ライプツィヒ・バッハ音楽祭2013(7)



 ジョン・エリオット・ガーディナーモンテヴェルディ合唱団やイングリッシュ・バロック・ソロイスツを率いて活躍する指揮者。ライプツィヒ・バッハ音楽祭の常連で、出演のたびに素晴らしい演奏を聴かせてくれる。その「素晴らしさ」の質は一定なのではなく、毎回更新される。つねに前進する音楽家のひとり。
 そんなガーディナーが今年も、ライプツィヒにやってきた。トーマス教会で《ヨハネ受難曲》(20日)、ニコライ教会で《復活祭オラトリオ》&《昇天祭オラトリオ》(22日)の2公演。今年のテーマは「キリストの生涯 Vita Christi」だから、その根幹部分「受難、復活、昇天」を彼の両肩が担う。

ガーディナーの演奏の「真実らしさ」

 これまでで最も素晴らしい受難曲を聴いた、といったら大げさだろうか。当夜ほど受難曲の「真実らしさ」が心に迫ったことはない。「真実らしさ」というのは比喩ではなくて、れっきとした美学(藝術の哲学)の術語。それは「事実以上に完全なもの、積極的に『本物』と思われるような質であり、そのような『真』はほとんど美と不可分である」とされる。具象的な絵画作品とその対象との関係に典型的に現れる。アリストテレスにさかのぼるような古典的な考え方だけれど、受難曲がキリストの物語を描く音楽であることに鑑みれば、そんな古典美学の概念を当てはめることも的外れではない。

「真実らしさ」の源

 そんな「真実らしさ」はどこから来ているのか。これは古楽というアクションの本質にも関わること。このたびのガーディナーの《ヨハネ》に関して言えばそれは、手垢にまみれていない、ということに尽きる。ここで言う「手垢」というのは「18世紀半ば以降のドイツにおける教会音楽としての受難曲演奏伝承」。この伝承は、鳴り響きとしては佳い結果を招く場合も悪い結果を招く場合もある(後者が多い)。いずれにしてもその結果は、形骸から発しているに過ぎない。

 ガーディナーはそんな形骸をいったん解体し、少なくとも初演の時点まで演奏の根拠を戻すことに惜しみなく力を注ぐ。その上で歴史学上の「空白部分」を、現代に生きる聴き手の実感に迫る形で埋めていく。書物を渉猟し、楽譜を掘り当て、楽器を調え、効果を見定め、訓練を積み、演奏を重ねる中で表現のひとつひとつを組み立てる。ガーディナーは、たとえば「会衆讃美たるコラールはこう歌うべきだ」という形骸化したドイツ教会音楽の演奏伝承には依拠しない。それをも材料のひとつとして、伝承とそこから漏れた部分との新たな調整を図る。それがあの、古くて新しくて、なにより「真実らしい」《ヨハネ受難曲》につながった。

第22曲に注ぐ眼差し

 ガーディナーは《ヨハネ受難曲》の「背骨」を第22曲のコラールと見定めていたように思う。このコラールは「イエスの『囚われ』こそ私たちの『自由』」というキリスト教の十字架理解を歌ったもの。物語の中では「判決と磔刑」の場面の中心に位置する。多くの表現意志がこの第22曲へと流れ込む様子がこの日、見て取れた。

 大きな「運び」に着目すればガーディナーは、悠揚な間合いの第1部に対して、「審問と鞭打ち」の場面に始まる第2部では、風雲急を告げるように詰めた間で事を進める。こうした暖機運転でエンジンを充分に温め、場面は「判決と磔刑」へ。イエスとピラト、民衆の緊張感のあるやり取りを、福音書記者が交通整理しつつ(マーク・パドモアに惜しみない拍手!)、シーンは総督官邸からゴルゴタ山へと移っていく。

 「判決と磔刑」の場面では、第22曲の前後の描写に手腕が光る。イエスに本当に罪があるのか、この男を十字架に掛けてよいのか、この男は本当に神の子なのではないか、しかしこの男ひとりを助けるためにユダヤの民を無闇に刺激してよいものか……。そんな葛藤が、ピラトを歌うピーター・ハーヴェイによって繊細に表現される。演劇的と言ってもよいかもしれない。キャスティングの都合から、ピラトに表現力のある実力派を投入できないこともある。そんなときのピラトはだいたい一本調子。内面を丁寧に描くハーヴェイのピラトは一頭群を抜いている。

 葛藤をピラトの内面に引き起こすには、イエスがこの上もなく崇高でなくてはならない。当夜、その「崇高さ」はマシュー・ブルックによって理想的に実現した。大きな身体から出る低声はもちろん骨太なのだけど、その明るい音色にはたくさんの倍音(基音に対して整数比の振動数を持つ高音)が含まれていることがよく分かる。そういう音色と揺るぎのない声の芯とが、俗人ピラトとの違いをはっきりさせる。

