音楽芸術は公共財か?(2/6)

第2回 公共財

 音楽には公共性がある。バッハの《平均律クラヴィーア曲集第1巻》をレオンハルトが演奏会で弾いているとき、私は家のピアノで同じ曲をつま弾くことができる。翌日、その一節を口ずさみながら散歩する人を見かけることだってあり得る。このとき《平均律》はだれにでも開かれた共有の財産だと言える。こうした観点から、音楽の公共性について議論を深めることは可能だろう。
 しかし、音楽芸術は公共財である、というテーゼとなると、ことはそう簡単ではない。このスローガンを掲げるにあたり、音楽芸術という概念の有効性や、公共財という言葉の定義について検討が重ねられた気配はない。もし検討したならば、「音楽芸術は公共財だ」などという概念矛盾した物言いは出来ないはずである。このことは今後の議論で明らかになるだろう。
 公共財という言葉を使い出したのは、生産性の低い音楽、すなわち西洋クラシック音楽を中心とする音楽ジャンルに携わる人々だ。「音楽芸術は公共財である」という掛け声は、政府の補助金等の減額が続く昨今、恵まれない音楽芸術に愛の手を差し伸べてもらうための方便である。音楽には公共性がある、という当たり前の言い方ではインパクトに欠けるので、美学上の概念「音楽芸術」と経済学上の概念「公共財」とを組み合わせて、学術用語による目くらましをしている。
 まずここでは、公共財の定義を整理し、次の議論に備えたい。
 さて、いま私が着ているセーターを、他人が同時に着ることはできない。これを消費が競合していると言う。このセーターを独占し、他人に使わせないようにするためには、これを買えば良い。そうすれば他の消費者を排除することができる。一般的な財は、この2つの性質、競合性と排除可能性とを持っている。公共財はこれとは逆に、非競合性と排除不可能性とを備えている。たとえば花火は、私が眺めると同時に他人も眺めることができる。つまり、消費が競合していない。また、私がその眺望を独占したくても、そこに集う大勢の人の目をすべて覆うことはできない。他人の消費を排除することはできない。
 花火大会には有料席も用意されている。しかし、会場に近い集合住宅の高層階にでも暮らしていれば、有料席よりも良い眺めを無料で楽しむことができる。そうなると、有料席を買う、すなわち花火を打ち上げるための費用を負担する誘因が働かず、「ただ乗り」を引き起こすことになる。花火は、その開催費用を負担しない者にとっても目の慰めとなるわけだ。このような効果を外部経済と呼ぶ。「外部経済性を持つ財から便益を受ける」、この場合ならば「花火を観る」にあたって、住民はふつう費用負担の少ない方、つまり家のベランダから無料で花火を眺める方を選ぶので、市場に任せると花火大会は決して開催されない。だから、花火大会は地域住民から徴収した税を使って公共団体が開催する。
 以上のように公共財とは、(1)非競合性、(2)排除不可能性、(3)外部経済性の各性質を備えた財、と言うことができる。外部経済を持つ公共財は「ただ乗り」を引き起こすので、市場のメカニズムに任せることができない。だから公共財には、公的な資金が投入される。「音楽芸術は公共財である」という掛け声はつまり、音楽芸術には公的資金が投入されてしかるべきだと主張していることになる。


写真:夜のベルリン・フィルハーモニー