音楽芸術は公共財か?(1/6)

 大阪での選挙結果を受けて、アートを食い扶持にする人たちや、その周辺にいる関係者が、ホビーとしてアートを愛する人びとや、別にそんなもの無くても良いというみなさんまでをも巻き込んで、かまびすしく議論をかさねておいでです。
 「補助金切るのか?上等だ!」とか「別にいいよねえ」とかの意見が交錯するのを傍目に観ておりまして、当方も意見の表明をしておいた方がよかろうという結論に達しました(なんだかエラそうですが、単に「おうおう黙っちゃいらんねえな」という東京下町のオヤジ気質丸出しなだけです)。謹んで私の考えをみなさまにお知らせいたします。
 テーマは「音楽芸術は公共財なのか?」ということ。公共経済学的見地から、はたまた美学(アートの哲学という意味です.「高倉健、男の美学」とかでなく)的見地から「音楽芸術公共財論」を批判しました。ご興味ある方はどうぞ最後までお付き合いくださいませ。全6回。不定期ですが、すでに書き終えているものなので滞りなくお届けできると思います。では、はじまりはじまり。

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音楽芸術は公共財か?

 文化、とりわけパフォーミング・アーツには金がかかると言われている。現場の人々の実感だけでなく、経済学の理論からもそれは確かなことだ。18世紀の終わりから今に到るまで、ベートーヴェン弦楽四重奏を演奏するには4人の奏者が必要で、その生産性はこの二百年、変化していない。しかし、技術革新などにより一般的な生産性は上がっており、それにともない上演に要する費用も増えている。上演の生産性は低いまま、それに要する費用は増大しているので、パフォーミング・アーツは相対的に金のかかる代物になってしまった。
 その生産性のギャップを埋めるには、受益者の負担を大きくするのが手っ取り早い方法だが、そうするとごく限られた階層の人間しかベートーヴェンにありつけなくなる。そこで登場するのが公的な助成、たとえば政府の補助金である。ここで投入される補助金は、納税者がベートーヴェンの演奏に支払っても良いと考える費用の合計と一致していなければならない。だから、納税者にアピールしてその費用を増やすことができれば、より安定した上演が可能となる。
 そのために編み出されたのが「音楽芸術は公共財である」というスローガンだ。「音楽芸術は人類の大切な共有財産だから、みんなで支援しよう」ということを言いたいのだろう。しかし、この掛け声は眉唾物である。「音楽芸術」というゾンビを持ち出した上、「公共財」という経済学の概念を誤って用いているからだ。これでは「AB型は二重人格」というのとほとんど変わらない、似非科学のたぐいである。
 そこで本論では、公共財とは何か、音楽芸術という概念は有効か、音楽芸術が公共財であるとはどういう事態か、といった視点から分析を行い、かのスローガンがまやかしであることを暴く。しかし一方で、もし「公共財としての音楽芸術」の進むべき道が残されているならば、それを模索したい。


写真:ベルリン・フィルハーモニー、幕間の風景