無邪気な君は手を出すな!―カルミニョーラ ヴァイオリン・リサイタル


2012年11月7日(水)トッパンホール

 ジュリアーノ・カルミニョーラの「モーツァルト・ナハト」。プログラムは《クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタト長調 K379(373a), 変ロ長調 K378(317d), へ長調 K377(374e), イ長調 K526で、「ヴァイオリン付きクラヴィーアソナタ」から「ヴァイオリンとクラヴィーアのソナタ」への移行期と、完成期の作品とが並ぶ。矢野泰世がフォルテピアノを担当した。
 さてこれは、薄ぼんやりが真似をすると火傷する演奏だ。弓が速くなったり、ふっと脱力したり。ヴィブラートをかけたりかけなかったり。地団駄を踏んだりふわりと着地したり。ヴァイオリンもフォルテピアノも、それらを「自在に」「興の赴くまま」行っているように見える。そこが罠。すべては和声と、言葉(西洋語)に基づく語法とに支配された手練手管。根拠のある表現手法を網の目のように張り巡らせているから、コントラストが強いところでも白飛びしないし黒潰れもしない。緊張と緩和はくっきりとしているけれど、その表現方法は豊かな階調を誇るのだ。
 そんな見事な演奏だからこそ、ひとつ指摘したいことも。それは楽器の調整(もしくは楽器そのもの)。当夜のフォルテピアノはマクナルティ製作のアントン・ヴァルター(19世紀初)で、モーツァルトベートーヴェンを演奏するときによく使われるモデルだ。古典派の演奏に際して、フォルテピアノに求められる音の理想のひとつは「弦楽器のような低音」と「管楽器のような高音」。フォルテピアノ一般にはそういう性向があるし、モーツァルトベートーヴェンのクラヴィーア室内楽や協奏曲には、そんな性向を活かした書法がこれでもかと現れる。
 当夜のプログラムも同様。ヴァイオリンと、フォルテピアノの管楽器風高音とが鮮やかな対照(音色[彩度]の幅)をなし、いっぽうで両者をフォルテピアノの弦楽器風低音がしっかりと接着する(濃淡[明度]の幅をつなぐ)。フォルテピアノの音域による音色差は、こと弦楽器とのアンサンブルでは、対照性と同質性(音色の多彩さと各色の階調の豊かさ)とをいっぺんに実現するキーポイントなのだ。イメージとしては

[C.フォルテピアノ管楽器風高音]
(対照)
[A.ヴァイオリン]
(同質かつ対照)
[B.フォルテピアノ弦楽器風低音]
(同質かつ対照)
[C.フォルテピアノ管楽器風高音]
(対照)
[A.ヴァイオリン]

という円環構造。A,B,Cそれぞれの個性、AB,BC,AC,ABCそれぞれの関係性が重層的に音楽を作る。
 ところが当夜の楽器は低音から高音までが、どちらかというと等質に整えられていた(これが楽器の個性に由来するのか、調律師の調整に由来するのか、演奏者の趣味に由来するのかは不明)。低音の弦楽器音色はよいけれど、高音の管楽器音色が聴こえてこない。そうすると円環構造から「対照性」が抜け落ちるので、アンサンブルの響きはモノクロームになる。そうだとしても、カルミニョーラ&矢野のように、とんでもない階調の豊かさで演奏してくれれば、賛辞を惜しむ理由もない。とは言え、管楽器の音色が鍵盤の右手にあったら、演奏はもっともっと信じられないような高みに達したのではないかと、ふと考えてしまう。無い物ねだりである。