツィヒ・トーマス教会, 2010年)
第02位 ユンクヘーネル, カントゥス・ケルン(アルンシュタット・バッハ教会, 2011年)
第03位 ヘンゲルブロック, バルタザールノイマン合唱団&同アンサンブル(同トーマス教会, 2009年)
第04位 ビケット, イングリッシュ・コンサート(同トーマス教会, 2012年)
第05位 コープマン, アムステルダムバロック・オーケストラ&同合唱団(同トーマス教会, 2014年)
第06位 クリスティ, レザール・フロリサン(同トーマス教会, 2016年)
第07位 エリクソン, エリクソン室内合唱団&ドロットニングホルム・バロックオーケストラ(同トーマス教会, 2004年)
第08位 ブロムシュテット, ゲヴァントハウス合唱団&同管弦楽団(同トーマス教会, 2005年)
第09位 鈴木雅明, バッハ・コレギウム・ジャパンサントリーホール, 2015年)
第10位 ヤコプス, バルタザール・ノイマン合唱団&ベルリン古楽アカデミー(同トーマス教会, 2011年)
第11位 フェルトホーヴェン, オランダ・バッハ協会(東京オペラシティ, 2011年)
第12位 アーノンクール, シェーンベルク合唱団&コンツェントゥス・ムジクス・ヴィーン(サントリーホール, 2010年)
第13位 ブロムシュテット, ドレスデン室内合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団(同トーマス教会, 2017年)
第14位 ミンコフスキ, レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル=グルノーブル(ケーテン・ヤコブ教会, 2014年)
第15位 鈴木雅明, バッハ・コレギウム・ジャパンバーデン・バーデン祝祭劇場, 2012年)
第16位 へレヴェッへ, コレギウム・ヴォカーレ・ヘント(ケーテン・ヤコブ教会, 2010年)
第17位 ピノック, 紀尾井バッハコーア&紀尾井シンフォニエッタ東京(紀尾井ホール, 2015年)
第18位 ラーデマン, ゲッヒンガー・カントライ、バッハ・コレギウム・シュトゥットガルト(同トーマス教会, 2015年)
第19位 ブリュッヘン, 栗友会合唱団&新日本フィルすみだトリフォニーホール, 2011年)
第20位 ノリントン, RIAS室内合唱団&ブレーメン・ドイツ室内管弦楽団(同トーマス教会, 2008年)
第21位 へレヴェッへ, コレギウム・ヴォカーレ・ヘント(同トーマス教会, 2003年)
第22位 NEW! シュヴァルツ, トーマス合唱団&ベルリン古楽アカデミー(同トーマス教会, 2018年)
第23位 ビラー, トーマス合唱団&ストラヴァガンツァ・ケルン(同トーマス教会, 2006年)
第24位 延原武春, テレマン室内合唱団&テレマン室内オーケストラ(いずみホール, 2011年)
第25位 シュミット=ガーデン, テルツ少年合唱団&コンツェルトケルン(同トーマス教会, 2007年)
第26位 ビラー, トーマス合唱団&フライブルクバロック・オーケストラ(同トーマス教会, 2013年)






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読響のチラシに出開帳!

来る9月下旬、シルヴァン・カンブルランの指揮のもと読売日本交響楽団がいよいよ、モーツァルトの歌劇《後宮からの誘拐》を上演!......という妄想をチラシの裏に書きました → こちら(PDF)


【当該演奏会の詳細】
第615回名曲シリーズ:9月21日(金)19時開演 サントリーホール
第106回みなとみらいホリデー名曲シリーズ:9月23日(日)14時開演 みなとみらいホール
モーツァルト後宮からの誘拐》序曲
モーツァルト ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491(ピアノ:アンデルシェフスキ)
ブルックナー 交響曲第4番 変ホ長調《ロマンティック》WAB.104(1888年稿, コーストヴェット版)





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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(4)