合唱曲《ヨハネ

 さらに視線を細部に向け、次の点に注目したい。第9曲のアリアと、第21曲b・第25曲bとの関係だ。第9曲は「イエスに付き従うペテロの弾む気持ち」を歌うソプラノのアリアで、フラウト・トラヴェルソオブリガート。アリアが歌われるのは「ペテロの否認」の場面だ。福音書記者が「シモン・ペテロともうひとりの弟子がイエスについて行った」と聖書の句を朗唱し、ソプラノのこのアリアが続く。そして、ペテロがイエスを3度否認し、鶏の鳴き声によってそのつまずきを悟る有名なシーンへ。

 この一連の流れの中に第9曲を位置づけるならば、口では調子の良いことを言っているペテロの、その実、不確かな信仰を表現したアリアであると考えるのが妥当。だから、一見喜びにあふれる音楽でも内実は不安定、という難しい表現が求められる。バッハはこの曲にトラヴェルソを充てた。変ロ長調のアリアにD管の楽器では音色が籠もり、浮き足立ったように聴こえる。先述のように、不安定感を表すのに相応しい処置。

 楽器の得手不得手にまで「象徴」を負わせるバッハの書法が冴える。フルート奏者がくぐもった音色(つまり、あまり「上手」に吹かないこと)で、それを聴き手の耳に届けたことはもちろん上首尾だ。ガーディナーはさらに、この第9曲の象徴性を第21曲b「(嘲笑して)慕いまつるユダヤの王よ!」と第25曲b「ユダヤの王を騙った」とにきちんと繋げた。この3曲に共通するのは「ラソファミレド|ミレ」(階名唱)の音形、そして「イエスを口先だけで讃える言葉」。

 前半の第9曲で「口先だけの信仰心」を変ロ長調の下行音形で印象づける。第22曲のコラールを取り囲む形で第21曲bと第25曲bとにこの下行音形を置き、聴き手に信仰を省みる気分を起こさせる。イエスを否認したペテロも、イエスを嘲笑する兵士も、イエスを十字架に付けた民衆も、全て自分の姿(=変ロ長調の下行音形)。そんな自分を自由にするためにイエスは十字架に掛かった(=ホ長調のコラール)。五度圏図(調同士の近親度を示す図)では、変ロ長調ホ長調とはもっとも遠い(真裏の)調だ。

 バッハの視点誘導は見事と言う他ない。それを演奏で聴き手に余すところなく伝えるガーディナーの手腕にもまた驚かされる。こうした差配を実際に鳴り響かせるのは合唱の役目。《ヨハネ受難曲》は一にも二にも合唱の曲だ。合唱曲やコラールの多さはもちろん、それらの1曲1曲が担う役割も大きい。それは先述の「第21曲b ― 第22曲 ― 第25曲b」でお分かりいただけるだろう。合唱の地力の高さは、たとえば第11曲のコラールにうかがえる。第1節に対して第2節をピアニッシモで始めるのはガーディナーの得意とするところだけれど、それを表現として成立させるのは合唱の「芯の通った弱音」だ。細い針が貫通するような力強さを持つ真のピアニッシモは、これまた真の歌い手にしか出せない。モンテヴェルディ合唱団は真の歌い手の集団なのだ(それを支える管弦楽に大きな拍手を。息づかいに添う見事な弓づかいが活きたコラパルテにつながる)。 

音楽的「有機性」の意味

 これらの数々の関節、筋肉、臓器、皮膚が、背骨である「第22曲」の表現に寄与する。この連関が「有機的な音楽」の実態だ。そこにふわふわした曖昧な印象は少しもない。全てが過不足なくこの曲の大きなフォルムの一部となっている。そこから生じる最大の効果が「真実らしさ」ということなのだろう。
 こうしたガーディナーの音楽作りは、《復活祭オラトリオ》にも《昇天祭オラトリオ》にも同様に指摘できる。喜びに溢れた復活祭、再臨の希望に満ちた昇天祭に「真実らしさ」が感じられる充実した演奏。こうして1曲1曲が有機的に立ち上がったのはもちろんのこと、「受難、復活、昇天」を一手に引き受け演奏した2公演もまた、有機的に結び合わされた。
 録音にも積極的なガーディナーだけれど、CDの中にはすでに「今のガーディナー」はいない。彼の音楽はつねに更新される。もしライブに触れる機会があるのならば、決してそれを逃してはならない音楽家の1人だ。


写真上:ガーディナーとイングリッシュ・バロック・ソロイスツ(22日、ライプツィヒ・ニコライ教会)
写真下:(左から)メグ・ブレイグル、ハンナ・モリソン、ガーディナー、ニコラス・ムルロイ、ピーター・ハーヴェイ、マシュー・ブルック(20日ライプツィヒ・トーマス教会)