音楽芸術は公共財か?(5/6)

第5回 「音楽芸術というまやかし」は公共財である

 いまいちど「音楽芸術は公共財である」というスローガンに立ち返り、この言葉を検証しよう。この命題が矛盾を導くことはすでに指摘した。たいがいのことが真となるような「過剰」な命題も問題だが、ひとつでも矛盾を導き出したら、その命題はそれでおしまいである。だから、まずはこの威勢の良いスローガンから矛盾を取り除かなければならない。そしてそれは、難しいことではない。「『音楽芸術というまやかし』は公共財である」とすれば解決だ。「音楽芸術というまやかし」とは、言葉を変えれば、旧来の音楽芸術が今も有効だと信じ込むことだ。無効であるものを、さも有効であるように装っていた点が矛盾の原点だから、その点を正しく記述し直せば、即座に矛盾は取り除かれる。
 次に「音楽芸術というまやかし」が公共財と言えるかどうかを確かめる必要がある。公共財は、(1)非競合性、(2)排除不可能性、(3)外部経済性の各性質を持つ。「音楽芸術というまやかし」はいわば概念・アイデアなので、それを利用する場合、他人と競合しないし、他人を排除することはできない。とりわけ重要なのは、外部経済性である。外部経済性とは、その財の生産費用を負担しない者もその財の便益を得ることができる性質のことだ。「音楽芸術というまやかし」は、ポピュラー・ミュージックなど生産性が高い音楽の価値を高めるために利用されている。この「まやかし」のおかげで、生産性の高い音楽の希少性は増し、より高い価格を得ることができる。これが「音楽芸術のまやかし」の持つ外部経済である。「音楽芸術というまやかし」とは「西洋クラシック音楽を中心とした生産性の低い音楽を芸術だと信じ込むこと」である。したがって「西洋クラシック音楽を中心とした生産性の低い音楽を芸術だと信じ込むこと」は「ポピュラー・ミュージックを中心とした生産性の高い音楽」に対して外部経済性を持つ公共財である。
 ここまで整理して分かることは、生産性の高い音楽と低い音楽との価値のもたれ合いだ。生産性の高い音楽は、生産性の低い音楽を利用して自らの芸術的価値を高めようとする。生産性の低い音楽は、生産性の高い音楽に利用されることで外部経済性を担保し、それを公共財論の根拠として経済的価値を高めようとする。両者は相互に依存しつつ、価値の高め合いしている。
 しかし、その根拠は「音楽芸術というまやかし」なのだ。生産性の低い音楽にとって、価値の根拠が「まやかし」であることは大変危険な事態だ。生産性の高い音楽は、もともと経済的価値が高いので、芸術的価値が「まやかし」として退けられても、価値一般を失うわけではない。しかし、生産性の低い音楽はもともと経済的価値が低く、それを高めるための公共財論も「まやかし」に依拠しているので、根拠が揺らぐと価値全体を失う可能性がある。したがって、西洋クラシック音楽など生産性の低い音楽は、「音楽芸術というまやかし」以外に価値の根拠を見いだす必要性がある。本論の文脈で言えば、公共財として新たな外部経済を発掘しなければならない。そのとき「公共財としての音楽芸術」論は一歩先に進むことができるはずだ。


写真:ライプツィヒオペラ座