【PASSION 5】2018年6月15日20時▼ニコライ教会▼アダム・ヴィクトラ指揮、アンサンブル・イネガル

 ヤン・ディスマス・ゼレンカの受難オラトリオ《カルヴァリ山のイエス》を聴いた。これがとても面白い。ゼレンカはバッハが高く評価した音楽家のひとり。1679年にボヘミアで生まれ、1745年にドレスデンで没した。ザクセン選帝侯の宮廷に音楽家として仕えていた1735年、《カルヴァリ山のイエス》をドレスデンで初演した。
 第1に、この作品の台本はイタリア語だ。イタリア語で受難譚を語ると、その語彙は色恋を歌うオペラのアリアに限りなく近づく。第2に、イエスヨハネ(以上カウンターテノール)を始め母マリア、マグダラのマリア(以上ソプラノ)、母マリアの姪のマリア(アルト)にいたるまで、登場人物が全て女声。これは当時のオペラにありがちな配役だ。第3に、つくりは完全に芝居のないオペラ。
 こうした要素を総合すると、十字架上のイエスを囲むヨハネと女たちが、私はこんなにも主を愛している、いや私のほうがこれほど深くあの方を愛している、と超絶技巧で競い合うイタリア・オペラに見えてくる。これは作曲家の狙いそのものだったのではないかと想像する。というのも、受難劇であることから明らかなように、この作品は四旬節(受難前の斎戒期)に上演された。四旬節中は、娯楽に供するような派手な音曲は禁止。しかし、受難劇なら上演できる。そこで受難劇を、色恋沙汰を描くイタリア・オペラのように仕立てれば、四旬節にもかかわらず、実質的にオペラを楽しむことができる。そうした思惑が、こうした異形の受難オラトリオを生み出したのではないか。
 余談だが、シャリュモー(クラリネットの前身楽器)の甘い響きのオブリガートを、ここぞというところで入れてくるゼレンカの音響感覚もまた、興味深い。十字架上ではイエスが死にかけているのである。ドレスデンにもこの楽器の名手がいたのかもしれない。
 演奏は必ずしもA級ではなかったが、演奏者がおのおの、この興味深い音楽に精魂を傾けているらしく、独唱陣にしろ合唱にしろ、表現意欲をみなぎらせている。それが行き過ぎることもあれば、思わぬ表現の契機になることもある。なにより、この作品の興味深さを教えてくれた点に、賞賛を惜しむ理由はない。管弦楽の連中はいちおう、古楽器を手にしているが、ふだんはモダンを弾いているのだろうことが、奏法からうかがえる。ただし、モダン弾きとしてそうとうの手練れであるようだ。そういう音楽家が即席とはいえ古楽器を持つと、その勘所を即座に理解し、それを演奏(の隅々までとは言わないがその一部)に反映させることができる。この点も面白かった。
 そうそう、もうひとつ興味深いことを付け加えよう。このオラトリオでは序奏ののち、マリアが「シオンの娘たち」へと呼びかけるレチタティーヴォで幕を開ける。バッハの《マタイ受難曲》の冒頭合唱もまた「シオンの娘たち」への呼びかけで始まる。両者は「シオンの娘たち」をひとつの媒介に、オペラティックな受難曲という“名目”でつながりつつ、実際はきわめて対照的な体裁をとっている。前日の《マタイ》公演がすばらしければ、この対比もいっそう際立ったことだろう(前日の《マタイ》については下記の囲み記事を参照のこと)。
 このようによく練られたプログラム上の対比は、今年のバッハ音楽祭を特徴付ける、もっとも望ましい変化。これは新インテンダントのミヒャエル・マウルの手腕によるところが大きい。この体制が長く続くことを祈る。


。o O (バッハ音楽祭は16年連続16回目の全日程参加なのだが、その自分史上、最低最悪の《マタイ受難曲》を14日、トーマス教会で聴いたように思うが、多分、気のせいであろう。なんとなく、ブノワ・アレ指揮、ラ・シャペル・レナーヌの演奏のような気もするが、まあ「ひどい」と「マタイ受難曲」とは概念上、矛盾するので、「ひどいマタイ受難曲」などあり得ず、そうなるとこれは、やはり気のせいと思わざるをえない……)


写真:ライプツィヒ・ニコライ教会のオルガン演奏台(ポルシェ・デザイン)





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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(3)

