ケーテン・バッハ音楽祭2014(4)


 激しい夕立に見舞われた、6日のケーテン。稲妻がきらめき、雷鳴がとどろく。アグヌス教会で隣り合ったヴィーンのジャーナリスト(いつも隣はこの人)に、「今晩のコンサートは『神のご託宣=激しい雷鳴』付きだねえ。Heute Abend haben wir die Konzert mit dem “Donnerwort”.」なんて言ったら、「永遠ね(笑)Haha, das ist Ewigkeit!」と返すあたり、あちらさん完全な「バッハ狂」だ(参照:“O Ewigkeit, Du Donnerwort” BWV20)。

 夕立などすぐに上がると高をくくっていたが、雨も雷も止む気配がない。そんななか、シギスヴァルト・クイケンラ・プティット・バンドによる演奏会が行われた。《ブランデンブルク協奏曲》第3・4・5・6番、《無伴奏チェロ(・ダ・スパラ)組曲》第1・3番、カンタータ《いとも尊きレオポルト》BWV173a 。ガラ・コンサートというだけあって、実に豪華。
 ただ、やはり夕立の影響は大きかった。稲妻や雷鳴はよいアクセント。問題は湿気だ。チェンバロの調整が決まらない。弦楽器のガット弦は「キューティクル」がはがれてくるし、断線の恐れもある。
 そういう状態だから、クイケンでさえチェロ・ダ・スパラによる《無伴奏》で、難儀そうに弓を運ぶことになる。ヴィオラのA線が切れるハプニングもあった(しかも、ヴィオラは何もせずに待っている楽章で)。持っているだけで楽器がおかしくなるのだから、気の毒としか言いようがない。
 それでも、ト長調の晴れ晴れとした《ブランデンブルク協奏曲第4番》が響き始めると、会場もつられて生き生きとし始める。この曲で、ラ・プティット・バンドの魅力は「透明なテクスチュア」にあることを、改めて確認した。「透明」には2つの意味がある。まずは各パートの音がつぶさに聴こえてくること。拍節の感じ方や句読点の打ち方、リズムの取り方や音色の差配、テンポの揺らぎなど、演奏に関わる事柄を奏者がみなハイ・レヴェルに共有している(「家族経営」のなせる業!)。だからこそ、各パートが独立して動く対位法的な場面で、それぞれの立場は明確になる一方、相互の関連は失われない(そんな演奏者による《ブラ3》の第3楽章を想像されたし!)。
 2つめの意味。ラ・プティット・バンドの演奏にはもちろん、奏者の個性がくっきりと刻印されている。そのはずなのに、おおよそ聴こえてくるのは曲そのものの魅力なのだ。音楽家の演奏は透明となって、作曲者の、楽曲の素晴らしさが迫ってくる。学生時代から何度となく聴き、楽譜を眺め、分析をし、弾きもした《ブランデンブルク協奏曲》を、改めて「佳い曲だなあ……」としみじみ思わせる演奏は、端的にすごい。
 演奏会を終えて表に出ると、稲妻も雷鳴も豪雨も過ぎ去っていた。コンサートの間だけ、光と轟音の共演があったようだ。「神のご託宣」付き、というのもあながち誤りではなかったかもしれない。


写真:シギヴァルト・クイケンラ・プティット・バンド(2014年9月6日, ケーテン・アグヌス教会)

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