「自分の内なる音」 – チョン・ミョンフンとの対話


 8月1日、アジアを代表する音楽家チョン・ミョンフントークショウと室内楽演奏会が催されました。場所は神楽坂の音楽の友ホール。音楽之友社創立70周年を記念するイヴェントのひとつとして企画されたものです。前半はミョンフンが自らの音楽観について語るトーク、後半は弦楽を従え自らはピアノを担当しての室内楽演奏。曲はブラームスの《クラヴィーア四重奏曲第3番 ハ短調》作品60で、ロバート・チェン(Vn., シカゴ響リーダー)、須田祥子(Va., 東フィル首席奏者)、ヤン・ソンウォン(Vc.)が共演しました。今回は前半のトークショウに注目し、そこでチョン・ミョンフンが語ったことをみなさんにお知らせいたしましょう。


 冒頭、進行と通訳を担当した三村京子さんがチョン・ミョンフンのプロフィールを簡単に紹介した後、主役をステージに引き入れます。トークショウの前段は、アジアフィルとの公演を前に、同楽団の成り立ちや魅力を指揮者自身がアピール。話しが俄然面白くなって来たのは中盤を過ぎたあたり、チョン氏が「オーケストラに求める音」を語りだしてから。言葉にするのがなかなか難しい分野なので、身振り手振りを交えながら丁寧に話を進めます。

 「まずは一般論から。指揮者が腕を振り下ろします。そうするとオーケストラは一斉にパンッと音を出します(腕を振り下ろした後、柏手を打つ仕草をしつつ)。これが一致した音、調和した音かというと、少なくとも私が求める『調和した音』ではありません。」
 チョン氏はオーケストラに「ただ縦横が完璧に揃った音」を求めているわけではないようです。

 「私が求めているのはこういう音です(腕を振り下ろした後、両手の指をがっしりと組み合わせる仕草をしつつ)。つまり、音には深みが必要なのです。アジアフィルは韓国人、日本人、そして中国人によって構成されています。例えばリハーサル。韓国人は時間にルーズなところがありますから遅刻をすることもしばしばです。日本人は時間通りにぴったりと集まります。中国人は『必ず』遅刻をします(笑)。そんなまちまちのバックグラウンドをもった楽団員たちが、それぞれの立場からぐっと中心に集まってくる(再び両手の指をがっしりと組み合わせる)、そういう音が私の求める深みのある音です。」

 なるほど、時間(タイミング)と空間(ハーモニー)だけではなく、そこを目指す方向性や力動性と、音楽家の出発点の多様性にチョン氏は注目している様子。団員構成が国際化した各地のオーケストラで、非西洋圏出身の指揮者が音楽作りに従事するとなると、そういうスローガンを掲げざるを得ないのは理解できるところ。小澤征爾なども同じような考えなのではないかしら。
 そんな話しを聴きつつ思い浮かんできた疑問は「ではチョン氏自身がピアノを弾く時、求める『理想の音』はどんな音で、それを実現するためにはどういう工夫をしているのか」ということ。「左手が定刻通りで、右手が遅刻してやってくるのが秘訣」ということもないでしょう(一面では当たっているかも)。他人を統率する指揮者としての理想と、ひとり孤独な独奏者としての理想は異なっていてもおかしくないはず。そんなことを、幸いにしてチョン氏に直接、尋ねることができました。

 「重要なのは自分の内なる音です。ピアノにせよヴァイオリンにせよ、技術的にどんなに上達しても、自分の内なる音に耳を傾け、それを実現できなければ意味がありません。私はピアノを弾きながら、常に自分の内なる音に耳を澄ましています。ピアノは打鍵して音を出しているわけですが、感覚としては鍵盤から音を引っ張りだしているようなイメージです。」

 つまり「自分の内なる音」=イデア、自分の演奏から発する音=その模倣ということ。ここで注意しなければならないのは、少なくともこの場合の「イデア」は「模倣」をもってしか現実化しないので、この両者は実際は不可分に結びついたもので、どちらか片方が優れていて、もう片方が劣っているという含意は全くないということです。そしてこれは、形而上学としてのイデア論ではなく、もっと演奏実践に即した言説、たとえば方法論と考えた方が良さそうです。

 そうなると重要になってくるのは、「自分の内なる音」はどのように構築されるのか、という問題です。時間の関係でそこまで議論が踏み込めませんでした。しかし、この点にこそ演奏の秘密が隠されていると言って良いでしょう。当方は後半のブラームスの演奏にこれっぽっちも感心しなかったのですが、それはまさに「自分の内なる音」の問題が絡んでいるからに他なりません。

 後半の演奏がチョン氏の「自分の内なる音」に忠実な演奏だったかどうかは、本人に尋ねてみなければ分かりませんが、そうなるように努力していたことは確かです。技術的には優れたところが多い演奏でした。しかし当方は全く感心しない。となると原因は、チョン氏の「内なる音」と当方の「内なる音」とが大幅に異なっているということに他なりません。では大幅に異なるのはなぜか、と考えを進めて行くとそれは、端的に「材料」が違うからと言えるでしょう。1953年ソウルに生まれ、幼い頃から当時の演奏を聴き、当時の演奏家からピアノを習い、米国で訓練を重ねたチョン氏の「内なる音」は、その環境=「材料」に依存しています。(矮小化するつもりはありませんが簡単に言えば)それはモダン演奏以外のなにものでもありません。チョン氏はそれを徹底的に叩き込まれ消化し血肉として「自分の内なる音」としたのです。チョン氏から四半世紀ほど遅れて生まれた当方の「内なる音」はもはや、モダン演奏だけで出来ているわけではありません。古楽演奏が普通のこととなった時代に構築された「内なる音」が、モダン演奏一色の時代に形成された「内なる音」と異なるのは当然です。

 大切なのは、こうした違いが生じうることを含意した方法論をチョン氏が採っていることです。相対主義的にモノを考えた上で、自分の立場を守りつつ、為すべき演奏をする。アジアフィルをまとめる「棟梁」はそのくらいの度量がないと務まらないということでしょう。当方がこのピアニスト・指揮者の音楽に感心することはそうそうないと思いますが、チョン・ミョンフンが確固とした思想を持った音楽家のひとりであることは確かだと思います。


写真:チョン・ミョンフン