国際マーラー音楽祭(4)「26時間マーラー・マラソン、スタート!」
21日午後8時からは、26時間でマーラーの演奏会に3度出かけるスケジュール。この音楽祭でもっとも過酷な(?!)タイムテーブルに突入です。21日夜にヤニック・ネゼ=セガン指揮、バイエルン放送交響楽団の《交響曲第七番》を、22日昼にファビオ・ルイージ指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の《葬礼》と《大地の歌》を、22日夜にワレリー・ゲルギエフ指揮、ロンドン交響楽団の《アダージョ(第十番より)》と《交響曲第一番》を聴きます。
スタートはネゼ=セガン&バイエルン放送響の《第七番》。バイエルンの安定感と言ったらないですね。スタイリッシュで合理的、落ち着いていているけれど突き放したところがない。要するに職人的な手さばきです。こういう「大人」の楽団が《第七番》を演奏するとたいへん効果的。
各所に仕掛けられた「小道具」(テノールホルン、ギターやマンドリン、ヴァーグナーの引用など)が異化効果を持つのも、地の演奏がしっかりとしているから。マーラーの狙い、「交響曲自身が交響曲を揶揄する」自己言及が極まるのが、キッチュ的に対置させられた夜(第2楽章・第4楽章)と昼(第5楽章)において。この昼のどんちゃん騒ぎを、涼しい顔で進めていく(もちろん音楽的には盛り上がっていますが…)楽団の冷静さによって、最終楽章の持つ「白々しさ」は極大化されるわけです。
それで当夜、最も驚いたのは、その「白々しい」第5楽章が終わった途端、聴衆の大喝采が始まったこと。もちろん優れた演奏でした。その優れ振りは、マーラーの仕掛けた自己言及 – もはやベートーヴェン来の「交響曲物語」はこんなにも白々しいのだよというメッセージ – を見事に示した点にあります。だから「なんと小うるさいわざとらしい曲であることか」と思いつつ拍手するのが《第七番》後の聴衆のしかるべき反応のはず。でも、そうはなりません。
で、そんな当夜の聴衆を批判するつもりは毛頭なくて、なるほど、もはやマーラーが仕掛けた自己言及すらも新たに物語化されて、「ふつう」に受け取られてしまうようになったか、と思い到った次第。この聴衆の反応はまるで、デュシャンがアンデパンダン展に出品した便器《泉》に対するネオ・ダダの反応と軌をひとつにしているようです。デュシャンはこう言います。
「わたしがレディ・メイドを発見したのは、美学を失望させるためだった。ネオ・ダダでは、わたしのレディ・メイドをとりあげ、そこに美学上の美を発見した。わたしは瓶かけと便器を、挑戦のためにひとびとの面前に投げつけたのに、ネオ・ダダはそれらを美学上美しいと賞賛する。」
芸術の息の根を止めるために行ったことが芸術として理解される皮肉に、自身そうとうの皮肉屋であったろうデュシャンですら、かぶりを振りました。交響曲の息の根を止めるために行ったことが交響曲として喝采を浴びる事態を目にしたら、マーラーならどう思うのでしょうか。興味深いところです。