ライプツィヒ・バッハ音楽祭2013(1)


ゲリラ戦で幕を開ける

 14日、トーマス教会でバッハ音楽祭が開幕した。オープニング・コンサート(#001)はのっけから話題沸騰。なにが話題かって、ゲリラである、ゲ・リ・ラ。飛び入り演説だ。アジテーションなんて久しぶりに見た。
 この音楽祭のオープニング・コンサートでは冒頭のオルガン演奏に続き、市長による「歓迎の言葉」、主催者の「挨拶」があり、そのあと本割りの演奏に入る。今年はこの流れにひと波乱。主催者挨拶のあと突然、ひとりのトーマス合唱団員が教会の説教壇に進み出て演説。(僕には分からなかったので事情通の方に解説していただいたところ)トマーナー曰く「市が約束したトーマス学校(註:合唱団員を育てる全寮制教育施設)支援はどうなった?その金はどこへ消えた?歌うにはトーマス学校の、とりわけ初等教育に対する支援が必要だ」(要約)とのこと。大拍手とともにトマーナーが退場すると、激しい「やめろ! Nein!」の声に晒されながらも市長が反論(蛇足だ。ここでの即反論は分が悪い)。スピーチを終えてもほうぼうからブーイングが出る始末。
 合唱団員が「演説」すれば角が立たない、というわけで、大人の振り付けがあることは間違いないけれど、トーマス合唱団の近年の「音楽的低水準」には、こうした理由「も」あったのかと思わされる(大きな原因はトーマス・カントルだろう)。
 問題はこのあとの演奏。前段の「演説」に説得力を持たせるのは、見事な演奏に他ならない(堂々と「どうだ、この水準を保ちたいなら補助金をよこせ」と主張できる)。困ったことに音楽的には論評に値しない。これは徹頭徹尾「値しない」のであって、書くことは何もない。聴衆は正直で、「トマーナー演説」のあとには長々と拍手喝采をした人々が、演奏後の拍手は程々に、足早に教会を立ち去っていく。「お金がないからこの低水準。だから支援しろ」とも言えなくはないけれど……。


弓には息が、息には弓が、両者を銀鈴が

 こんな、なんとも複雑な気持ちを宴会のゼクト(ドイツの発砲ワイン)でいったん緩和して、向かった先は連邦行政裁判所大法廷。ライプツィヒでもっとも豪華な演奏会場のひとつだ。ここでのコンサートがこの日の「灰汁」をすべて掬い取ってくれた。

 「コレッリとその崇拝者」と題した室内楽演奏会(#004)。プログラムにはコレッリはもちろん、オットーテール(ル・ロマン)、テレマンヘンデル、バッハが並ぶ。出演はリコーダーのロバート・エーリッチ、ヴァイオリンのスザンネ・ショルツ、チェンバロのニコラス・パールで、ライプツィヒ音楽大学の「教授経験者トリオ」だ。
 演奏会全体を「音楽の力動性」が覆う。リコーダーならば息の速度、太さ細さが立体映像のように立ち上がる。ヴァイオリンならば弓の上げ下げが自然な呼吸を模しているよう。チェンバロは、ジャーマンらしくチェロの響きのする左手と、隙なく緊張感作りをする右手との協同により「リズムと和声の支配者」として君臨する。
 仮に何かのメッセージを担わせるにせよ、こうした演奏にこそ力があるのだということを、しみじみと感じ入った24時。金曜の夜、街はまだ眠る気配がない。当方はミント茶で落ち着いて寝床へ。脚をつりかけるのは疲れている証拠か。とはいえ、すてきな演奏のおかげで夢見はよさそうだ。


写真:上・独唱陣とトーマス合唱団(トーマス教会, 14日)、下・左からショルツ、エーリッチ、パール(連邦行政裁判所大法廷, 14日)

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