ドイツ音楽祭めぐり2013 ― 復活祭編(3)



 ヴァイマルからバーデン・バーデンへ移動。たった20字の事柄だけど、例によってドイツ鉄道(DB)の遅延攻撃を受け、ひどい綱渡りをするはめに(まあ、慣れてるけど)。サーカスまがいの鉄道旅行についてはいずれ書くとして、今回はそんな気疲れを完全に払拭してくれたサイモン・ラトルベルリン・フィルハーモニー管弦楽団マーラー《第2交響曲「復活」》について(ロイヤル, コジェナー, ベルリン放送合唱団、24日)。
 ドイツ有数の温泉地にやってきたのは、第1回祝祭劇場イースター音楽祭を見物するため。3月23日から4月1日まで、ベルリン・フィルが引っ越し公演を行う。ラトルがマグダレーナ・コジェナーを連れて「夫唱婦随」で《復活》を演奏、というのも聴きもののひとつ。いざ聴いて見ると、そんな余計な話題性など吹っ飛ぶくらいの名演をしてくれるのだから、変なマーケティングは不要だ。


室内カンタータ《復活》

 《復活》のオーケストラ編成はとても大きい。管楽器は4〜6、ティンパニ2組にたくさんの打楽器、独唱2、混声四部合唱、そしてバンダ(別働隊。御簾内楽隊)。これらに負けないよう弦楽器に人員を配置するから、管弦楽は巨大になる。それなのにこの日、聴こえてきたのは「室内楽としての《復活》」。とてもとても親密な音楽が展開された。これは何も、静かな部分で室内楽的な響きがした、と言いたいのではない。交響曲全体が「完全に」室内楽だった。
 それはひとえに、弓づかい、息づかいの力動性があの大管弦楽からしっかりと聴こえてきたから。編成が大きくなればなるほど、その実現は難しい。たとえば弦楽器。独りで演奏するなら、初速が遅く徐々に加速して力強く着地(したのち自然に減衰)する下げ弓や、初速が速くそこから徐々にエネルギーを落としていく上げ弓の力動性を描き分けることは、簡単にできる(正確に言うとそれが出来るだけでそうとう卓越した演奏家だけれど)。息の合った仲間が集まってする室内楽でもそれは可能だろう。では、1パート16人の第1ヴァイオリン全体がそういう力動性を見事に表現していたとしたらどうだろうか。それが弦楽五部全体で行われていたとしたら。ほとんど奇跡のようなことだ。


親密さは身体性から、身体性は弓づかい/息づかいから

 それが出来るベルリン・フィルだからこそ、あの大編成の《復活》が室内楽として響き、この上なく親密な音楽につながった。もちろん、それによって大管弦楽の持つ迫力や音の勢いが失われたわけではない。迫力のある音が、迫力だけでなく、豊かなニュアンスを持って親密に響く。人間の身体性がしかと感じられる距離感がこうした親密度を決める。オーケストラならば、身体性は弓づかいや息づかいにこそ現れる。だから、この日の《復活》は室内楽並みに親密な音楽となったのだ。
 そういう管弦楽とコジェナーの歌はとても相性が良い。あのサウンドはラトルのものというより、コジェナーの好みなのではないかと思うほど。欧州でも最大級を誇るバーデン・バーデン祝祭劇場で、母音も子音もきれいに客席に届けるピアニッシモ。卓越した歌と、それを送り届ける管弦楽の関係もまたとても親密だ。


マーラー像」の更新は続く

 こういう《復活》、こういうマーラーを実演で聴いてしまうと、迫力一本勝負みたいな演奏はもう、受け付けなくなる。当方はこの曲の実演を2度しか聴いたことがなくて、前回は2011年のシャイー&ゲヴァントハウス管弦楽団。シャイーの演奏は理知的で、コンデンサヘッドフォンのようなゲヴァントハウスの音響分解性能とも相まって、とてもとても颯爽としていた。シャイーの颯爽とした演奏も、ラトルの親密な演奏も、どちらも納得できるし心に残る。新たなマーラーが聴けて旅の疲れもどこへやら。宿へは劇場から遊歩道を3分ほど。風は冷たいけれど気分はもう、春だ。


写真:バーデン・バーデン祝祭劇場