古楽に指揮者は必要か? – バルトルト・クイケンとの対話


 6月30日、バルトルト・クイケンによる古楽セミナーが、東京音楽大学で開催されました。クイケン三兄弟の笛担当・バルトルトがラ・プティット・バンドの公演の合間を縫って登壇し、バロック音楽の演奏法について簡単にレクチャー。つづいて同大学の学生を相手にフラウト・トラヴェルソのレッスンを行いました。それを受けて最後に質疑応答の時間が持たれ、活発な議論が展開されました。今回はその質疑応答の一場面から、演奏家の指向と指揮者の必要性について考えをめぐらせます。

 当方がクイケンに尋ねたのはこんなこと。
 「指づかいと音色の関係について、興味深く聴きました。それに関連して、モダン・フルートで18世紀の音楽を演奏する際の留意点についてうかがいたい。たとえば、バッハの《ヨハネ受難曲》第9曲のアリア『Ich folge dir gleichfalls, mein Heiland』。この曲は変ロ長調で、D管のフラウト・トラヴェルソではクロス・フィンガリングが多くなります。『主よ、あなたについていきます』と喜びにあふれて歌う曲ながら、フィンガリングのせいでくぐもった音色になり、その『足取り』はおぼつかないように聴こえます。しかし、それこそバッハの狙いだった、と考えられます。
 モダン・フルートの演奏では往々にして、この部分を均一の音色で大変上手に吹き切ってしまいますが、それはバッハの狙いを実現していない点で、望ましいとは思えません。そこで、モダン楽器でこのアリアの『おぼつかない足取り』を実現するためには、どのような点に留意して演奏すべきでしょうか?トラヴェルソを模倣する方向性もあるでしょうし、他の方法をとる方向もあろうかと思います。お考えをお聞かせください。」

解題:バッハの《ヨハネ受難曲》第9曲「私もまた、あなたについて行きます Ich folge dir gleichfalls, mein Heiland」はソプラノのアリアで、フラウト・トラヴェルソ(I と II のユニゾン)がオブリガートを担当します。アリアが歌われるのは「ペテロの否認」の場面。福音書記者が「シモン・ペテロともうひとりの弟子がイエスについて行った」と聖書の句を朗唱し、ソプラノのこのアリアが続きます。そして、ペテロがイエスを3度否認し、鶏の鳴き声によってその躓きを悟る有名なシーンへ。この一連の流れの中に第9曲を位置づけるならば、口では調子の良いことを言っているペテロの、その実、不確かな信仰を表現したアリアであると考えるのが、妥当な解釈と言えましょう。ですから、一見喜びにあふれる音楽でも内実は不安定、という難しい表現が求められます。バッハはここで変ロ長調のアリアにD管のトラヴェルソを(もしくはD管に変ロ長調を)充てました。先述のように、不安定感を表すのにまことに相応しい処置です。

 この問いに対しクイケンは、トラヴェルソとモダンフルートの実演を交えながら、答えてくれました。曰く、
「モダン・フルートの音響を活かした吹き方をすれば良い。モダン・フルートにはモダン・フルートの鳴らし方があり、古楽器を模倣したり、わざわざ『よろよろ』した吹き方をしたりする必要はない。モダン・フルートで一番望ましく響く吹き方でこのアリアにあたればよい。」
とのこと。賢明なみなさんはお気づきの通り、クイケンは当方の質問に正面からは答えていません。当方の質問は、前提(第9曲の解釈)を整えた上で、その前提が仮に正しいとした場合、モダン・フルートには具体的にどういう表現技法があり得るかを尋ねています(さしあたり質問者の前提を了として回答し、しかるのち前提の問題点を指摘するのが質疑応答のルール)。
 一方、クイケンは、そもそも《ヨハネ》第9曲のフルート声部を「おぼつかない足取り」とは考えていないのです。もっと正確に言えば、クイケンには「下手っぴい」に演奏する、という概念がないのです。これは演奏家として至極当然の矜持であるように思います。演奏家が良心的であればあるほど、「下手っぴい」に演奏するなどということは自分の演奏範疇から遠ざかって行くものです。
 だからこそバッハは第9曲のアリアを変ロ長調で書いたのでしょう。もし当時のフルート奏者が、受難曲全体の表現のためにこのアリアは「おぼつかない足取り」で吹こう、と思えるような人物だったなら、バッハはこのアリアを吹きやすいイ長調で書き、演奏するときに「少し下手っぴいに吹いて」と当人にひとこと言えば済んだはずです。でも、バッハはそうせず、とても吹きにくい上に、どんなにうまくやっても音がこもる変ロ長調でアリアを書きました。
 演奏家の職人的良心というのはときに、全体への奉仕を忘れることがあります。ただ、その責任を演奏家に負わせるのは酷というものです。そこで調整役として登場するのが指揮者です。誤解を恐れずに言えば指揮者は、演奏家に「下手な演奏」をさせるためにいるわけです。良心的な演奏家であれば放っておいても上手に演奏します。しかし、その上手な演奏が全体に奉仕しない場面もある。それを調整するには「楽器を持たない演奏家」が必要です。修辞法や象徴法が盛んだった時代の音楽を演奏するにはなおさらのこと、と言えましょう。
 楽器専門職人としての矜持より、楽曲全体の彫琢を優先しようとする音楽家がまれに現われます。そういう人物は指揮者として活躍する傾向があるようです。アーノンクール(チェロ)然り、インマゼール(鍵盤)然り、アントニーニ(リコーダー)然り。同じトラヴェルソ奏者で比べてみれば、専門職人派と全体彫琢派の違いは明瞭です。専門職人派のバルトルト・クイケンに対し、全体彫琢派のフランス・ブリュッヘン。両者の演奏スタンスやその後のキャリアの積み方を比較してみれば、この2派の視線が異なった方向を向いていることは明らかではないでしょうか。


写真:グレンザー《フラウト・トラヴェルソ 替管7本/ケース付》ドレスデン, 1780年ニュルンベルク・ゲルマン博物館所蔵)