アンドラーシュ・シフのバッハ・ナイト】2018年6月13日20時▼ゲヴァントハウス大ホール

 ピアノ1台なのでメンデルスゾーンザール(小ホール)かと思ったら、大ホールのほう。《イタリア協奏曲》《フランス風序曲》《ゴルトベルク変奏曲》と続くプログラム。冒頭の《イタリア協奏曲》を弾き始めたシフ、少し様子がおかしい。独奏部と総奏部とがずれている。したいことは分かる。両者に時間的なずれを生じさせ、それぞれの声部を際立たせ、音楽的な緊張感や独奏の即興性を浮き彫りにする戦略。ただしこれは、精妙でインティメイトな操作なので、狭いサロンならまだしも、大きなコンサートホールで音楽的な身振りとして聞くのは難しい(命の宿る細部が把握できないので単なるズレに聞こえる)。
 ここからがシフのすごいところ。第2楽章以降、その方針を修正し、いったん《イタリア協奏曲》全曲を弾き終える。聴き手の拍手後、なんともう1度、同曲を演奏し始め、終楽章まで弾ききった!。今度は時間的ズレでなく、音色差と音量差と句読点(アーティキュレーション)で声部を描き分け、緊張感の行き来を彫琢。音楽のあるべき姿を取り戻したばかりか、場合によっては新たな魅力を引き出す契機にもなった。こうした軌道修正を即座に行える客観的な耳、誤りを改むるに憚ることのない心、その結果もたらされる修正の適切さ、その適切さが生む新たな価値。このピアニストの凄みである。
 こういう音楽家だから《ゴルトベルク変奏曲》はやはり面白い。音色差、音量差、子音(出ばなの雑音成分)、句読点(アーティキュレーション)といった手札を様々に組み合わせながら、アリアと30の変奏曲とを万華鏡のように見せていく。全体の構築感を含め、各変奏が面白さにあふれているのだが、とくに素晴らしいと思ったのは第10変奏のフゲッタ。同じ旋律を繰り返す、そのたびごとに音色と子音とが違う。だから同じセリフのはずなのに、そのたびごとに違う人物が現れて、その人の口調でそれを言っては次にバトンタッチしていくように感じられる。これは特殊な解釈ではなく、むしろこの変奏曲にありがちな表現だとは思うけれど、それをこれほどまでに鮮やかに、まるで目の前で見えるように演奏したのは、モダンピアノならばコロリオフかこのシフぐらい。見事としか言いようがない。音楽家としての器の大きさを見せつけられた。


写真:拍手に応えるシフ(2017年6月1日 於バーデン・バーデン祝祭劇場)






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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(2)

カンタータ・リング1】「待降節と降誕祭」2018年6月8日 20時 於ニコライ教会 ▽ ガーディナー指揮、モンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 褒めるところがありすぎて書ききれないので、合唱の扱いに照準を合わせる。(いつものように)内声が厚く力強いので、合唱は中身の詰まった立体的な響きになる。それでいて内声は柔軟に動き、繊細に推移する。だから合唱団の声全体がまるで、形を刻々と変える柔らかい(そして時に手応えのある)物体のように感じられる。その物体のフォルムの変容が、詩の情緒の移り変わり、それに即したバッハの音楽の表情の推移をきれいにトレースする。そればかりか、ときにはそれを上回る勢いで自律的にその形を変化させていく。そういう表現がバッハのカンタータ群はもちろん、そのあいだに挟まれたガッルスやシュッツの合唱曲でも力を発揮する。これは合唱だけの手柄ではなく、それを支える器楽の手腕によるところも大きい(コラ・パルテなど)。統率のとれた楽団だが、音楽家ひとりひとりの表現意欲はそれぞれにほとばしっている。すばらしい。


カンタータリング2】「顕現日とマリア潔めの祝日」2018年6月9日 正午 於トーマス教会 ▽ コープマン指揮、アムステルダムバロック・オーケストラ&合唱団

 こちらも褒めるところばかりなので、管弦楽と独唱のクラウス・メルテンス(バス)について。この楽団のすばらしさは、大仰でなく繊細であるにもかかわらず、ニュアンスに富んでいて彫りの深い表現ができるところにある。それは、ことバッハ演奏について言えば、レジスター変化に敏感だから。弦楽上声部が単独で登場、やがて管楽器がそれをベールのように覆い、そこに通奏低音が合流して来るような場面。この重なり合いの推移がもたらす情緒の変化が、精妙であるにもかかわらず、実にくっきりとしている。それが楽想の移り変わり、とりわけ和声や調の変化と平仄を合わせる。指揮者はオルガン演奏の大家でもある。あの精緻なレジスター操作は、その経験からくるものとみてよい。
 クラウス・メルテンスの歌にはいつも、感動させられる。きりがないので一点だけ。彼は音量に大きな変化をつけずにフォルテとピアノとを歌い分けることができる。性格を描き分けているということ。だからフォルテのときに闇雲に大きな声で音割れしたり、ピアノのときに変なささやき声で聞こえなかったり、ということがない。いずれでもしっかりと詩を平土間に響かせ、それでいて詩の情緒は細やかに歌い上げる。こういう管弦楽団と歌い手とが手を組むのだから、BWV82が彫り深く、それでいて柔らかく、その上、決然とした演奏になるのは当然のこと。感に堪えない。








