ライプツィヒ・バッハ音楽祭2014(1)



 6月の第1週、中部ドイツは猛暑が続いていたけれど、第2週になると「欧州の初夏」と言うにふさわしい、さわやかな気候が戻って来た。そんな陽気を待っていましたとばかりに6月13日、ライプツィヒではバッハ音楽祭がスタート。22日までの10日間、市内のバッハ史跡を舞台に「バッハ・ファン 夢の祭典」が続く。
 2014年のテーマは「真の技芸 die wahre Art 」。大バッハの次男カール・フィリッップ・エマヌエルの有名な著作『クラヴィーア奏法試論 Versuch ueber die wahre Art das Clavier zu spielen 』からとられている。エマヌエルは1714年の生まれだから、生誕300周年。それを祝っての「バッハ”親子”祭り」と相成った。

【ミドリ・ザイラー】
 金曜夕方のオープニングからしばらく”エンジンがかからない”音楽祭だったが、土曜の深夜になってやっと”お目覚めの様子”。14日の22:30からトーマス教会で、ミドリ・ザイラーがヴァイオリンのリサイタル。バッハの《無伴奏パルティータ》から第2番BWV1004と第3番BWV1006とを披露した。
 BWV1004のアレマンド、角の取れた立ち上がりに「こんなものかな?」と思っていたら、繰り返しに驚かされた。バキッと音色が変わる。オルガンのレジスターを大幅に入れ替えたような感触。そこから先はザイラーの独擅場だ。続くコレンテでは多種多様な”子音”を音楽表現に結びつける。サラバンドで音色変化の妙に比重を置き直し、ジガでは改めて”子音”で推進力を保つ。こうして順を追って示した手練手管を、最後のチャコンナ(シャコンヌ)で統合するといった次第。バッハの《無伴奏》の解法はいろいろあるかもしれないが、当夜のザイラーは実にエレガントな証明を示してくれた。
 第3番も同じく知的な運び。その知的な運びが楽興を削ぐことなく、舞曲のわきたつリズムや、緊張と緩和のコントラストを描き、聴衆を音楽の世界に誘う。
 個人的には2番→3番という曲順もありがたい。舞曲だからね、ジグを聴いて終わりたいわけ。深夜の静かな御堂で、息をひそめて耳を傾けた聴衆が、ジグのダンス感を体に残したまま拍手喝采する。実に気分が良い。


【またしてもザイラー】
 へんてこな演奏会を日曜日に聴き、へんてこな気持ちで週が明けてしまったのだけれど、月曜日の夜にはそれを払拭する佳演に出会う。またしてもザイラー!今回は彼女を独奏者に迎え、ジャンヌ・ラモン率いるターフェルムジークバロック・オーケストラが、18世紀の協奏曲に挑む。会場はニコライ教会。
 ザイラーの弓の上下は、音楽の求める力動にぴたりと寄り添っている。これだけで演奏の課題は半分くらい達成できているように思うのだが、実際のところ実現できている奏者は多くない。そこに、金曜の夜にも聴いた手練手管が惜しげも無く投入される。さらに、オーケストラがダイナミクスレジスター転換(音色変化)とを紐付けるので、音量の変化に頼らなくてもコントラストや色合いの漸次的変化が実現する。そのおかげで独奏者を邪魔せずに豊かな楽想を紡ぐことができる。テレマン変ロ長調協奏曲 TWV51:B1やバッハのニ短調協奏曲BWV1052Rってほんとうに名曲!って思わせる演奏はつまり、演奏も素晴らしいということだ。
 ターフェルムジークのメンバーだけで演奏したバッハのヴァイオリンとオーボエのためのハ短調協奏曲BWV1060Rや、ヘンデルハ短調の合奏協奏曲 作品6-8 HWV326も味わい深い。ラモンのリードが面白いのだ。クラブのマダムが周囲を巻き込みながら色々な話しに花を咲かせるような雰囲気。お店の娘や黒服、ときにはお客相手に「ほら、あれ、なんて言ったかしら」「そうそう、それよ、どう、そちらのあなたもお好きでしょ」なんて言いながら、場の空気や話しの流れ、人間関係の機微を巧みにまとめあげていく。こういうのを「一座建立」っていうんだね。具体的には、普段引っ込み思案なテノール声部への話しの振り方がうまい。そのおかげでテノール声部ものびのびと弾く。するとサウンドに芯が生まれ、響きが立体的に立ち上がる。マダム藝、おそるべし。


【音楽家音楽学者の協同はこうして豊かな実を結ぶ】
 アカデミー・オヴ・エンシェント・ミュージックの演奏によるモーツァルト交響曲は、20世紀の音楽学(と音楽家との協同)が到達した、もっとも素晴らしい成果のひとつである、と当夜のジュピターを聴いて思いを強くした。
 17日の夜はニコライ教会で管弦楽。リチャード・エッガー&エンシェントの面々がモーツァルトの《ジュピター》を演奏した。伝家の宝刀を抜いたというわけだ。20世紀の後半、音楽学者ニール・ザスラウがモーツァルト交響曲を校訂。徹底的に学問的な手法で楽譜を作り直し、それをクリストファー・ホグウッドとエンシェントが、端から音にしていった。当夜のジュピターの演奏も当然、この系譜をひいている。
 前半の大バッハのBWV1061、エマヌエルのWq.47は、ああいう場所で、ああいう編成で演奏するものではないので、端的に不要だったと思う。そんな不完全燃焼も、やはり後半には解消された。吟味された楽譜、精選された楽器と奏法、演奏習慣の学習とそれに基づく譜面の解読、そうしたものが何を導き出すのか。その見事な例が示された。
 たとえば第1楽章の展開部。管楽器の上拍ロングトーンは緊張感づくりに欠かせない。エッガーはそれを「カーンッ」と響かせて、不協和音の楔を打っていく。アンダンテ楽章の繰り返しに現れる装飾的音形なんて、楽譜に書いてあるというより、その場で即興的に装飾が施されたように自然に流れ出てくる。端的に「趣味がよい」ということ。最終楽章が団子にならずに、克明に各声部が聴こえてくるのは、なにも各パートの揃いがよいだけではない。バウンドする楽想と滑らかな旋律との対比が際立つのは、上下拍の力動の違い(ビート感)をきちんと弓や息で音響化できているから。
 知的な営みに傾きがち見えるジュピターだけど、実際はそこからモーツァルトの楽しさが弾け出てくるわけ。弾け出た楽しさは聴衆の拍手喝采として御堂にこだまする。あの歓声を聞けば、アマデウスも納得のしたり顔をしただろう。


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