ライプツィヒ・バッハ音楽祭2013(5)

 「フリーダー・ベルニウス指揮、シュトゥットガルト室内合唱団、シュトゥットガルト・ホフカペレの演奏による、シューベルト未完のオラトリオ《ラザロ》とバッハのカンタータ《キリストは死の縄目に繋がれたり》を、6月18日にライプツィヒ・ニコライ教会にて」
 上記の字面をみて、当方はあまり興味を引かれなかった。今はそれを反省している。見事な構成と、それを活かす演奏。実演に接するたび「平均点の高いパフォーマンス」とは思いながら、感心するところまでいたらない。そんな「ベルニウス組」が、この公演で次の段階に進んだように思えてくる。
 フランツ・シューベルト(1797)のオラトリオ《ラザロ》は、1820年に着手され未完に終わった宗教音楽劇。台本はアウグスト・へルマン・ニーマイヤー(1754-1828)が1778年に書いた。曲は第2部まで書き進められたけれど、マルタが弟ラザロの死を嘆くアリア《荒れ狂う翼で私を Hebt mich der Stürme Flügel》の途中で自筆総譜は唐突に中断している。第1部、病床のラザロは末期のメッセージを発した上、死ぬ。第2部では兄弟や友人が彼の死を嘆く。シューベルトはここで筆を置いた。
 本来の物語(ヨハネ伝第11章)ではラザロの埋葬後、イエスが現れてラザロを甦らせる。説話としてはこの欠落した部分が大切で、いわば「来るキリストの受難と復活」の雛形。この大切な「復活」部分にベルニウスは、バッハのカンタータ第4番を当てている。第4番は「キリストの受難と復活」をルターの内面的なコラール詩に即して歌うもの。《ラザロ》との一体性は明らかで、ベルニウスはシューベルトの絶筆部からただちにバッハの演奏へと移った。
 これがたいへんよくできたプログラムで感心。世紀の対比(19世紀と18世紀)、楽器の対比(たとえば弦楽奏者はシューベルトとバッハとで弓を持ち替えていた)、演奏スタイルの対比(19世紀様式と18世紀様式)という「対比の網目」から紡ぎ出されるのは逆説的にも「物語の一貫性」。
 この流れを最大限に活かしたのがベルニウス組の真骨頂・合唱だ。声を張り上げないし、弱々しいピアニッシモにもならない。表現の幅は「緊張と緩和の彫琢」と「和弦的と対位法的(ホモフォニーとポリフォニー)の対比」で確保する。それはシューベルトの筆致そのもの。「泣き女」のような慟哭をするのでなく、ぐっとこらえつつ、こらえきれない部分を歌にするような《ラザロ》での合唱の気分はそのまま、《キリストは死の縄目に繋がれたり》の重苦しくも、音楽修辞法で理知的に処理された「シンフォニア」「コラール第1節」へと流れ込む。
 合唱の下支えはもちろん管弦楽。管楽器をピリオド系でそろえたのが功を奏した。シューベルトでのサックバットのサウンドは効果的。教会の楽器サックバットが響けば、聴き手はやはり宗教的な感触をそこに感じる。その他の管楽器の響きも声に近く、コラ・パルテ(合唱の各パートの旋律を重複して演奏すること)がぴったりと歌に寄り添う。それが歌詞の発音をくっきりと浮かび上がらせ、音楽の輪郭をきちんと整える。
 シューベルトお得意の韻律利用も丁寧に縁取り。イアンボス(短長格)が推進力を作り、いっぽうでブレイク部分の「ブレイク感」を増す効果。ベルニウスの間合いさばきとともに長さを感じさせない運びとなった。
 独唱陣の好演にも恵まれたこの日、「受難と復活の物語」は「新しい姿」を得た。ベルニウス組が「一皮むけた」ことと共に、大いに喜びたい。

写真:シュトゥットガルト室内合唱団&シュトゥットガルト・ホフカペレ(2013年6月18日 ライプツィヒ・ニコライ教会)