音楽芸術は公共財か?(3/6)

第3回 音楽芸術

 さて「公共財としての音楽芸術」は前述の3つの性質を兼ね備えていなければならないので、その音楽芸術とは個別の事柄、たとえば1回1回の演奏のことを指しているわけではない。10人が入れるサロンで演奏を行うならば、11人目からは排除されることになるし、チケット代金が定められていれば、ただ乗りすることはできない。
 公共財の条件を満たす「音楽芸術」とはつまり、概念としての「音楽芸術」だ。概念であれば、非競合的で排除不可能的な上、外部経済を持ち得る。音楽芸術が公共財なのだとすれば、その音楽芸術とは、作曲、ひとつひとつの楽曲、1回1回の演奏、そのたびごとの聴取、録音、放送、批評、教育などを総体として表現した、概念としての音楽芸術でなければならない。もちろん、その概念を担保するのは個々の音楽現象に他ならないから、昨夜子どもに歌った《ブラームスの子守唄》も音楽芸術だし、明日聴く《越天楽》の演奏も音楽芸術だ。ただ、公共財という考え方が適用できるのは最も抽象化された意味での音楽芸術である。
 では、音楽芸術とは何か。人間の行いのうち、卓越した技術によって行われ、精神の冒険性に根ざし、特定の目的だけに留まらず広くコミュニケーションを指向する活動を芸術と呼び、「音」でその活動を行えば、それは音楽芸術とされる。これが古典的な定義の一例だろう。このような芸術は、包括的な価値としての美を実現するとされ、いわゆる職人仕事との対比から高貴なものとして奉られてきた。こうした概念は容易に音楽のジャンル論と結びつく。つまり、古典的な西洋音楽史に登場する音楽を芸術とし、その他の音楽を非芸術とする考え方が固定化したのである。
 だが、こうした芸術概念はすでに何度も「裁判」にかけられ、そのつど「死刑判決」を受けて来たのではなかったか。デュシャンが、ウォーホルが、ケージが、ダントーが、ディッキーがそれぞれの分野で下した「判決」はいずれも、芸術の息の根を止めるものだったはずだ。
 デュシャンは「R. MUTT, 1917」とサインした便器《泉》をニューヨークのアンデパンダン展に出品した。「こんな便器だって、サインをしタイトルをつけて展示会場に並べてしまえば芸術作品になるではないか」という彼の問題提起は、ものを芸術たらしめる制度を暴いた点で画期的な出来事だった。ケージが《4分33秒》で示そうとしたことも同様だ。ピアニストを舞台上の楽器の前に座らせ、蓋を開け閉めさせるだけのこの「楽曲」は、「職業音楽家が演奏会場で楽器を前にして何らかの行いをすれば、それは音楽芸術として成立してしまう」というなんとも皮肉な現実を、反語的に示している。
 芸術概念へのこうした「死刑判決」を理論的にあとづけたのが、ダントーとディッキーだ。ダントーは、デュシャンやウォーホル以後の芸術がどのように成立し得るかを、次のように考えた。あるものを芸術とみなすには、そこに示されている事柄とは別の何ものかが必要で、それは芸術の歴史と理論についての知識である。この芸術の歴史と理論についての知識、そしてこれらを共有する人々によって織りなされる環境を、ダントーは「アートワールド」と呼んだ。ディッキーはこの「アートワールド」を社会制度のひとつと理解し、それを基に「芸術の制度理論」を提唱した。人間の活動が、「アートワールド」を代表する人々によって鑑賞候補の身分を与えられたとき、その活動は芸術と認められる、と彼は考えたのだ。
 以上のように芸術は、それ自体で包括的な価値としての美を実現する何ごとかではなく、「アートワールド」という制度の中に暮らす人々が芸術という身分を付与した何らかの活動のことを言う。したがって今、ポピュラー・ミュージックであろうとジャズであろうと、端唄や小唄の類いであろうと、素材が楽音であろうと噪音であろうと、また生産性が高かろうと低かろうと、音楽芸術であることが可能だ。西洋音楽史に登場する音楽だけが音楽芸術なのではない。すべての音が音楽芸術たり得る。いや、すべての音がもはや旧来の意味での音楽芸術たり得ないと言った方がよいだろう。音楽芸術という概念はすでに死んだのである。
 このような制度理論的な観点から、「音楽芸術は公共財である」というスローガンは次のように批判できる。
 「アートワールド」が「芸術という身分を付与する」という図式が社会的に最大化した場合、それは、公的機関がある種の活動に対して芸術向けの助成を行う、という形を取る。だから、社会的な支援を要請するための方便として「音楽芸術は公共財である」と声を挙げることは、倒錯した叫びと言わざるを得ない。というのも、制度的に広く認められたものが「芸術」なのであって、「芸術」だから制度的な認証をよこせ、というのは議論が逆さまだからだ。社会全体に物心両面で支えられているからこそ、その活動は制度的に「芸術」と呼ばれるのであって、満足な支援をしてくれない社会に対して「これは芸術だから制度的な支えが必要だ」と投げかけるのは、身の程知らずの要求と取られてもしかたない。もちろん実際の運用では、ある活動の「芸術性」が認められて、しかる後に助成が行われる、という順序を取る。問題はそういった助成から漏れたり、当初の見込みを減額された時で、それに対する方便として「これは芸術だからより厚い支援が必要だ」とは言えないのである。結果として社会的な支えが得られない音楽活動があるとすれば、その活動は端的に「芸術」ではない、と考えなければならない。こういった考え方に反発を感じる向きも多かろう。芸術的な価値は必ずしも助成額に反映しないと。しかしこうした反論は、旧来の芸術概念に基づいて倫理的に行われた抗弁であって、制度理論の大枠の妥当性に揺るぎがない以上、空しい反論に過ぎない。
 また、音楽芸術を特定のジャンルと結びつけることは、すでにその有効性を失っているので、生産性の高い音楽、つまり公共財の範囲に入らない音楽が音楽芸術であることも可能である。したがって「音楽芸術は公共財である」というスローガンは、「公共財ではない音楽が公共財である」という矛盾を導きだしてしまう。

追記:ディッキーが主張する「アートワールド」は、たった1つしか存在できないわけではない。異なる「鑑賞候補規定」を持つ複数の「アートワールド」が同時に存立することは、論理的にも、実際的にも可能だし、事実そうなっている。ただし、アートワールド間には大小・強弱・濃淡があり、その内、有力なアートワールドが、たとえば文化庁の審議会とその判断を追認する行政機構や国民(の一部)であったりする。


写真:ベルリン州立歌劇場 (Staatsoper unter den Linden)