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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(1)

 ドイツ中部ライプツィヒで6月、恒例のバッハ音楽祭が開催された。会場は市内のバッハ史跡など。今年は「サイクル」をテーマに、6月8日から17日までの10日間、160を超える公演で大作曲家の仕事を振り返る。
 今年の音楽祭は「カンタータ・リング」に始まり「カンタータ・リング」に終わったと言っても過言ではない。「カンタータ・リング」とは今年のバッハ音楽祭の大型企画。主催者の厳選したバッハのカンタータ33曲を、3日10公演でリレーする“駅伝コンサート”だ。ガーディナー、コープマン、鈴木、ラーデマンらが、それぞれの楽団とともに演奏に携わる。
 各演奏家とも教会暦にしたがって順番に数曲ずつカンタータを披露していく。数曲のカンタータのあいだには、16世紀や17世紀の教会音楽を挟み込む。これも当然、教会暦やカンタータの内容に呼応する。音楽だけでなく教会暦に沿った聖書の箇所の朗読も行われた。
 企画全体のコンセプト、演目の組み立ての方法論、個別の演奏の充実度、聴衆を巻き込む会場の一体感、そして発券状況。どれをとっても大成功としかいいようのないプロジェクトとなった。

 さて、オープニングコンサートにもいちおう触れておく(6月8日 於トーマス教会)。トーマス・オルガニスト、トーマス・カントール、トーマス合唱団とゲヴァントハウス管弦楽団の出演はいつも通り。無資格でトーマスカントールになったゴットホルト・シュヴァルツの音楽は、例によってコメントに値しない。
 ただし、プログラムはとても優れていた(考えたのはインテンダントのミヒャエル・マウル)。シャイン、シュッツ、バッハ、メンデルスゾーンと同地にゆかりのある音楽家の作品を並べる。250年ほどの時間を超えて “ライプツィヒの音楽” を提示する試み。シャインのテ・デウムで始まり、シャインとシュッツの作品で一時「メメントモリ」、バッハの短ミサBWV233を経て、メンデルスゾーンの《Verleih uns Frieden gnaediglich》で締める。
 音楽様式の対比と共通点、詩のメッセージの一貫性、投影されるライプツィヒの歴史。とりわけ、冷戦末期に反体制運動を主導したこの街にとって、重要な言葉であり思想である「Frieden」を“柔らかく”強調するところがすばらしい。その後の演奏会のプログラムにも、こうした「すばらしさ」があろうことを強く予感させるもの。その予感は的中することとなる。


写真:ライプツィヒ・トーマス教会






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ハレ・ヘンデル音楽祭2018

 ハレ・ヘンデル音楽祭に行った。ハレは中部ドイツの街。ヘンデルの生まれ故郷として有名だ。そのハレが毎年、郷土の偉人を讃えるべく、ヘンデル音楽祭を開催している。歿後250年記念の2009年を境に、豪華な出演陣、楽しい演目、少し凝った企画を盛り込むようになる。その結果、今では多くのファンを集める国際的な音楽祭へと成長した。
 2018年は5月25日から6月10日までの17日間、ヘンデル史跡をはじめとした市内各所で50余の演奏会が開かれた。当方は5月31日から6月6日まで、ライプツィヒからハレに通って、いくつかのコンサートを楽しんだ。以下その短信。


【5月31日】
 ウルリヒ教会でマグダレナ・コジェナーのガラコンサート。ふつうこういう演奏会は、歌手が会場全体を支配するか、さもなければ歌手と楽団との力が拮抗して、相乗効果を上げるかだが、今回はアンドレア・マルコン率いるラ・チェトラが、音楽性の点で主役の歌い手を凌駕した。コジェナーももちろん悪くはない(白眉は《Verdi prati》)6月1日はそのマルコン&ラ・チェトラで《メサイア》。期待大。


