指揮者は同じ夢を見る?!―スクロヴァチェフスキ&読響



 ポーランド出身の指揮者、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが10月3日、読売日本交響楽団を指揮してベルリオーズショスタコーヴィチの ”交響曲” を披露した(東京オペラシティ)。前半にはベルリオーズの《ロミオとジュリエット》から「序奏」「愛の情景」「ロミオひとり」「キャピュレット家の大饗宴」を抜き出し、4楽章の純器楽交響曲に仕立てたものを、後半にはショスタコーヴィチの《交響曲第5番 ニ短調》を置くプログラムだ。一見、無関係にも見える前後半の ”交響曲” はこの日、演奏の方法論を共有する2曲として結びつけられた。

 《ロミオとジュリエット》は、ベルリオーズの著作『管絃楽法』の「生きた教材」。そのことを実感させる舞台は数少ない。スクロヴァチェフスキと読響の演奏は、その数少ない例のひとつだった。指揮者はヴィブラートとノンヴィブラートとを表現手段として使い分ける。音の色合い/重なり合いの変化で音楽を進めていく場面にはノンヴィブラートを、旋律の横方向への流れ/叙情性で推進力を作る場面ではヴィブラートを使い、一面的になりがちな管弦楽サウンドに明確な対比を施す。その対比は、場面の文学的な意味とも結びつけられる。素朴だったり諧謔的だったするところではノンヴィブラートが、愛・悲しみ・祈りが前面に出るところではヴィブラートが顔を出す。また、ひと口にヴィブラートと言っても、その濃淡は細かく設定されていて、場面によってサウンドが異なっている。

 指揮者と読響は「ノンヴィブラート=音色=色彩豊か」「ヴィブラート=流れ=階調豊か」という対比と、「素朴・諧謔=ノンヴィブラート」「愛・悲しみ・祈り=ヴィブラート」という対比とを上手く組み合わせて、《ロミオとジュリエット》の演奏効果を高めた。

 スクロヴァチェフスキは、この方法論をそのまま後半のショスタコーヴィチにも当てはめた。音の色合い/重なり合いの変化で音楽を進めていく場面にはノンヴィブラートを、旋律の横方向への流れ/叙情性で推進力を作る場面ではヴィブラートを用いる。音楽の両面が同時進行するところでも両者を楽器ごとに使い分け、各パートがその場面で何を担っているかを明確にする。

 さらにこれが、ショスタコーヴィチの叙情性や諧謔性の表現に密接に結びついていく。例えば最終楽章の第211〜247小節、ティンパニの属音連打に乗って冒頭主題が戻ってくる場面(第248小節以下)の直前。一見、極めて叙情的な(社会主義リアリズム的な)旋律を弦楽器群が演奏するが、指揮者はその場面を徹底してノンヴィブラートのサウンドで鳴らす。叙情的であるはずの旋律を諧謔的なものとして仕立て、社会主義リアリズムをせせら笑っているのだ。作曲者がこの曲に込めた思いについてはかまびすしく議論されるところ。しかし、実際の鳴り響きでここまで明確に作曲者のメッセージを伝えてくれる演奏に、これまで出会ったことはなかった。

 このように標題性と管弦楽法という一見異なる問題圏を、ヴィブラートとノンヴィブラートの使い分けで一挙に解決する方法は、常任指揮者カンブルランが読響に授けたもの。この時のプログラムは奇しくも当夜と同じ、ベルリオーズの《ロミオとジュリエット》だった。カンブルランとスクロヴァチェフスキ。この上なく優秀な指揮者がスコアを眺めると、ほとんど同じ解を見つけてしまう。読響を枕に、ふたりの指揮者は同じ夢を見るのだ。さらにスクロヴァチェフスキはこの解で、ショスタコーヴィチをも紐解いた。こうして読響は新たな「音楽の鍵」を手に入れた。