国際マーラー音楽祭(5)「26時間マーラー・マラソン、折り返し」



 21日の午後8時にスタートしたマーラーラソンも早、折り返し地点。11:00からファビオ・ルイージ指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の《葬礼》と《大地の歌》をゲヴァントハウスで聴いてきました。
 前半、《交響曲第二番》の第1楽章に採用された交響詩《葬礼》の演奏。ロマン派以降の「息の長い旋律線」を前にすると、アーティキュレーション(旋律の分節法)の概念を忘れてしまいがちですが、それをなおざりにしておくと、べたーっとした音の流れが通り過ぎるだけの演奏になります。そこはルイージとコンセルトヘボウ、切るところは切る、つなげるところはつなげる、その根拠は拍子とリズムと和声進行、なによりマーラーの指示、ということが徹底しています。徹底しすぎて、多少メリハリの利きすぎた部分すらあります。とはいえ、ロマン派と言えどアーティキュレーションを等閑視しない演奏は、楽曲を思いのほか立体的に彫琢してくれます。ライブで聴くにはそういう演奏のほうが好もしいですね。《大地の歌》に向け見事な「序曲」となりました。

 本割の《大地の歌》でも、そんな演奏者の姿勢は活きていて、それはとりわけ最終楽章で発揮されていました。この楽章では「ラメント・バス(半音順次下行旋律)」や「ため息のモティーフ(スラーの付いた二度下行音形)」など、「悲しみ」を表現するバロック期来の音楽修辞法が登場し、「告別」の標題を縁取って行きます。ルイージはそういった点も埋没させずにきちっと仕事を施していきますので、基本古楽で出来ている当方の耳はもう「なんと悲壮なことか」と、これまたしっかりと反応してしまうわけです。

 ここで、はたと膝を打つ。この《大地の歌》が担った役割「歌曲の交響化」とは、すなわち「歌曲の公共化」のことでした。個人的な感情の発露としての歌曲、それを交響化することで、いまいちど音楽の感情表現を公共化する。これがマーラーの狙ったことのように思います。そのためには、バロック期や古典期のように感情を類型化する必要があり、その具体的な方法は音楽修辞学に求めるのが筋、ということです。そういったことを分からせてくれる演奏はとても稀。ファビオ・ルイージの知性と、ロイヤル・コンセルトヘボウ管の合奏力に心からの拍手を送ります。
 折り返しまではなかなか好調なペースで。あとはゲルギエフ&ロンドン響の《交響曲第一番》で見事なゴールとなるか?開演が待ち遠しく感じます。


追記:いまさら気がついたのだが、「歌曲の交響化」が「個人的感情の公共化」を目指していたのだとすると、この「個人的感情の公共化」というのはまさに、フロイトがしようとしていたことに他ならないのではなかろうか。ここでもまた、世紀末ヴィーンの知的潮流が顔を出している。そしてマーラーを媒介に、フロイト心理学と音楽修辞学が繋がる不思議。


写真:(上)ファビオ・ルイージロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団/(下)ルイージ、アンナ・ラーション(Alt)、ロバート・ディーン・スミス(Tenor)
2011年5月22日, ライプツィヒ・ゲヴァントハウス大ホール