音楽芸術は公共財か?(4/6)

第4回 芸術というゾンビ

 「音楽芸術は公共財である」という掛け声はすでに無効だ。そのことがはっきりしているのに、あたかもそれが有効な物言いとして流通しているのはなぜだろうか。それは、旧来の音楽芸術概念がゾンビとして生き残っているからだ。それをゾンビとして生かしているのは意外にも、旧来の枠組みで非芸術とされた音楽に携わる人々である。今、音楽芸術概念を最も必要としているのは、ポピュラー・ミュージックを中心とした生産性の高い音楽ジャンルなのである。そのカラクリはこうだ。
 芸術は死んだ。それも、芸術なるものは幻想だ、なにものも旧来の意味での芸術たり得ない、という死に方をしたはずである。しかし、芸術概念はしぶとく生き残ってきたというのが実際のところだ。たとえば、19世紀半ばに始まる「アーツ・アンド・クラフツ運動」は、芸術と日用品のあいだの境界を取り除き、両者の融合を図ろうとしたが、それは日用品を芸術の地位へと引き上げようとする方向性を持っていた。デュシャンアンデパンダン展に出品した便器《泉》。それに対するネオ・ダダの反応に、彼は怒りをあらわにする。
「わたしがレディ・メイドを発見したのは、美学を失望させるためだった。ネオ・ダダでは、わたしのレディ・メイドをとりあげ、そこに美学上の美を発見した。わたしは瓶かけと便器を、挑戦のためにひとびとの面前に投げつけたのに、ネオ・ダダはそれらを美学上美しいと賞賛する。」
芸術の息の根を止めるために行ったことが芸術として理解される皮肉に、自身そうとうの皮肉屋であったろうデュシャンですら、かぶりを振ったのである。ケージの《4分33秒》を「沈黙の音楽」と評する人々も、デュシャンを誤解したネオ・ダダと軌をひとつにしている。ピアニストが音を発しない演奏会場では当然、その他の音、たとえば聴衆の咳払いや衣擦れ、空調の低い響きなどが聞こえたはずである。偶然に聞こえてくるそれらの音を、音楽芸術として聴くことをケージは教えてくれた、と考える向きもある。だが、偶然に聞こえる噪音だって美しい音楽だ、というこの考え方は、旧来の音楽芸術概念を拡張したものに過ぎない。根ざしているのが旧来の概念である以上、この考え方は、音楽芸術を成り立たせている制度を暴き音楽芸術を殺したケージの仕事を真っ向から否定している。
 このように、芸術に対する「死刑判決」が出るたびに、それに抗う勢力が存在した。人間は芸術が好きなのだ。手放したくないのだ。健康に甚だよろしくないと分かっていても、酒も煙草もやめられないのが人間である。論理的に破綻してることが分かっていても、芸術に対する帰依をやめられないのが人間なのだ。
 このことを巧みに利用し、旧来の音楽芸術概念をその懐に取り込んでいるのが、ポピュラー・ミュージックを中心とした生産性の高い音楽ジャンルである。これらのジャンルに携わる人々は、音楽芸術の概念をマーケティングに利用している。生産性が高い音楽は一般に、経済的価値は飽和しているが、旧来の音楽芸術概念に基づく芸術的価値は低い。そこで芸術的価値を高めることで全体的な価値を高め、希少性を増し、より高い価格を得ようとする。旧来の音楽芸術概念が崩壊し、それに基づく芸術的価値が幻想となってしまっては、以上の戦略を取ることができない。だから、生産性の高い音楽ジャンルは、自分たちを虐げてきた旧来の音楽芸術概念を手放さず、それを維持したまま利用するのである。
 そのことは、生産性の高い音楽をとりまく状況ににじみ出ている。たとえば、演奏者を「アーティスト」と呼ぶこと。このことは、芸術の死刑執行人のひとりであるウォーホルが、自分の仕事場をアトリエとは呼ばず、ファクトリーと呼んでいたことと見事な対照をなしている。また、ポピュラー・ミュージックの大規模なライヴ・パフォーマンスで、管弦楽団が伴奏をすること。「オーケストラの芳醇なサウンドをバックに誰某が歌う、ゴージャスな一夜」などというキャッチコピーに効き目があるのも、西洋クラシック音楽は立派なもので、このライヴはその立派さに匹敵するという思いが売り手・買い手の双方にあるからだ。
 このように、芸術というゾンビを活かすことは、それが非論理的であっても、ポピュラー・ミュージックなど生産性の高い音楽にとって望ましいことである。このことを受けて、我々は「公共財としての音楽芸術」をどのように考えたらよいだろうか。改めて公共財論へと歩みを進めたい。


写真:ベルリン州立歌劇場 (Staatsoper unter den Linden)