「不安感」をスパイスに ― 高田泰治さん(古典鍵盤楽器奏者)



■高田泰治 チェンバロ・リサイタル
 2011年5月8日(日) ボーゼハウス「夏の間」
 主催:バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ

■プログラム
《6つの小プレリュード》BWV933-938
《パルティータ第2番 ハ短調》BWV826
《4つのデュエット》BWV802-805
《イギリス組曲第2番 イ短調》BWV807
■アンコール
《イタリア協奏曲 ヘ長調》BWV971


 中央駅手前の長いカーブを抜け、列車は欧州最大級の端頭式プラットホームにゆっくりと滑り込む。ライプツィヒを訪れる旅人はみな、この「儀式」を経て街へと消えて行く。普段なら、駅から先は日本語以外の言葉でコミュニケーションを取らねばならぬと、旅の始めに気を引き締めるのだが、2011年の初夏は少し勝手が違った。駅を出てすぐに掛けられた言葉は「サワタニサン……」。頼りなさげな声の主は高田泰治さんだった。
 ライプツィヒはそれほど大きな街ではないので、道で知り合いに出会うことも珍しくない。とはいえ、到着した瞬間に「取材対象」に出会うとは思っていなかったので、少し面食らった。ドイツでの演奏経験も豊富な高田さんだが、意外にもライプツィヒでのコンサートは初めて。そんなところから来る不安感が「頼りなさげな声」に現れていたのか、と少し心配になる。
 どうもそれは考え過ぎだったようだ。有名なトーマス教会の向かいにボーゼハウスと呼ばれる黄色い館が建っている。バッハはこの館の「夏の間」で演奏を楽しんだ。この「夏の間」を会場に高田さんの演奏会は行われた。プログラムはバッハばかり。緊張した面持ちながら、遊び心のある旋律装飾を随所に放り込んでくる。終了と同時に、耳の肥えた常連から「ブラアヴォ」の声が飛び出した。演奏会の担当者も「滅多にないこと」と驚く。
 つまり、高田さんは不安感に苛まれていたわけではなかった。もちろん、緊張はしていただろう。どうもそれを楽しんでいる節がある。本番前日にはトーマス教会でモテットを聴いたと楽しそうに話す。ナーバスな演奏家ならそういう行動様式はとらない。彼の声が頼りなさげに聴こえてしまったのはきっと、僕のほうが不安だったからだ。こうして高田さんは周囲を不安に陥れながら、自身は見事な演奏を成し遂げてしまう。スリル抜群である。しかし、こういうスリルならいくら味わっても良い、と心から思う。

初出:CD「高田泰治バッハ・アルバム」のライナーノーツ