国際マーラー音楽祭(8)「ハーディング版《少年の魔法の角笛》」



 ダニエル・ハーディングに初めて会ったのは3月10日。あの震災の前日のことです。新日本フィルとのマーラー《第5番》のリハーサルと、その後の彼との対話を通して、ハーディングがどんな指揮者か、その一端を感じ取ることが出来ました。その時の様子は「ダニエル・ハーディングは何型か?」をご覧下さい。
 さてそのハーディングが25日、マーラー音楽祭に登場。マーラー・チェンバー・オーケストラとともに、交響曲楽章《花の章》、《少年の魔法の角笛》、《交響曲第四番》に挑みます。独唱はモイツァ・エルトマン。
 この日も3月に感じたハーディングの長所が出た良い演奏会でした。抑え気味の楽団編成(Vn.Iが12人)が親密な歌曲の世界を作り上げていきます。各声部の精度と迫力とのバランスが取れた適正な楽団規模。内声もしっかりと存在感を示し、華奢だけれど立体感のあるサウンドです。ソプラノは一貫してマーラーの歌曲世界に寄り添う姿勢を見せますが、若干音色のパレットが少ない様子。しかし、細いながら遠くまで届く彼女の声は《第四交響曲》第4楽章「天上の生活」にはもってこいです。
 またこの日の演奏会は、プログラムにも工夫が光りました。前半と後半の演目を有機的に繋げ、全体で《交響曲第四番》の世界を彫琢していきます。この工夫を理解するには、いくつか押さえておかなければならないポイントがあるので、まずは当夜のプログラムを振り返っておきましょう。



01.《花の章 Blumine》(第一交響曲旧稿第二楽章)
02.「無駄な骨折り Verlorne Müh'」(以下《少年の魔法の角笛》)
03.「この歌を作ったのは誰? Wer hat dies Liedlein erdacht?」
04.「この世の生活 Das irdische Leben」
05.「ラインの伝説 Rheinlegendchen」
06.「美しいラッパの鳴り響くところ Wo die schönen Trompeten blasen」
07.《第四交響曲》第1楽章
08.《第四交響曲》第2楽章
09.《第四交響曲》第3楽章
10.《第四交響曲》第4楽章(《角笛》旧第5曲「天上の生活」)


 緑色管弦楽だけで演奏するもの、橙色声楽が入るもの(灰色については後述)。これはそのまま「男性視点」と「女性視点」の区分けにもなっています。というのも、《花の章》はもともと、不在の女性をいとおしむセレナーデ(男性視点)、「無駄な骨折り」は「彼」を誘惑しようと手を尽くす「彼女」の歌(女性視点)、「ラインの伝説 」は乙女が恋人を引き寄せようとするライン黄金伝説の歌(女性視点)というように、内容から男女の視点を分けることが出来るから。この「管弦楽声楽男性女性」が、当夜のプログラムの大枠と言えます。これが第1のポイントです。
 第2のポイントは「闘いと、勝利の幻」です。戦死した兵士の霊が恋人と語らう「美しいラッパの鳴り響くところ」。兵士(男性)が戦死している以上、これは残された恋人(女性)の心中の対話ですから女性視点。ではこの兵士、何の闘いに散ったのでしょうか。
 それを表しているのが《交響曲第四番》の第1楽章から第3楽章です。19世紀初来の交響曲の図式「闘いと勝利」。ベートーヴェンの《第五交響曲》に典型的なこの構図を、マーラーはこの《第四番》で無力化してしまいました。第1楽章では「鈴の音」や「夢のオカリナ」でソナタ形式をちゃかし(形式の破壊)、第2楽章では変則調弦(スコラダトゥーラ)のヴァイオリンが死神を象徴します(楽器法の逸脱)。第3楽章は緩徐な複変奏のスタイルから金管の「勝利」のファンファーレへと登り詰めながら、引き潮のように音楽は収束して行き、第4楽章に静かにすべり込むのです(「勝利」の無力化)。

 こうして「闘争と勝利」という旧来の交響曲の図式は敗れ去りました。これこそ兵士が参加した闘いとその末路です。(この理解に従えば《交響曲第四番》の第1楽章から第3楽章は一貫して兵士=男性の視点ということになります。)
 第3のポイントは「この世の生活 」と《交響曲第四番 ト長調》第4楽章「天上の生活」との関係。創作史は次の通りです。両者は当初、同じ歌曲集にまとめられ(1893年)、その後「この世の生活」が《少年の魔法の角笛》に残る一方、「天上の生活」が構想段階の《第三交響曲》に転用され(1895年。のちに削除)、さらにそれが《第四交響曲》の第4楽章として日の目を見ました(1900年)。
 1893年段階の《少年の魔法の角笛》では「この世の生活」と「天上の生活」とは対応する2曲として構想されていました。実際、子供を餓死させる母親の歌「この世の生活」と、子供が天に昇り食に困らぬ御国の様子を語る「天上の生活」とが内容の点でつながりを持つのは明らかです。なお先述の表で「天上の生活」の色分けが灰色なのはその視点が子供のもの、すなわち中性の視点だから(ドイツ語で「子供」を表す"Kind"は中性名詞)です。ソプラノのエルトマンが「子供らしい明朗な表現で」というマーラーの指示を後生大事に守りつつ歌ったことも、この「天上の生活」の中性性をより強めてくれました。

 当夜のプログラムは管弦楽曲と《角笛》の歌曲を組み合わせて、1893年マーラーの構想を再現したというわけです。したがってこのコンサートは、《第四交響曲》+αの演奏会なのではなく、全体として「ハーディング版《少年の魔法の角笛》」の演奏会だった、と言えます。全体に「死の影」が濃厚で、アイロニーの利き具合もスポイルされていない。なかなか上首尾のプログラミングだったのではないでしょうか。このハーディング版《角笛》から具体的な「物語」を描いてみるのも良いですが、むしろ関係性の網目をあちらに行ったりこちらに行ったりしながら聴くほうが、マーラーの《角笛》の構想に近い気もします。
 マーラー交響曲全曲リレー演奏会、という音楽祭のコンセプトからすると、このハーディングの試みは変化球。しかし、こういう演奏会こそマーラーという人の音楽に寄り添っているような気がします。

追記:ちなみに、当方のシャイー&ゲヴァントの演奏会への割当てが最終日に当たっているため、次回はガッティ&ヴィーン・フィルの《第九交響曲》をリポートします。


写真:(上)ダニエル・ハーディング/(中)モイツァ・エルトマン/(下)マーラー・チェンバー・オーケストラ  2011年5月25日, ライプツィヒ・ゲヴァントハウス大ホール