クイケン『楽譜から音楽へ ― バロック音楽の演奏法』

◇バルトルド・クイケン『楽譜から音楽へ ― バロック音楽の演奏法』道和書院, 2018年

 雅楽や聲明の公演を制作する木戸敏郎は、伝統と伝承の違いを次のように説明している。伝統とはものごとのうちに潜む思想を伝えること、伝承とはものごとの形そのものを守ること。辞書上の語義とは必ずしも一致していないが、古典芸能を現代の舞台で生かすプロデューサーとして木戸が、この違いに敏感であるのは納得のいくところだ。
 ベルギーのフルート奏者、バルトルド・クイケンもまた、こうした差異に眼差しを向ける音楽家のひとり。クイケンは1949年生まれ。1960年代後半に18世紀のフルートを手に入れたことが決定打となり、以後、17・18世紀の音楽を当時の楽器で演奏する活動を続ける。
 この書物はその過程で得た知見を、コンパクトにまとめたもの。全体は5章だてだが、多くの紙幅は第4章に割かれる。第4章は「楽譜とその解読、演奏」と題され、「強弱」、「装飾」、「即興」といった18の小項目に分けられている。
 一見、楽譜読解法と演奏法の具体的な講釈のようだが、実態は違う。それぞれの項目に潜むエッセンスを示そうとする点で、むしろ思想書に近い。木戸の言葉を借りれば伝承ではなく、伝統に目を向けた内容と言える。とはいえその書きぶりは簡潔で、軽やかな音楽随筆といった趣がある。
 クイケンの思想の中心は、編曲や楽器選択を「翻訳」にたとえて議論している部分にあろう。翻訳には翻訳の効果があることを指摘しつつ彼は、原典に直接、アプローチできるのであれば、そうするほうが作品の経験として望ましいとする。それを敷衍すると、ある音楽をよりよく演奏するには、その当時の楽器と演奏法とがふさわしいという結論になる。
 この書物は豊富なテーマを通して、この考えをさまざまな角度から補強する。この豊富なテーマと、そこに見られる繊細な議論が集まって、モザイク画のように思想を形作っていく点に、この著作のどこかスリリングな楽しさが表れている。


初出:モーストリー・クラシック 2018年6月号





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