ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(4)

【PASSION 5】2018年6月15日20時▼ニコライ教会▼アダム・ヴィクトラ指揮、アンサンブル・イネガル

 ヤン・ディスマス・ゼレンカの受難オラトリオ《カルヴァリ山のイエス》を聴いた。これがとても面白い。ゼレンカはバッハが高く評価した音楽家のひとり。1679年にボヘミアで生まれ、1745年にドレスデンで没した。ザクセン選帝侯の宮廷に音楽家として仕えていた1735年、《カルヴァリ山のイエス》をドレスデンで初演した。
 第1に、この作品の台本はイタリア語だ。イタリア語で受難譚を語ると、その語彙は色恋を歌うオペラのアリアに限りなく近づく。第2に、イエスヨハネ(以上カウンターテノール)を始め母マリア、マグダラのマリア(以上ソプラノ)、母マリアの姪のマリア(アルト)にいたるまで、登場人物が全て女声。これは当時のオペラにありがちな配役だ。第3に、つくりは完全に芝居のないオペラ。
 こうした要素を総合すると、十字架上のイエスを囲むヨハネと女たちが、私はこんなにも主を愛している、いや私のほうがこれほど深くあの方を愛している、と超絶技巧で競い合うイタリア・オペラに見えてくる。これは作曲家の狙いそのものだったのではないかと想像する。というのも、受難劇であることから明らかなように、この作品は四旬節(受難前の斎戒期)に上演された。四旬節中は、娯楽に供するような派手な音曲は禁止。しかし、受難劇なら上演できる。そこで受難劇を、色恋沙汰を描くイタリア・オペラのように仕立てれば、四旬節にもかかわらず、実質的にオペラを楽しむことができる。そうした思惑が、こうした異形の受難オラトリオを生み出したのではないか。
 余談だが、シャリュモー(クラリネットの前身楽器)の甘い響きのオブリガートを、ここぞというところで入れてくるゼレンカの音響感覚もまた、興味深い。十字架上ではイエスが死にかけているのである。ドレスデンにもこの楽器の名手がいたのかもしれない。
 演奏は必ずしもA級ではなかったが、演奏者がおのおの、この興味深い音楽に精魂を傾けているらしく、独唱陣にしろ合唱にしろ、表現意欲をみなぎらせている。それが行き過ぎることもあれば、思わぬ表現の契機になることもある。なにより、この作品の興味深さを教えてくれた点に、賞賛を惜しむ理由はない。管弦楽の連中はいちおう、古楽器を手にしているが、ふだんはモダンを弾いているのだろうことが、奏法からうかがえる。ただし、モダン弾きとしてそうとうの手練れであるようだ。そういう音楽家が即席とはいえ古楽器を持つと、その勘所を即座に理解し、それを演奏(の隅々までとは言わないがその一部)に反映させることができる。この点も面白かった。
 そうそう、もうひとつ興味深いことを付け加えよう。このオラトリオでは序奏ののち、マリアが「シオンの娘たち」へと呼びかけるレチタティーヴォで幕を開ける。バッハの《マタイ受難曲》の冒頭合唱もまた「シオンの娘たち」への呼びかけで始まる。両者は「シオンの娘たち」をひとつの媒介に、オペラティックな受難曲という“名目”でつながりつつ、実際はきわめて対照的な体裁をとっている。前日の《マタイ》公演がすばらしければ、この対比もいっそう際立ったことだろう(前日の《マタイ》については下記の囲み記事を参照のこと)。
 このようによく練られたプログラム上の対比は、今年のバッハ音楽祭を特徴付ける、もっとも望ましい変化。これは新インテンダントのミヒャエル・マウルの手腕によるところが大きい。この体制が長く続くことを祈る。


。o O (バッハ音楽祭は16年連続16回目の全日程参加なのだが、その自分史上、最低最悪の《マタイ受難曲》を14日、トーマス教会で聴いたように思うが、多分、気のせいであろう。なんとなく、ブノワ・アレ指揮、ラ・シャペル・レナーヌの演奏のような気もするが、まあ「ひどい」と「マタイ受難曲」とは概念上、矛盾するので、「ひどいマタイ受難曲」などあり得ず、そうなるとこれは、やはり気のせいと思わざるをえない……)


写真:ライプツィヒ・ニコライ教会のオルガン演奏台(ポルシェ・デザイン)





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