音楽芸術は公共財か?(6/6)

第6回 音楽芸術の新たな外部経済

 「音楽芸術は公共財である」という掛け声は、西洋クラシック音楽を中心とした音楽芸術に助成が行われることを期待して掲げられたスローガンだ。この助成は、資金提供者、一般的には納税者がその財に支払っても良いと考える費用の合計と一致していなければならない。ということは、その資金を最大化するには、納税者を積極的に説得できるだけの外部経済を持つことが必須である。公共財論を掲げるというのは、こういった目的論的な文脈に自らを放り込むことなのである。
 ところが「公共財としての音楽芸術」は現在、非常に貧弱な外部経済しか持ち合わせていない。つまり、ポピュラー・ミュージックなど生産性の高い音楽のマーケティングの道具といった程度の役割しかないのである。このような貧弱な役割しか持たないにもかかわらず、社会に一層の支援を求めるというのは大変におこがましい。いま、音楽芸術が自らを公共財であると主張し、社会の手厚い支援を求めたいのであれば、それなりの役割、それなりの外部経済を持たなければならない。
 私は、音楽芸術が政治的に利用されることこそ、外部経済の新しい形であると考えている。最近、「公共財としての音楽芸術」をめぐってこのようなことがあった。ある地方オーケストラの補助金が減額され、楽団が存亡の危機に瀕した。生き残りを目指して関係者が行ったことは、なんと署名運動だった。この運動の観点は相当ずれている。制度理論的には、補助金の減額がまさに、その楽団への芸術的評価である。したがって、補助金の復活を希望するならば、少なくとも納税者が納得するようなかたちで芸術性の充実が図られなければならないはずだ。演奏の現場で言えばそれは、より高い合奏能力の実現であったり、各時代の演奏習慣に関する知識を身につけることであったりするだろう。では、補助金カットの知らせを聞いて、必死で音階練習をしたり、音楽史の専門書を読んだりした楽団員が果たしてどれほどいただろうか。
 一方、楽団の管理部門はどうだろう。署名の通信欄やコンサートのアンケートに寄せられる応援メッセージを取りまとめるようなことは、この際まったく必要がない。必要なのは次のようなことだ。たとえば、この楽団が集中的にアウトリーチを実施した学校があるとして、その学校のいじめ発生率が地区の平均値を大きく下回っていたり、楽団創設以後は創設前と比べてその地域の転出率が減少したりという統計的事実を調査し、ときには牽強付会ぎみにでも、楽団が地域の問題解決や福祉に寄与したことを主張する。これが管理部門の行うべき仕事である。
 行政や住民は、楽団の優れた演奏を聴くことに加え、その優れた演奏活動によって楽団が、地域の問題解決や福祉に具体的に寄与することを望む。一方、楽団はそれらの活動に対する評価として公共財性を認めさせ、充分な資金を得る。私が主張する政治利用(する/される)とはこういうことだ。
 また、次のようにも提言したい。音楽家(とその関係者)は、経済権的著作権(著作財産権)を捨てて、すべての関連著作物(作曲と実演の記録と)をパブリック・ドメイン化してはどうか。経済権的著作権(著作財産権)とは、人格権的著作権(著作者人格権)である公表権・氏名表示権・同一性保持権などを除く権利で、複製権や上映権などを含む。これらの権利は譲渡可能で、売買されることもある。これらの経済権的著作権(著作財産権)を捨て著作物をパブリック・ドメイン化することは、現在「音楽芸術」が欠いている実質的な外部経済、すなわち社会に対する便益となる。「すべての人が自由に使える音楽」であることを理由に公共財としての立場を主張し、もって必要な経済的支援を得ようとするのはまことに筋の通ったことだ。
 この経済権的著作権を捨てる「戦略」は、「音楽芸術」界全体が取り組むべき課題とは言え、なにも横並びでする必要はない。あるオーケストラが、2012年の元日を持ってすべての著作財産権を放棄し、以後の利用状況を調査・報告することで、公共財としての立場を強化して補助金を得るという「抜け駆け」があっても、別段不都合はない。
 こういった提言には「そのような極端な方策は非現実的だ」という批判がつきものだ。しかし、前章までで明らかになった「音楽芸術」の現実の皮肉さ(皮肉なのは拙論でなく現実の方である!)に比べれば、以上の提言がどれだけ「まとも」な言説かは一目瞭然だ。音楽関係者が「音楽芸術」は「公共財」だから「相応の経済的な支援をよこせ」と言うのであれば、このレヴェルの戦略性は必要不可欠である。これが「公共財としての音楽芸術」論を制度理論的に考察して導かれる、「音楽芸術」の姿だ。
 いま、西洋クラシック音楽を中心とした生産性の低い音楽に従事する人々の多くが「公共財としての音楽芸術」論を誤解している。意味論的にも運用論的にも。音楽芸術かどうかを決めるのは社会だ。公共財は外部経済、すなわち社会に対する便益を持たねばならない。公共財であることを捨てる(=生産性の高い音楽になる)のも方向のひとつ(個人的にはそちらを目指すべきだと思うが、必ずしも実現可能ではない)だが、そうでなく、自分たちの音楽は「音楽芸術」で「公共財」であると主張したいなら、すべきことは署名運動などではない。音楽家よ曲をさらえ!マネージャーよ統計を見よ!「音楽芸術」界よ著作権を捨てよ!

追記1:この論考は、どうしても補助金が欲しい音楽関係者に向けて、本当のことを言ったまでのことです。他人様の金など頼りにせず独立独歩の制作に邁進している多くの尊敬すべき方々(皮肉でなく本当に)には、こんな提言とは無関係に、自らの道を進んでいただきたく思います。僕はその方が健全だと思っています。だからといって、「補助金欲しがり」の不健全な在り方自体を批判するつもりはありません。不健全なら不健全なりにきちっと戦略を練って結果の出る努力をしたら生き残れますよ、という「生き残り前提」の愛のある提言をしているつもりです。
追記2:それから、世の中にはどうしても制度理論を受け入れられない方々が一定数いらっしゃいます。そんな方にはお聞き苦しい意見が満載されていたかも知れませんが、その点はご容赦ください。それで、制度理論が受け入れられないのは構わないのですが(思想信条の自由)、そのくせ補助金は欲しがるような「さもしい真似」はおやめになった方が良いですよ、とだけ申し上げておきます。「さもしい真似」をするには「さもしい真似」をするだけの自覚と方向性の正しい努力が必要です。


参考文献
ボウモル, W. J., ボウエン, W. G.『舞台芸術--芸術と経済のジレンマ』(池上, 渡辺訳) 芸団協出版部, 1994年.
西村清和『現代アートの哲学』産業図書, 1995年.
佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会, 1995年.
スロスビー, D.『文化経済学入門』(中谷, 後藤監訳) 日本経済新聞社, 2002年.
佐々木健一『美学への招待』中公新書, 2004年.
マンキュー, N. G.『マンキュー経済学<1>ミクロ編』(足立他訳) 東洋経済新報社, 2000年, 第2版 2005年.
小田部胤久『西洋美学史』東京大学出版会, 2009年.


写真:ライプツィヒ・ゲヴァントハウス