ライプツィヒ・バッハ音楽祭2013(3)
通奏低音はやはり「言葉」を話す
午前の演奏で感じた思いをさらに強くしてくれたのが、フライブルク・バロック・オ―ケストラ(写真[上])の同日夜の公演(15日, ニコライ教会)。同オーケストラは今年、ライプツィヒ・バッハ音楽祭にとって3つ目の「座付き楽団」となった(1. トーマス合唱団、2. ゲヴァントハウス管弦楽団)。当夜はチェンバロのアンドレアス・シュタイアー(写真[下])を独奏に迎え、「オーケストラ・イン・レジデンス」のお披露目演奏会。バッハの《チェンバロ協奏曲 ニ短調》BWV1052や《3つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ長調》BWV1064Rを柱に、そこにヘンデルやテレマンの協奏曲を関連づけていく。
この日、一貫して「場」を引き締めたのが、通奏低音を担当したチェロのグイド・ラリッシュ(写真[上]右端)。チェロが言葉を話す!声部同士の丁々発止の掛け合いを誘うのはもちろんのこと、通奏低音声部1本の中に隠された多声性(ひとり芝居)をあぶりだしたり、作曲家が仕組んだ修辞性(音形に具体的な意味を担わせる)を刻印したり。それもこれも子音の豊富さ=楽器の出だしの音の種類の豊富さがあってこそ。子音による描き分けによって、丁寧に分節されたフレーズのひとつひとつに意義が生まれ、それらが生気をもって立ち上がる。意味のない音形、死んだ楽想はひとつもない。
たとえばBWV1052では、チェンバロと通奏低音とのやり取りが、口角泡飛ばして議論するドイツ人を思わせる。チェロが独奏チェンバロ(シュタイアーに拍手!)を引っ張ったり、逆に押し留めたり。一方で緩徐楽章では優しく寄り添ってみたり。そこに弦楽が「間の手」や「拍手」、「かけ声」を入れていくような趣。
独奏と通奏低音との間の緊張感(や安心感)が聴衆に漏れなく届くので、その反動として、チェンバロのカデンツァ(独奏者の腕の見せどころ)の自由さが際立つ。ただでさえ煽るような楽想の”1052”なのに、さらに疾風怒濤の独擅場。
しかし、スタイルは外れていない。それもそのはずで、BWV1052が改編・演奏された1738年頃といえば、ヴァイマールで生まれたバッハの長男や次男が活躍し始める時期。実際この曲は、大バッハの原曲から次男エマヌエルの手によってチェンバロ協奏曲(1052a, 1732-34)に直されたこともある。さらに大バッハが自作を自分の手でチェンバロ協奏曲にしたのがBWV1052というわけ。だから次男を思わせるようなカデンツァは、それこそ時代的にはドンピシャの解釈。初演はエマヌエルだったかもしれないし。
独奏者のこうした活き活きとした、しかも歴史主義者まで踊り出すような演奏を際立たせるのに一役買ったのが、あの「語り出す通奏低音」なのだ。先出のディッタ嬢がそんな「語り」を身につけたらどうなるか。午前の思いは、夜の演奏会で理想的な形として示された。来たれ、義太夫チェリスト!
写真:[上] フライブルク・バロック・オーケストラ, [下] アンドレアス・シュタイアー(どちらも15日, ライプツィヒ・ニコライ教会)
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