ケーテン・バッハ音楽祭2014(3)


 9月5日(金)、アンデルシェフスキ(ピアノ)の《イギリス組曲》他、ドロテー・ミールツ(ソプラノ)&ハンブルガー・ラーツムジーク(管弦楽)のBWV210他を経て、トン・コープマンアムステルダムバロック・オーケストラの演奏会へ。

 プログラムは《管弦楽組曲第3番ニ長調》BWV1068、カンタータ《主イエス・キリスト、真の人にして真の神》BWV127、《マニフィカト ニ長調》BWV243で、名曲の固め打ち。とはいえコープマンが、通り一遍の演目構成をするはずもない。バッハのラテン語典礼音楽の代表は《ロ短調ミサ曲》と《マニフィカト》。ミンコフスキが音楽祭初日に《ロ短調》を演奏したのに対応するのが、コープマンの《マニフィカト》だ。当夜のプログラムにはさらに凝った工夫がある。管弦楽組曲=祝祭的、カンタータ127番=イエスの死と復活、マニフィカト=イエスを身ごもったマリアによる神への讃美、と続く流れはつまり、イエスの生涯を逆回しでたどっていることになる。「クリスマスへの準備運動」といったところか。
 会場のヤコプ教会は、現在のケーテンの街には似つかわしくないほど大きな建物。そういった場所で、きちんと合唱の歌う詩を平土間に届けることができるのは、コープマンの優れた特質だ。かずかずの「猛者」がその音響に敗れ去ったライプツィヒ・トーマス教会でも、懐の深い内陣が音を吸い込んでしまう同ニコライ教会でも、コープマンはきちんと手当をして、聴衆の耳に歌の詩を、管弦楽のテクスチュアをしっかりと届けてきた。今回もそうした美質が生きている。
 《管弦楽組曲》が始まってすぐに、聴きたかったバッハはこれだ、と思わされた。その思いの芯は「バッハのアーティキュレーション」にある。小さい単位の音型をアウフタクト気味に、アンシェヌマンリエゾンはなく、子音を立ててハキハキと。それでいて細切れにならず推進力を保てるのは、言葉の韻律や舞曲のリズムを音楽の駆動装置としてしっかり利用するから。そもそもよく響く教会での演奏。滑舌よく演奏してちょうどよいくらいなのだ。
 おかげでカンタータ127番に込められた象徴音型の数々、たとえば「鞭打ち」を表す付点リズム、「うめき」を示すため打ち込まれる短い休符、「眠り」を誘う半音階進行が、「意味のある部分」としてきちんと聴こえてくる。
 こうした下ごしらえに乗って、精度の高い合唱が自分たちの持ち場を守る。ソプラノ6、アルト6、テノール4、バス4の規模で、ミンコフスキの声楽アンサブルのちょうど倍。それでいて精度もミンコフスキの倍なのだから、アムステルダムの合唱1人当たりの練度はルーヴル=グルノーブルの4倍だ。
 この合唱のレヴェルを支えるのが管弦楽のコラパルテ。合唱各声部の旋律を器楽の各パートが重複して、歌をバックアップする。このバランスが優れていると、人の声とも楽器の音ともつかぬ芯のある音色が、詩を明瞭に運んでくれる。人声に近い古楽器の音色のなせる業。歌の息づかいに通じる器楽奏者あっての物種だ。
 こうしたことがすべて、《マニフィカト》の演奏に流れ込む。ソリストはエビンゲ(S)、バルトツ(A)、リヒディ(T)、メルテンス(B)で、コープマンの意図を深く理解する面々。とりわけメルテンスとコープマンの息の合い方は見事で、通奏低音とバスによる第5曲「力ある方が」の威厳ある歌は、このコンビの真骨頂だ。
 知識と教養、音楽に対する深い洞察、それを表現として実現する高い技術、その鳴り響きを損なわないように環境に応じて演奏を調整する即応性。ファウスト然り、コープマン&アムステルダム然り、基本に忠実な演奏家の音楽は、知にも情にも訴えて、結果、会場から大きな拍手と歓声とを引き出す。こちらの想像をさらに一歩越え出た、価値ある一夜。
 

写真:トン・コープマンアムステルダムバロック・オーケストラ(2014年9月5日, ケーテン・ヤコプ教会)

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