BCJの《ロ短調ミサ》(ヨーロッパ・ツアー)



5月27日(日)バーデン・バーデン祝祭劇場(ドイツ)
ハナ・ブラシコヴァ, ヨハネッテ・ゾマー(以上S), ロビン・ブレイズ(A),
ゲルト・テュルク(T), ペーター・コーイ(B)
鈴木雅明バッハ・コレギウム・ジャパン

 「つんつるてん」という言葉がある。ご存知の通り丈が足りないこと。その反対は「ぞろっぺえ」で、こちらは裾を引きずりかける様子が語感に表れている。いずれにしても着物が身体に合っていないことを言う。和服はそもそも、着る人の身体に合わせて反物から仕立てるものだから(男物は着丈!)、「つんつるてん」や「ぞろっぺえ」というのはそうとう恥ずかしい。多くの人が既製品を身につける洋服だとその意識は若干、薄れるだろう。
 それでもやはり、身体に合わない服というのは具合が悪い。見た目もそうだが、なにより着心地に大きく響く。高級な生地で出来た吊るしの服を着るくらいなら(服に着られるくらいなら)、並の生地でも腕の良い仕立て屋に仕立ててもらった服を着た方が、ずっと気分が良い。それは音楽にも言えることだ。場面場面を切り取ってみると、演奏者の卓越した手腕に驚かざるを得ないけれど、結果としてその日・その時・その場所にそぐわない演奏になることがある。この日の鈴木雅明指揮、バッハ・コレギウム・ジャパンの《ロ短調ミサ曲》はそういう演奏だった。
 もちろん各部分の素晴らしさにはケチの付けようもない。いわば「超高級生地」だ。たとえば《クレド》の「唯一の洗礼を信ず Confiteor」から「そして待ち望む Et expecto」のアダージョを経てヴィヴァーチェへと流れ込むところ。「Confiteor」では《クレド》冒頭のミクソリディア旋法と古様式をしっかりと思い起こさせる。アダージョ部分の半音階進行の「不安さ」は実のところ、合唱のこの上もなく着実な足取りによって実現されている。だからこそヴィヴァーチェ部分の推進力が活きてくるのだ(アダージョはさしずめ、ミニカーを走らせるときに車体をいったん後ろに引いてネジを巻く作業に似ている)。
 問題はその「素晴らしさ」の在り方。どうも、BCJの素晴らしさが《ロ短調》に最適化されるのでなく、《ロ短調》がBCJの素晴らしさに最適化されているように思える。誤解を恐れず言えば、演奏が既製服化=パッケージ化されているのだ。
 たとえば《グローリア》の「聖霊とともに Cum sancto spiritu」や、《クレド》の「そして三日目に甦り Et resurrexit」。どちらも爆発的な讃美のパワーを発散する楽章で(前者は栄唱、後者は復活の場面)、その爆発のひとつの現れとして長大なメリスマ(1つの音節にたくさんの音を付けること)を持つ。この2つの楽章の肝は速度で、一定の速さを維持しなければメリスマからの盛り上がりを築けない。合唱の技術、言葉の伝達度、会場の響きが上手く一致する速度に塩梅するのが、指揮者の腕の見せ所だ。とりわけ会場の響きはまさに変数。指揮者は、残響が多ければ手綱を引き、少なければ鞭を入れる。これが「腕の良い仕立て屋の仕立て」に当たる作業だ。
 バーデン・バーデン祝祭劇場の残響に対して、BCJの2つの楽章の演奏は速度が若干、遅い。あの速度だと、乾いた響きの中では旋律に「わずかな間」が生じてしまって、盛り上がりにつながらない。技術的な問題は高度にクリアしているはずだから、指揮者の鈴木が「《ロ短調》が最も効果的に聴こえるよう会場の残響を考慮した速さ」よりも、「BCJにとって演じやすく、その手腕が最も効果的に発揮される速さ」の方を選びとったということだ。
 実は鈴木には前例がある。2006年のライプツィヒ・バッハ音楽祭、鈴木とBCJはニコライ教会で《管弦楽組曲第1番》を披露した。このときも鈴木は、BCJの演奏を会場の響きに最適化しなかった。そのため聴衆の元にはずっと、上声部と通奏低音とが微妙にずれた演奏が届いていた(その居心地の悪さを想像していいただきたい)。
 つまり鈴木とBCJの《ロ短調》の素晴らしさは、すでに出来上がった「既製服」としての立派さなのだ。生地は超高級、裏地も凝っているし縫い方だって丁寧。しかしそれは、その日・その時・その場所のその聴衆に最適化された「素晴らしさ」ではない。むしろ、曲のかたちや場所の響き、聴衆の聴き方のほうが鈴木の音楽に最適化を強いられている。服を着ているのではなく服に着られているようなもの。ただ、吊るしでも高級服ならばよい、という向きもあるから、この日の演奏を良しとするも悪しとするも、いわば価値観の問題だ。技術的には優れたところが多かったのは先述の通りなのだから(ヨハネッテ・ゾマー、ゲルト・テュルクにも惜しみない拍手を!)。
 さてそうなると、来る6月8日、ライプツィヒ・トーマス教会での《マタイ受難曲》は考えもの。トーマス教会の音響はちょっと曲者で、アーノンクールも2007年、この教会のひねくれた音響にあえなく撃沈した(晩年様式のアーノンクールもどちらかというと既製服派=パッケージ派)。鈴木が、BCJの演奏をトーマス教会とそこに集う聴衆に最適化するか、はたまたそれらをBCJの演奏に最適化するよう強いるか、事の成否はそこに掛かっている。首尾や如何に。


写真:バーデン・バーデン祝祭劇場