国際マーラー音楽祭(6)「26時間マーラー・マラソン、ゴールはゲルギエフ」


 26時間マラソン、22日の22時過ぎに無事完走!ゴールはゲルギエフ指揮、ロンドン交響楽団の《アダージョ》(第十交響曲より)と《交響曲第一番》でした。《交響曲第一番》がメインディッシュなのですが、この日の白眉は《アダージョ》のほうだったと思います。
 この《アダージョ》は20日のメルクル&中部ドイツ放送交響楽団(MDR響)でも《第十番》の第1楽章として聴いています。ですから、ここで比較の視点が入るのは致し方のないところ。純技術的な問題として、MDR響に比べロンドン響が総合的に上回っていることは明らかです(1.5段くらい水準が違う印象)。

 極度に職人的な弦楽器と超優秀かつパワフルな管楽器が「愛の理想世界 – カタストロフ – アルマとの出会い」という《アダージョ》の流れを見事に縁取って行きます。なにしろ、力強く破綻のない金管のfffが鳴り響く中、弦の手抜きのない仕事がしっかりと聴こえてくるのですから、ロンドン響の合奏力とゲルギエフのバランス感覚には感心しきりです。
 メルクルがMDR響の技術的な欠点を個性と捉え、《交響曲第十番》全体の組み立てに寄与すべく、あえて「安いロマンティシズム」あふれる《アダージョ》を敢行したことは効果的だったし、そのおかげで《交響曲第十番》はとても興味深い演奏になりました。評価しています。しかし、仮にこの《アダージョ》だけを取り出して演奏会に掛けるとしたら、ゲルギエフ&ロンドン響の水準が必要だと思います。

 ゲルギエフの演奏を聴いたのは2004年、都響とのストラヴィンスキー詩篇交響曲》と《結婚》が最後だからずいぶん昔。このときも感じましたが当夜も、少し神経質なくらいに音響バランスに気を配る人だな、という印象。ただ2004年と違うのは、より実のあるサウンドとしてそれが感じられたところでしょうか。
 ゲルギエフは前景(主旋律)・後景(伴奏)という「書き割り」的な音響配置をしません。正面から見た時だけまともに見えるようなバランス取りはしない、ということ。金管セクションは太く高い柱として、弦楽セクションは空間を滑らかに上下するスロープとして、木管セクションは素材感のある壁として。並の指揮者の作る音楽が芝居の大道具のようなものだとしたら、ゲルギエフが作り出す音楽は建築そのものです。それが際立つのも、会場がゲヴァントハウス大ホールだから。この分解能に優れた会場を上手く利用した《アダージョ》は、見事の一言に尽きます。ゲヴァントハウスの音響を味方に付けた指揮者が結果を出す、という初日の直感は外れてはいなかったようです。
 もちろん《交響曲第一番》でも、ゲルギエフのバランス感覚とそれに応えるロンドン交響楽団の合奏力は健在。佳演でした。しかし前半にあの《アダージョ》を聴いてしまうと、さすがの交響曲もかすんでしまいます。ひとつの楽章でこの「破壊力」。このコンビで《第十番》全曲が聴けるのなら、ぜひ足を運びたいところです。
 さて月曜日のハンプソン、ギルバート&ニューヨーク・フィルは大人気で、チケットが手に入りませんでした。残念。当方、録画・録音・ネット配信を見聴きして演奏会評を書くようなことはしませんので、当ブログの評もお休みです。次回はジンマン指揮、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の《交響曲第六番》です。


写真:(上)大活躍のロンドン交響楽団ホルン隊/(下)ヴァレリーゲルギエフ
      2011年5月22日, ライプツィヒ・ゲヴァントハウス大ホール