【6月1日】
 マルコン指揮、ラ・チェトラ・バーゼルで《メサイア》を聴く。大聖堂にて。きわめて劇的。ただしそれは、闇雲にオペラ風というのではない。単純な和声進行の持つ緊張と緩和の行き来、それを手抜きなく描き出す。ブフォン論争を持ち出すまでもなく、イタリア音楽の簡明な和声は振れ幅の大きい情緒を描き出す。そこに旋律の流麗さが乗り、全体として彫り深く、それでいて細やかに詩の綾を表現する。ヘンデルはそういう音楽をイタリアで学んだし、それを生かして創作していた。そんなヘンデルの音楽の力が、十分に発揮された舞台。
 ヨハンソン、メナ、チャールズワース、ヴォルフの各ソリストも、マルコンのそういう姿勢をよく理解していた。具体的には装飾音(有り体に言えば不協和音)、管弦楽との時間的ズレ(ルバート)などでもう一段、和声の彫りを深くする。ヘンデル祭は3年に2回程度のペースで8度目のはずだが、もっとも素晴らしい《メサイア》。


【6月2日】
 ナタリー・シュトゥッツマンがソプラノのカミラ・ティリングを相棒に、ウルリヒ教会でガラコンサート。管弦楽はもちろんOrfeo 55。さまざまなオペラからアリアを抜粋、器楽曲を挟みながら一連の(恋愛)ストーリーを織り上げる。よくできたプログラム、小芝居付きで楽しい。シュトゥッツマンがすばらしいのはいわずもがなだが、ティリングの幅広い芸風が見事。俊敏でいて太めの声だから、朗らかな場面も愁嘆場も、いずれも情感豊か。
 1日のラ・チェトラが「道理のわかったモダン奏者が古楽器持って弾いている」感じ(それはそれで悪くない)だとすれば、Orfeo 55は「古楽器からレッスンをスタートしたような連中が古楽器を弾いている」感じ(とてもよい)。とりわけ通奏低音の子音と弓の上下の力感とには恐れ入った。各パートの即興も各所で炸裂、場を盛り上げた。


【6月6日】
 いちばん楽しみにしていたユリア・レージネヴァの演奏会@ウルリヒ教会。オーケストラはシンコフスキ率いるラ・ヴォーチェ・ストゥルメンターレ。このオケが曲者(ほめてない)。リーダーのシンコフスキは18世紀の語法を踏まえた上で、それをデフォルメしたりして、ギリギリのところを攻めていく(ときに逸脱する)。問題は他のメンバー。モダン奏者がただ古楽器を持ちました、いや、古楽器ですらなく「モダンセッティングの楽器を古楽持ちしてます、あっ、弓は18世紀のレプリカです」といった状態。さらに、18世紀の語法をふまえずにリーダーの真似だけをするから、ただアタックが鋭いだけのアクの強い似非古楽演奏といった風情。とくに通奏低音がひどくて、ああいうチェロはいっそ、内側に収納されているピンをしっかり出して、モダン弾きしてくれたほうがまだマシである。
 もう本当に冒頭の器楽曲で頭にきてしまったのだが、レージネヴァの登場した2曲めからは別世界だった。彼女は多分、少し声が低くなった。その結果、太い声の太さは増し、細い声の細さはそのまま維持された。絹布のような肌触りの声質は以前からだが、その布が厚くなったといったところ。(いつもながらに)びっくりするのは、同じ声量でforteとpianoとを歌い分けるところ。forteとpianoとは音量が違うのではなく、性格違うのだということがよく分かる。
 器楽が声楽のように演奏する、ということは重要視されるが、18世紀音楽でもうひとつ大切なのは、歌い手がいかに器楽的に歌えるか、ということ。レージネヴァはその点、音色変化も運動性能も申し分ない。下行音階をすばやく繰り返すゼクエンツ、繰り返すたびに音色や表情を変え、しかも、最終的に到達する最低音まできっちり望ましい音程に着地する。子音先行で母音が音符に乗るので、歌に澱むところがない。歌い始めのすばらしさはもちろんだが、感動的なのは歌い切りに通う神経の細やかさ。語尾の美しい言葉はやはり、人の心を動かす。






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