アンドレアス・シュタイアー フォルテピアノ・リサイタル



2013年12月4日(水)トッパンホール
 バッハの《ゴルトベルク変奏曲》とチェンバロとの結びつきに比べて、ベートーヴェンの《ディアベリ変奏曲》とフォルテピアノとの結びつきは格段に強い。フォルテピアノの特色、たとえば音域によって異なる音色、減衰の速さ、強弱の力動性、それらが複合的に生み出す「息づかい」や「弓の上げ下げ」が、《ディアベリ》とべったりとくっ付いてしまっている。両者は癒着して、離れることはない。
 グラーフ・モデルのフォルテピアノベートーヴェンを弾くアンドレアス・シュタイアーによって、この「癒着」に気付かされた。これは決して窮屈なことではない。楽器と結びつくことによって楽曲の「自由さ」が発揮される。そんな「癒着」だ。
 《ゴルトベルク変奏曲》と比較するとよく分かる。バッハのこの変奏曲は「当時の語法」「バッハの書法」にべったりと癒着している。だから仮に現代ピアノで演奏しても、そこに18世紀の語法や、バッハの曲づくりの本旨が聴こえれば、充分に様になる。その意味で《ゴルトベルク》は楽器、たとえばチェンバロとは癒着しているとまでは言えない(両者の関連がとても深いことは言うまでもない)。
 一方、《ディアベリ変奏曲》は楽器そのものとべったりと癒着している。逆に言えば、当時の語法もベートーヴェンの鍵盤書法も、そのほとんどをフォルテピアノが教えてくれる。たとえば、音域を変えながら同じ音形を2度も3度も繰り返すのはなぜか。わずかな音域の違いがドラスティックな音色の違いとして立ち現れるフォルテピアノに触れれば、そんな疑問は即座に解消する。
 当時の語法や書法によって本領を発揮するのが《ゴルトベルク》ならば、当時の楽器そのものによって自由に羽ばたくのが《ディアベリ》だ。その点から逆説的で破壊的な結論が導かれる。つまり、バッハの現代ピアノ演奏はあり得ても、ベートーヴェンの現代ピアノ演奏はとてもではないがあり得ない、ということだ。
 そういう破壊的な結論にいたるほどこの日、シュタイアーとグラーフ(1826年)と《ディアベリ》(1823年)とは不可分な存在として舞台の上にあった。フォルテピアノを選ぶのは、窮屈な枠に体を押し込めるようなことではない。作品が最も自由にはばたく瞬間を手に入れるためである。


【プログラム】
《ディアベリのワルツによる50の変奏曲》より
テーマ(ディアベリ), 第4変奏(ツェルニー), 第16変奏(フンメル), 第18変奏(カルクブレンナー), 第20変奏(ケルツコスキー), 第21変奏(クロイツァー), 第24変奏(リスト), 第26変奏(モシェレス), 第31変奏(ピクシス), 第28変奏(F・X・モーツァルト), 第38変奏(シューベルト
ベートーヴェン《6つのバガデル》作品126
ベートーヴェン《ディアベリの主題による33の変奏曲》作品120

【使用楽器】
C・クラーク製「フォルテピアノ(コンラート・グラーフ, ウィーン, 1826年)」2007年


写真:アンドレアス・シュタイアー(ライプツィヒ・トーマス教会, 2009年)


.