批評の批評、または批評と批評 ― M・T・トーマス&サンフランシスコ響



 読売新聞11月27日夕刊文化面、沼野雄司さんによるサンフランシスコ響の批評がたいへん興味深い。「聴こえ」と「理解」の点では僕もほとんど同じなのに、沼野さんと僕とでは「評価」の点で正反対の結果になったから。
 マーラーの《第5交響曲》に関して「ねっとりした表情がつけられているのに、なぜか全体としては乾いている……」との沼野さんのことば。(卓越した演奏を讃えつつも)「濃い味付けの楽想群は有機的に結び合わないまま、ただ並列されている印象」で、それが「高揚感」を削ぎ「乾いた」音楽へとつながった、というのが評の肝だ。
 僕はあのマーラーを「重量の割に快走、密度の割に透明」と聴き、それがヴィブラートとノンヴィブラートとを複線的に利用した結果だとして、それによりマーラーの「冷笑的音楽連関」が明らかになった、と評した(来月発売の「音楽現代」特集記事と批評欄)。
 つまり「ねっとり…しかし、乾いている」→「音楽に有機的連関なし」という「聴こえ」と「理解」は沼野さんも僕もほぼ同じ。違いは沼野さんが「有機的連関なし」という点をネガティヴに捉え、僕がそれを逆に「冷笑的連関」としてポジティヴに捉えているところだ。
 沼野さんはマーラーの五番にもその内部に、理想的な有機的連関があると考えている。僕はその点に懐疑的だ。すくなくとも「ベートーヴェンの五番」的有機性があるとは思っていない。もっと意味論的な、しかもかなり皮肉な連関はあると思っていて、今回それがうまく表現されたと考えている。こういった違いが沼野さんと僕との評価の差異につながった。
 僕は、マイケル・ティルソン・トーマスが「マーラーの五番をベートーヴェンの五番のように聴い(弾い)ても、マーラーを聴い(弾い)たことにならないよ」と教えてくれた点を評価したい。それは(技法上も解釈上も)とても知的な演奏だ。
 だからといってネガティヴな評価をした沼野さんを批判するつもりは毛頭ない。「聴こえ」も「理解」もよく似ているのに、ただその「評価」が異なるなんていうのは、批評のもっとも興味深い点、面白がるべき側面だ。こんな議論を音楽専門誌なり新聞文化面なりに掲載できたらたいそう良いのだけれど……。


追記:ちなみにこの日、沼野さんと僕はサントリーホール2階席の同じ列(間に2席)で演奏を聴いたから、聴取条件までほぼ同じ。